「子供がいなくて良かった」と妻の死を笑った家族へ――契約金は一銅貨も渡さず、俺は彼女の夢を叶えに旅立つ
エララの作るシチューには、いつも微かに甘い草の香りが混じっていた。
俺がその香りを初めて嗅いだのは、もう五年も前のことだ。
薬師の見習いだった彼女が、お世辞にも広いとは言えない裏通りの薬草店の軒先に立って、干したハーブを束ねていた。
風が吹いて束がほどけ、細かい葉が宙に散った瞬間、彼女は笑った。
困った顔で笑った。
俺はそこで完全にやられた。
それから二年後に俺たちは結婚し、街の外れに小さな家を借りた。
俺は中堅の魔導具職人として細々と稼ぎ、エララは薬師として独立し、解熱や傷薬に使う廉価なポーションを製造・販売していた。
豊かではなかったが、不足もなかった。
二人の夜は決まって同じキッチンで始まり、大抵の会話は夕食の鍋の前で終わった。
あの夜もそうだった。
「今日のシチューも美味しいよ」
俺は言った。スプーンを置いて、少し考えてから続けた。
「でも、そういえば……昔、一度だけ作ってくれた紅宝香入りのやつ、あれが忘れられないんだよな。またいつか食べたい」
紅宝香というのは、この辺りの森の奥にしか自生しない希少なスパイスだ。
乾燥させた実を砕くと、甘みの中に微かな刺激が混じった複雑な香りが立ち、シチューに加えるとそれだけで別の料理になる。
値段も張るし、街の市場にはまず出回らない。
エララは笑った。
「覚えてたの。あれ、お義父さんが山から持ち帰ってくれたやつだったのよ」
「そう。だから二度と食べられないと思ってたんだけど」
「ふふ、考えておくわね」
それだけの会話だった。
本当にそれだけの、どうということもない夜の話だ。
俺は翌朝、いつも通り工房へ出かけた。
昼に完成した注文品を納品し、ギルドで次の素材調達の話をして、夕暮れ前に帰路についた。
衛兵が俺を待っていたのは、家まであと二曲がりという路地の角だった。
「レオン・グレイズ殿……エララ様が」
衛兵の顔を見た瞬間に、わかった。
声を聞く前から、全部わかった。
遺体安置所の石のテーブルの上で、エララは驚くほど穏やかな顔をしていた。
街の外縁部の森で、はぐれたフォレストウルフの群れに襲われたのだという。
複数の深い爪傷。おそらく即死だったと衛兵は言った。
「苦しまれなかったと思います」という言葉が、俺の耳の穴に入ってきて、意味を失ったまま消えた。
俺は彼女の手を取った。
冷たかった。
指の間に、小さな麻布の袋が握られていた。
紐をほどくと、甘くて刺激的な香りが広がった。
紅宝香だった。
俺が「食べたい」と言わなければ、彼女は森の入り口になど行かなかった。
昨夜の自分の何気ない一言が、頭の中で何度も何度もリフレインした。
スプーンを置いて、少し考えて、「あれが忘れられないんだよな」と言った自分の声が、悪夢のように繰り返し蘇った。
俺は安置所の床に膝をついて、声を殺して泣いた。
◇
葬儀は三日後、街の南端にある神殿で行われた。
エララの両親、テオドルとマリアは、遠方から一昼夜かけて駆けつけてくれた。
二人とも引退した高ランクの冒険者で、かつては大陸でもその名を知られた存在だったが、今は静かな田舎町で農園を営んでいる。
俺は式の後、二人の前に膝をついた。
「申し訳ありません。俺の……俺の我が儘が、エララを」
声が続かなかった。石畳が滲んで見えた。
テオドルの大きな手が、俺の肩に置かれた。
「顔を上げなさい、レオン」
低くて穏やかな声だった。
「あの子は自分で決めてそうしたんだ。お前を愛していたから、お前の喜ぶ顔が見たかったから、自分でそう決めた。それはお前の罪じゃない」
マリアが隣でハンカチを目に当てながら言った。
「あなたが幸せにしてくれたわ。五年間、本当に幸せそうだった。あの子の笑顔を、最後まで守ってくれてありがとう」
俺は二人の前でもう一度泣き崩れた。
慰めてくれる資格がない人間に、二人は惜しみなく言葉をくれた。
帰り道、俺は一つのことを決めた。
エララがギルドに掛けていた「命の契約金」は、冒険者ギルドと薬師ギルド双方の規約により、金貨三百枚を超える額が遺族に支払われる。
さらに彼女が開発した複合傷薬の特許権料が、毎年一定額、契約先の商会から振り込まれる手はずになっていた。
それを、すべて義両親に渡そうと思った。
妻を死なせた俺に、その金を受け取る権利などない。
◇
義両親と手続きの段取りを話し合った翌日、俺は疲れ果てて家に帰った。
扉を開けた瞬間、知らない笑い声が聞こえた。
居間に、実母のセルマと、弟のダンク、その妻のフリアが座っていた。
三人は俺の高価な茶器セットで茶を飲み、エララが大切にしていたレースのテーブルクロスの上に菓子のくずを散らかして、何かを楽しそうに話していた。
「あ、兄貴! おかえり!」
ダンクが立ち上がり、羽毛の詰まったクッションをぽんと叩いてから、俺に向かってにかっと笑った。
「ちょうど良かった、見てくれよこれ」
テーブルの上に広げられたのは、何枚もの羊皮紙だった。
緻密に書き込まれた間取り図と、王都の地図。
「王都の高級住宅街に土地があってさ。三階建ての豪邸が建てられるんだ。一階は広間と台所、二階に俺たちの部屋、三階に母さんの部屋。兄貴と兄貴は……えーと、屋根裏に二部屋作ってやるからさ。一緒に住もうぜ!」
俺は図面を見た。見て、弟の顔を見た。
弟は本気で嬉しそうだった。
「資金は」
俺は言った。声が出たのが不思議だった。
実母が茶器を置き、ふふ、と笑った。
「エララさんの命の契約金が金貨三百枚以上下りるんでしょ。子供もいなかったし、遺族はあなただけ。丸々入ってくるじゃない」
俺は黙っていた。
「子供がいなくて本当に良かったわ。あの女も最後に少しは家の役に立ったわね」
部屋の中の音が、全部消えた気がした。
エララの。
エララの死を、金として計算している。
俺の実の家族が。
金貨何枚、子供がいなくて良かった、最後くらい役に立った。
怒りが来るかと思った。だが来なかった。
代わりに何かが、胸の奥でぱきりと折れた。
澄んだ音を立てて、綺麗に折れた。
「……そうだな」と俺は言った。「少し考えさせてくれ」
三人は顔を見合わせて笑い合った。
◇
翌朝、俺は夜明けとともに動いた。
最初に向かったのは商業ギルドの法務部だ。
魔法契約の専門官を呼んでもらい、テーブルに書類を並べた。
命の契約金の全額と特許権料の受取権を、義父テオドルとその妻マリアに完全移譲する「不可逆の魔法契約」。
一度結べば術者も立会人も、いかなる理由があっても取り消せない、魔力で刻まれた正式な法的拘束だ。
「本当によろしいのですか」と専門官が言った。「金貨三百枚を超える譲渡ですよ」
「構わない」
羽ペンを取って署名し、魔力を流した。
羊皮紙の端が淡く光り、契約の証明として浮かび上がった紋章が固定された。
その瞬間、俺はむしろすっきりとした気持ちになった。
次にギルド長を訪ねた。
「実家族との絶縁状を作りたい。ギルド立会いのもとで」
ギルド長は事情を聞くと眉ひとつ動かさず、「承知した」と言って書記を呼んだ。
今後一切の金銭的援助を行わない、居所を知らせない、接触があった場合はギルドが証人となって法的対処を取る、という文書を二部作成し、一部はギルドの保管庫に収めた。
実はここで、俺はある事実を知っていた。
ダンクは、命の契約金が入ることを見越して、すでに王都の土地の頭金を払っていた。
払った先は、街の裏で知られた闇金融の商人だ。
正規の金融機関では相手にされないような高利の借金を、頭金分だけ先に組んでいたのだ。
合計で金貨五十枚超。利子の設定は月二割。
命の契約金が入れば即返済するつもりだったのだろうが、その算段は今朝の魔法契約で永遠に消えた。
俺はそれを知っていて、何もしなかった。
一銅貨も。一言も。
数日かけて、家の中から自分のものをリュックひとつに詰めた。
着替え数枚、工具の一部、路銀になる金貨若干、そしてエララの形見のペンダント。
赤い石が嵌まった小さな真鍮の楕円で、一番最初の誕生日に俺が贈ったものだ。
最後に一つだけ、居間のテーブルに置いていくものを用意した。
記録の魔石。
拳ほどの大きさの半透明の石で、術者が声と表情を込めて意志を吹き込むと、触れた者にその映像と音声を直接流し込む魔道具だ。
俺は魔石に手を当てて、魔力を込めた。
静かな声で、ゆっくり言った。
「お前たちが当てにしていた金は、一銅貨も残っていない。全額、義父母のもとへ法的に移譲済みだ。不可逆の魔法契約なので、神の力でも覆せない。豪邸の夢は諦めろ。そしてダンク、お前が組んだ闇金の借金については、俺は一切関知しない。自分で這いつくばって返せ。人の命を金としか見られない者たちに、これ以上言葉をかける気はない。達者でな」
魔石が淡く光り、記録が固定された。
俺は扉を開けた。
外は朝の光が街路石を金色に染めていた。荷馬車が一台、遠くをのろのろと進んでいた。
◇
俺が家を出て三日後、ダンクとフリアと実母の三人が借金取りに追い立てられて空き家に転がり込んだと、後で義父から手紙で聞いた。
魔石に触れた三人は、声を失うほど激怒したらしい。
近隣の住民が見物したという話も添えられていた。
義父は手紙の末尾に短く書いていた。
「よくやった」と。
俺は今、長い街道を歩いている。
行き先は、エララがずっと行きたがっていた場所だ。
「ねえレオン、世界樹の森って本当にあるのかしら。木が空まで届くくらい大きくて、葉っぱが光るって話、絵本で読んだの。いつか二人で見に行きたいな」
夕食の後、薬草の図鑑をめくりながら、彼女が言っていた。
水晶の湖の話もした。
満月の夜に湖面が光って、空の星と区別がつかなくなるという伝説の場所。
二人で行くはずだった場所を、今は一人で回る。
馬鹿みたいだと思う。
だがそれ以外に、今の俺に思い浮かぶことがなかった。
ペンダントが胸元で揺れた。
道の先で、風が吹いた。
甘くて微かに刺激的な、草の香りがした。
俺は歩き続けた。




