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燃える避難所  作者: 妙原奇天


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第八話 終火

 重機の歯が外側で土を噛む音は、腹の底に鈍く響いた。鉄のスプーンで岩を削るみたいに、規則正しく、容赦がない。前室の覗き窓は曇っていて、ガラスの内側をすすの帯がゆっくりと這っていく。炎はさっきよりも弱い。鳴っていた金属の唸りは、今は短く、間が長い。たぶん、火の背丈が下がっている。だが、誰も油断しない。ここでは、目の前の沈黙がすぐに牙をむく。


 「開けます。中の方は下がってください」


 拡声器の声が、土の層を透かして落ちてきた。遠いようで近い。近いようで遠い。奥田がすぐに声を張る。


 「全員、壁際だ。子どもを真ん中に。負傷者は座る。前室側、三歩下がって止まれ。圧の差は外が上。隙間は最小。開けた瞬間に冷気が走るから、顔を上げるな」


 言い切る間にも、彼は頭の中で想像の計器を見ている。押し寄せる冷気と残った熱のぶつかり合い。陰圧と陽圧の境目は、音と匂いの形をしている。計器は壊れている。壊れた計器は、経験を王にする。王は、吉住だ。吉住は前室にいる。姿は、覗き窓の曇りに隠されて見えない。


 玲は名簿の最後の行に、小さな点を打った。句読点ではない。点は、呼吸だ。ここにいる、という証のように、小さく、黒く、紙の上に残る点。手は汗で湿っている。鉛筆の芯は短く、指は黒く汚れていた。


 「下がって!」


 拡声器の声が、もう一度、強く落ちた。重機の音が止み、外のざわめきがひと呼吸ぶんだけ薄くなる。扉のレバーが外側から動き、古い鉄が歯を噛み合わせる音が、骨の内側で鳴った。空気が絞り出される。次の瞬間、冷たい外気が針の束になって、隙間から本室に飛び込んでくる。頬が刺され、鼻腔の奥が凍る。火は怯んだ。覗き窓の赤は一段落ち、煤の帯がふっと細くなった。


 「いま!」


 消火隊の腕が扉の間から伸び、蛇腹のノズルが前室へ噛み込む。白い泡が、壊れた雲みたいに押し寄せる。音もなく、前室の床を滑り、壁を這い、覗き窓の縁を飲み込む。泡は熱を奪い、火の形を崩す。黄色は白に吸われ、青は灰色にほどけ、赤は薄く失せた。前室の向こうで、小さな破裂音が一度、ふたたび、三度。火は、その都度、縮み、諦める。


 「終火」


 誰かが呟いた。言葉は小さいが、場の重心をわずかに動かした。終わった。いや、終わらせた。泡に埋もれた覗き窓の向こうは、もう赤くない。煙は残っている。鈍い帯になって、ガラスに薄い膜を作っている。それでも、終わりは確かだった。


 「人数は!」


 扉の隙間から、救助隊員がなだれ込んだ。ヘルメットの顎紐が顎に食い込み、ゴーグルの内側で目がせわしない。玲は名簿を掲げた。手は震えているのに、声は出た。


 「五十。……ううん、いま四十六。死亡四。負傷八。重症三。子ども九。名簿はここに」


 「読みやすい字だ」


 隊員のひとりが、ぽつりと言った。褒め言葉は遅れてくる罪悪感の形を整える。玲は一瞬、胸の奥がつまった。読みやすい字で、誰かを燃やす決定を滑らかにしてしまった夜が、指先の黒い汚れのように残っている。


 「隊列を組む。外は足場が悪い。三人ずつ、ロープに手を通して。子どもから」


 奥田の声に、救助隊員の短い指示が重なり、動きが一つの流れになる。双子の篠原は手を離さない。姉が妹の手を上から包む。妹はうなずき、いつもの歌を探すように口を開け閉めするが、音は出ない。歌は眠っている。眠りは、体が危険を覚えている証拠だ。


 外へ出る。昼だというのに、空は赤黒い。山はまだ燻り、森だったものは黒い紙の屑みたいに崩れている。風はある。風は、すすの匂いと土の匂いと、焦げた草の匂いと、人間の汗の匂いを交ぜながら吹く。頬に当たる空気が冷たく、肺が驚く。冷たい空気は重い。吸うたび、肩が持ち上がった。


 救助員が毛布を肩にかけてくれる。毛布は濡れていない。柔らかい。温かい。毛布の重さは、選択の重さより軽い。軽さに、足が少しだけ前へ出る。


 「吉住は」


 誰かが言った。すぐに、何人もの声が重なる。「吉住さんは」「吉住隊長は」「あの人はどこだ」


 前室は泡に埋まり、覗き窓は白い膜の奥で見えなくなっている。救助員が腰まで前室に身を入れ、ライトで奥を探った。しばらくして、首を振る。


 「あとで確認する。泡が落ちてから。今は、生きてる人を」


 言い切った隊員の顔に、ためらいがなかった。現場の顔だ。現場の顔は正しい。正しい顔は、時々、残酷に見える。


 「英雄だな」


 別の隊員が、小さく言った。誰に言うでもない独り言。周囲の何人かが、うなずき、背筋を伸ばす。その言葉は、物語の終わりを急がせる。終わりが急ぐと、問いは置き去りにされる。問いは重い。重いものは、今は運べない。


 沼田が玲の肩を抱いた。抱く腕の力が強い。玲の頬に、かすかな消毒液の匂いと白粉の匂いが混ざって触れた。


 「あなたはよく書いた。誰かが書いておかないと、全部“正しかったこと”になる」


 玲は頷いた。頷いてから、かすかに首を振った。


 「でも、わたしが書いたせいで、速くなったこともある。速いのが、正しいと限らないのに」


 「知ってる。だから、次は遅くする紙を書こう」


 沼田の言葉は奇妙で、温かかった。遅くする紙。そんな紙があるのなら、ここにいる誰かが助かっていたかもしれない。けれど、たぶん、そんなことは誰にも分からない。


 生存者は点呼され、順にトラックへ乗せられる。荷台にはブルーシートが掛けられ、段ボールの上に毛布が敷かれている。双子は毛布の端を握り合い、目を閉じる。眠っているように見えるが、睫毛は揺れている。奥田は遠くの山を見て、空に指で図を描いていた。配管の図。吸気と排気の線。線は空でほどけ、風に混ざる。


 砂原の母親は、名前を呼んだ。声は低く、しかし長い。返事はない。返事がないことは、もう知っているはずだった。それでも、呼べば、少しだけ胸の痛みの形が変わる。形が変わると、耐え方が見つかる。見つからない夜もある。


 夜。仮設の体育館。天井の梁がむき出しで、床はテープで区切られている。水の配給、簡単な食事、ひとりずつ事情聴取。机の上に銀色のポットが置かれ、紙コップが並ぶ。ここでは全ての音が薄い。濡れた靴の音、紙の擦れる音、遠いサイレンの名残。


 玲は事情聴取の担当者に紙を差し出した。


 「これが全部です。名簿と、経過の記録」


 担当者は礼を言い、両手で紙を受け取った。手付きに荒さはない。彼はそのままコピー機へ運び、硬い白い蓋を下ろした。光が走る。光が紙を舐める。玲は、その瞬間に初めて名簿から指を離した。指の跡が黒く、鉛筆の粉が爪の間に残る。名簿には、紙の体温がまだ残っているように感じた。


 眠れなかった。体育館の隅、隣で誰かが泣いて、向こうで誰かが言い争って、その向こうで誰かが眠っている。毛布の中で横になると、天井の黒い梁が骨のように重なり、灯りの薄い輪がその骨へ吸い込まれていく。玲は起き上がり、窓の外を見た。闇は厚い。遠くの山の縁がまだ赤い。風が体育館の扉を撫でる音がした。前室の覗き窓に触れていた夜のような、薄い板で世界が仕切られている感じ。


 明け方。体育館の空気が少しだけ冷え、白い光が高窓の縁に集まる。玲は荷物の中から新しい紙を取り出し、表の真ん中に書いた。


 続・名簿


 黒い線が、紙の上に一つずつ現れていく。上から順に、生存者の名前を書く。順番は、出口の順番とは違う。紙の上では、重みが同じになる。大迫 源蔵。砂原 祐真。吉住 剛。亡くなった人々の名前も書く。名前は生存の反対語ではない。呼べば、ここにいる。呼ぶたびに、胸の中で空気が動く。


 書き終えたあと、玲は余白に小さく一行を添えた。


 火を消すために人を燃やす、という言葉は、道具として正しかった。わたしたちは、その道具を持ち上げた。次に持たないために、ここに書いておく。


 書いた瞬間、胸の内側の何かが軋んだ。軋みは痛みで、同時に、骨が合う音にも似ていた。紙の上の文字は乾き、朝の冷気で硬くなる。硬くなった文字は、触ると冷たい。冷たさは、忘れさせない。


 体育館の窓から白い光が差し込む。遠くでヘリの音が始まった。山の稜線に残った赤は、風に削られていく。終わらない火の国で、ひとつの火だけが、確かに消えた。終わった、と言っていいのかどうかは分からない。分からなくても、紙はここにある。紙がある限り、書ける。書ける限り、選べる。


 午前中、救助隊のひとりが体育館の隅で玲を見つけ、近づいてきた。目の下に疲れの影がある。だが、声は落ち着いている。


 「前室、泡が引きました。中を確認したら……吉住さん、いました」


 玲は立ち上がった。膝が一瞬ゆるみ、机の角に手をつく。


 「生きて」


 「はい。意識も。低温と煙でやられてるけど、大丈夫です。あなたに伝言が」


 「伝言」


 「名簿を、外で続けてくれって。外の名簿は、内よりむずかしい、だそうです」


 笑っていいのか分からなかった。笑うと涙がこぼれる気がした。玲は頷き、指の先を見た。黒い汚れはまだ取れない。取れないなら、残しておけばいい。残っている限り、手を見たときに思い出せる。


 午後、仮設のテントの下で簡単な会議があった。自治会の人、町の担当、消防、警察。紙の束が移動し、名前が呼ばれる。玲は「記録係」として端に座り、ひとつずつ簡潔に書き取る。誰が何を言い、どの手順に同意し、何を確かめ、何を保留したか。外の名簿は、思ったとおり難しかった。内の名簿は、数を整えるための紙だった。外の名簿は、責任の形を記すための紙だ。書いた線が、誰かの足場になる。誰かの落とし穴にもなる。


 夕暮れ、体育館の隅で双子が小さな声で歌いはじめた。最初の速度より、ゆっくり。息を節約する歌い方だ。閉めて整えて始めます。拭いて下げて終わります。歌は今や、儀式の形ではなく、思い出の形になっている。思い出は、呼吸を助ける。助けられた呼吸の分、涙が出る。


 奥田は折れた配管の写真を前に、紙の真ん中に新しい線を引いた。「次は、計器を増やす。目で見える圧の差を作る。古い弁の二重化。吸着筒の整備。……それから」


 「それから」


 玲が繰り返す。奥田は目を上げて、短く笑った。


 「名簿の訓練をしとく。記録係を、当番で回す。君だけじゃ、もたない」


 「はい」


 答えながら、玲は新しい紙に「名簿の訓練」と書いた。言葉にすると、世界のどこかに小さな杭が打たれる。杭があると、風が変わるときにつかまれる。


 夜になり、体育館の灯りが落ちる少し前、玲は外へ出た。空はまだ煙の名残で浅い。星は見えない。風は変わっていた。焦げと土の匂いに、少しだけ水の匂いが混ざっている。川が近い。水は、火と違って、静かに増える。増えるとき、音は小さい。小さい音のほうが、遠くまで届く。


 ポケットから短い鉛筆を出し、紙の端に最後の行を書いた。


 火は消えた。けれど、紙は続く。紙が続く限り、わたしたちは次の道具を選び直せる。


 紙を折りたたみ、ポケットに戻す。掌の黒い汚れが、さっきより薄くなっていることに気づく。擦れただけかもしれない。薄くなっても、跡は残る。残る跡は、明日の自分を正す。正した明日が、今日より正しいとは限らない。限らなくても、書けば、次を遅くできるかもしれない。


 体育館の扉が、風に撫でられて鳴った。薄い板が夜とこちらを仕切る音。前室の覗き窓に似ている。あの薄いガラス越しに、わたしたちは燃やすことと消すことの境目を見た。境目は、紙の線みたいに細く、揺れた。揺れる線を、これからもう一回、二回、何十回と引き直すのだろう。名簿は、終わらない。


 そして、山の向こうで、ヘリがもう一度、遠くに小さな音を落とした。


《了》

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