第七話 バックドラフト
火は引いた。覗き窓の黒い膜がわずかに薄くなり、ガラス越しの赤はくすんだ鉄の色へ沈んでいく。前室の扉に額を寄せていた吉住が、長く息を吐いて背を伸ばした。背骨が鳴る。彼は皆を見渡し、抑えた声で言った。
「成功だ。……よく持った。今なら、土砂を一部どけられる。連絡を取りに行く」
その言葉に、本室のあちこちで肩が一度だけ落ちる。落ちた肩はすぐ戻る。戻るたび、息が少し多く使われる。奥田は首を振った。包帯に染みた消毒液の匂いが、汗に溶ける。
「待て。圧の差を測るべきだ。ここが陽圧か陰圧かで、開け方が変わる。計器がなければ……」
「計器は死んだ」
吉住は短く言い切った。死んだという言葉は、壊れたより理屈を封じる。経験が王座に座る。王は、吉住だ。彼は扉のレバーに手をかけ、力を込めずに、ほんのわずかだけ回した。金属が歯を鳴らす。隙間に空気がぬめり込み、内部と外部の境目が見えない刃になる。
「やめろ!」
奥田が躍りかかった。腕を掴もうと伸びた手は、別の数本の手に止められる。沼田が間に入り、胸で押し返す。「落ち着いて。焦りは酸素を食う」彼女の声は低い。言葉に呼吸の速度が宿る。篠原の姉と妹が、互いの手を握った。歌は出ない。歌の代わりに喉の奥で短い数が動く。ひとつ、ふたつ、みっつ。
レバーがあと少し回る。次の瞬間、隙間の向こうから熱風が唸り、炎が舌のように伸びてきた。誰かが悲鳴をあげ、誰かが笑った。笑いは恐怖の穴を塞ぐために出る。笑いが先に出るほど、穴は深い。
「閉めろ!」
奥田の叫びと同時に、吉住がレバーを戻す。だが、まるでその動きに合わせるかのように、外から吸い込もうとする力がいっそう強くなる。空気が爪を立てて扉を引く。音が重なり、金属の軋みが骨に刺さる。火は舌を伸ばし続け、境目で膨らみ、破裂寸前の風船のように震えた。
轟音。扉全体が叩かれたように揺れ、覗き窓の煤が粉になって降りる。だが爆ぜる寸前、前室の“窒息”が炎を押し返した。熱は前室の天井に沿って逃げ、赤は鈍い灰色に砕けて消える。本室側には熱風だけが押し寄せ、照明が一瞬死んだ。青白い灯りが揺れて戻る。脳の奥で、何かが遅れて理解する。
半分、当たった。半分の正しさは、全員の正しさに見える。
拍手が起きた。誰が先か分からない。薄い音が重なり、波になる。拍手は生存の音だ。音はうつむいた顔を上げさせる。誰かが涙を拭い、誰かが胸を押さえ、誰かが肩を抱く。拍手の輪から外れて、玲は膝をついた。胃が反転し、喉の奥から酸っぱいものがこぼれる。吐瀉物は酸っぱく、涙はしょっぱい。床の傾きに沿って薄い川ができ、細かい灰を巻き込んで滲んだ。
――正しさの勝利じゃない。選択の不可逆化。
玲は紙を引き寄せ、震える指で走り書きする。字がわずかに踊る。「扉の冷え、戻る。外圧、強。半分の正しさ=拍手。不可逆の実感。」書いた瞬間、胸が少しだけ軽くなる。軽くなった分、酸素を使う。酸素は、書いても増えない。
そのとき、外から、人の声がした。遠い拡声器の割れた音。「もしもし! 中に誰かいますか!」次の瞬間、いくつもの心臓が跳ねた。助けの声だと、だれもが思った。思っただけで、肺が膨らむ。膨らんだ分だけ、数字が減る。
「ここだ!」
若者が叫ぶ。叫びは天井に吸われ、壁に跳ね返り、扉にぶつかって砕けた。拡声器は続ける。「返事を! 中に何人!」吉住は扉に額を近づけ、低い声で答えた。「五十! 内部に負傷者多数! 酸素が――」声は鉄に吸われて途切れる。返ってくる言葉ははっきりしない。「重機を呼びます! 今から土砂をどかす! 危険なので、扉は開けないで!」
開けられない。開ければ、残る酸素が外へ走る。火が吸い込む。助けは近い。火も近い。私たちは、その間にいる。
吉住は振り返った。皆の顔が、灯りの揺れに揺れる。彼は決める顔になった。命令の顔だ。「もう一度、点火する。最後の窒息帯を作る。外が動く間、ここで押し返す」
「やめろ」
奥田が殴りかかった。拳は途中で止められ、腕が絡む。沼田が真横から身体でぶつかり、二人の間に割って入った。彼女の背中に、いくつもの指が当たって離れる。群衆が間に入る。間に入ることで、実質的に強い側に加担する。止める動きは、決まる動きを補助する。
「最小限でいい」吉住は続ける。「抑えの火。前室だけを窒息帯に。重機が来たら合図する。タイミングは俺が――」
「最後は俺が行く」
彼は静かに言い、上着を脱いだ。袖をたぐり、靴紐を結び直す。背広の肩が床に落ちる音がやけに大きい。英雄は、物語の文法に従う。従うと、周りの人間がその文法に合わせて配置される。双子が立ち上がりかけ、沼田が二人の肩を押さえた。涙の位置を変える。泣く場所を変える。
覗き窓の向こうへ身を入れる前に、吉住は振り返った。口を動かす。「生きろ」と言った。音は届かない。だが唇は読める。唇の形は、命令ではなく懇願に見えた。命令に慣れた唇が懇願の形をする瞬間、場の空気は一度だけ柔らかくなる。柔らかくなった空気は、次に硬くなるために縮む。
点火。火は静かに立ち上がる。最初は青い。やがて黄色。脂が焼ける匂いが本室にも薄く届き、幾つかの胃が反応する。誰かが祈る。誰かが笑う。笑いはすぐ泣きに変わる。音が変質する。金属が膨張して鳴る音。空気が縮む音。火の呼吸が扉の身震いと同期する。玲は耳の中で数を刻む。パチ。パチ。扉の唸り、弱。火勢、安定のち強。
重機の音が遠くに混じった。低く、地面ごと噛み砕くような振動。拡声器の声が再び届く。「今から上の土砂を取り除きます! 衝撃音がします! 扉は絶対に開けないでください!」絶対、という言葉は幼い子の耳に届きやすい。届いた子が母の腕に顔を埋め、くぐもった声でうなずく。「ぜったい」
「圧、見ろ」
奥田が囁いた。圧は見えない。見えないものを見る方法は、音と匂いと体の重さだ。砂原のノートはもうない。だが彼の癖が残っている。若者の一人が床に這いつくばり、薄い水の流れの方向を目で追う。壁際の火粉の沈み方を見る。覗き窓に貼りつく煤の揺れ方を比べる。玲は紙に線を引き、矢印を描いた。矢印は方向を持つ。方向は希望に似る。希望は数秒で重みを帯びる。
「まだ行ける」
吉住の声が扉越しに降りてきた。覗き窓の向こうで、彼の肩がわずかに上下する。背は丸い。だが、動きは速い。燃えるものの配置は、昨日より正確だ。昨日より正確な手は、今日のために代償を払っている。指の皮膚は赤く、毛細血管が浮いている。
重機の音が近づく。外の土が動く。石が転がり、木の根が裂ける。天井がかすかに粉を降らせる。本室の誰もが顔を上に向け、すぐに伏せた。上を見ると、希望が見える。希望は酸素を使う。伏せると、音がよく聞こえる。音は判断に似ている。
「合図が要る」
奥田が独り言のように言った。「向こうに伝える手段が要る。叩きだ。規則的な音。長短長……」
「やる」
若者が鉄パイプを持ち、壁に当てる。カン、カン、カーン。拡声器が即座に反応した。「聞こえています! そのまま! あと十分!」十分、という数字は不確かだ。だが数字は思考を止める。止めた場所に、祈りが生える。
「酸素、持つか」
沼田が囁く。沼田は囁いても指揮できる。子どもたちに亀さん呼吸の上位版――ナマケモノ呼吸――をまた教える。もっとゆっくり。吐くの四つ、吸うのひとつ。途中で止めたくなったら止める。止めてもいい。できたら勝ち。勝ちという言葉は、子どもの胸に小さな旗を立てる。
玲は名簿ではなく、「反証の記録」の紙にペンを走らせた。「前室:再窒息。外:重機接近。合図:長短長。亀・ナマケ。」言葉は記録で、同時に自分に向けた命令だ。命令を紙に置くと、紙が自分を動かす。動けば、今は正しい。
刹那、空気の調子が変わった。扉の隙間の向こうで、火の舌が一段長くなり、音が低く、太くなる。火が酸素の道を見つけた時の音。吉住の影が揺れ、覗き窓の端で火の赤が一瞬はぜた。
「抑えろ!」
焚き手小隊の二人が濡れ布を構え、覗き窓の周囲にさっと掛ける。視界は悪くなるが、熱の波は鈍る。奥田が手を伸ばし、弁の座りをもう一度確かめる。金属の鳴きが歯に響く。鳴きは痛みだ。痛みは合図だ。合図がある限り、次にするべきことがある。
「あと五分!」
拡声器の声が、今度は近い。目の前で言われているように聞こえる。五分は長い。五分は短い。場の中心では短く、周縁では長い。玲は紙の端に小さな点を打ち、五つまで数える準備をした。点は口火になる。点が並ぶと、線になる。線は逃げ場にも刃にもなる。
火は持った。持ったが、呼吸の重さは増す。老人の一人が壁にもたれ、目を閉じる。沼田が脈を取り、耳元で数を落とす。「いち、に、さん」数が言葉を薄める。薄まった言葉は、涙に混ざりやすい。篠原の妹が手を握り、「勝ち」と小さく言った。勝ちという音が、老人の口角をほんの少し持ち上げる。持ち上がった口角は、誰かの息を助ける。
「三分!」
重機の金属が岩を噛む音が直に響き、天井の粉が雪のように舞った。子どもが一人、咳き込み、別の子が背中をさする。咳は空気を取り替える。取り替えは、減らすことと同義になる。玲は視界の端で、沼田の手が再び別の背中に触れるのを見た。その手つきは迷いがない。迷いがないから、泣ける。
「一分!」
カン、カン、カーン。合図の音に拡声器が重なる。「いま、表の土砂、どかしました! すぐには開けないで! 煙を逃がします! 合図をします!」
「聞こえるか!」
吉住が覗き窓の向こうで吠えた。声は届かない。だが、重機の音が一瞬やむ。かわりに、風の通り道を探す空気の音がする。外の空気が、ここを舐めるように流れ、境目で立ち止まる。誰もが息を止める。止めた息は、身体の奥に重く沈む。
「いま!」
拡声器が叫ぶのと、吉住がレバーを引くのは、ほとんど同時だった。扉が一度だけ大きく唸り、前室の火が最後に身を起こす。舌が走り、天井を舐め、赤い背中を見せる。だが前室の空気は、すでに薄い。火は扉ではなく、高い方へ逃げた。逃げた先で、煙になって潰れた。
金属が解放の音を立て、扉が拳一つ分だけ開く。熱風が本室に押し込み、灯りがまた死に、すぐ生き返る。外の空気は冷たい。冷たい空気は重い。重さが床に落ち、膝に伝わる。最初の匂いは土だった。焦げではなく、湿った土と草の匂い。次に、ガソリンと油。最後に、汗。知らない人間の汗の匂いが、風に乗って降りてきた。
「いるか!」
人の声が、今度は壁なしで届いた。手袋の擦れる音。ヘルメットの硬い音。人間のいる音。泣き声に似た笑いが、あちこちで生まれる。泣き声と笑いの境目が崩れ、声は一つになる。玲は鉛筆を握り、紙に書いた。
――助けは近い。火も近い。私たちは、その間にいる。
その間にいる時間は、もう長くない。長くないという言葉は、希望にも絶望にもなる。どちらにするかは、今ここで決める。
「順番だ」
吉住が扉の向こうから声を投げた。抑えの火を背に、彼は本室を見渡す。「子どもから。次に負傷者、高齢者。押すな。外の合図に合わせて、三人ずつ」
泣きながら、篠原の姉が妹の手を握った。「先に行って」妹が首を振る。「いっしょ」二人の手の間に、沼田の手が重なる。「いっしょでいい。あなたたちは、いっしょでいい」
最初の三人が扉を抜けた。冷たい風が彼らの背を押し、外の声が名前ではない励ましを浴びせかける。「そのまま! ゆっくり! 大丈夫!」大丈夫は、誰にも確かめられない。だが、言うことに意味がある。言われることに、もっと意味がある。
「次!」
呼ばれて、玲は名簿と「反証の記録」を見下ろした。どちらを持っていくべきか。一瞬、迷った。迷いは短いほうがいい。彼女は名簿を胸に縛り、記録を沼田に託した。「あとで、返して」沼田がうなずく。「後で、ね」
「玲!」
奥田が呼ぶ。彼の目は赤いが、声はまっすぐだ。「先に行け。君が外で整理しろ。名前を呼べ。呼べるのは、君だ」呼ぶ――その動詞は紙の仕事を外に持ち出す。玲はうなずき、列の途中に割り込んだ。誰も文句は言わない。文句は酸素を食う。譲ることは酸素を節約する。
扉の前で、吉住と目が合った。覗き窓越しではない、直接の目だ。煤の跡が頬に走り、まぶたの端に赤が張り付いている。彼は口を動かす。「生きろ」今度は音が届いた。届いた音は、唇で読んだ言葉と同じ形をしていた。
外へ。冷たい空気が肺を満たす。満たした瞬間、視界が広がる。崩れた土の斜面。黄色い重機。ヘルメットの列。伸ばされた手。空は見えない。だが風は動いている。動いている風は、空の代わりになる。
「何人!」
消防服の男が顔を近づける。玲は名簿を開き、口を動かす。「五十。……今、中に四十六。負傷者、八。重症、三。子ども、九」数字が口から滑り出る。滑り出るたび、外の人間の動きが増える。増える動きが、土と鉄を動かす。彼女は自分の声が震えていないことに驚いた。震えは、もっと後で来る。
後ろで扉がまた唸る。中からの熱と、外からの冷えがぶつかる音。吉住の声が「次」を呼ぶ。次、という語が、今は救いだ。救いが列を前へ押す。
「彼は」
消防服が問う。「中の指揮は誰だ」
「吉住剛。元消防士」
答えると、男の顔色がわずかに変わる。理解の色だ。理解は速さに変換される。男は無線に短い言葉を落とし、重機に手を振る。動きが揃う。揃った動きは、祈りより強い。
列が進む。誰かが転び、誰かが支える。支える手が重なり、重なった指の間から土が落ちる。土は温かく、湿っている。温かい土は、火の温度とは違う。違いが胸に刺さる。刺さったまま、息をする。
「あと、どれくらい」
篠原の姉が息を切らしながら問う。玲は首を振る。「分からない。でも、外はここにいる」ここにいる――それだけで、何かが変わる。変わったものの名前は、今はない。
最後尾が近づく。残りの人数が指折りできる数になったとき、扉の向こうから不穏な低音が這い出た。前室の天井に溜まった熱が、外からの風に煽られて移動する音。薄い布が燃え残り、赤く息を吹き返す音。
「抑え!」
奥田の叫び。焚き手小隊の残りが布を濡らし、覗き窓の縁に掛ける。沼田が子どもの背を押し、最後の二組の肩を叩く。「行って。大丈夫。ここは、私が見る」
「先生も」
観光の妻が言う。彼女の目は真っ赤だ。「あなたも、出て」
沼田は笑う。「出るよ。最後に。人を押し出してから」
彼女は嘘を言わない。嘘を言わない人の約束は、重い。重い約束は、ここでは必要だ。
「吉住!」
玲が扉の間から叫ぶ。「もういい! 出て!」
覗き窓の向こうで、吉住がうなずく。うなずいたが、すぐには動かない。火の背丈を見て、扉のレバーを撫で、最後の配置を整える。整える動きは儀式に似ている。儀式は別れを短くする。
「今!」
奥田が手を伸ばし、吉住がレバーを半分だけ戻す。火の舌が一度だけ伸び、天井で潰れる。潰れた火が煙に変わり、その煙を外の風がさらう。隙間が広がり、冷たい空気が本室の床に落ちる。落ちた空気が、人の足を押す。
最後の四人が外へ出た。沼田、双子、そして高齢の男。男は杖を忘れ、双子が左右から肩を入れる。沼田が「勝ち」と笑い、双子が同じ笑いを返す。笑いは泣きに変わる前の一瞬、ここに留まった。
そのあとだった。扉の向こうで、音が変わる。火が何かの燃え残りを見つけ、最後の背を伸ばしかけて、躓くように倒れた。倒れた火の向こうに、吉住の影が一度だけ揺れ、消えた。消えた、という言葉は、見えなくなった以上の意味を持つ。見えなくなったものに、意味が集まる。
「吉住!」
奥田の声が割れた。重機の音が止む。静寂が落ちる。静寂は、誰かの味方をする。誰の味方かは、その場の濃度で決まる。玲は口を開き、閉じた。閉じた口の内側に、味のない空気が溜まる。
数秒。数十秒。長いほうの数。覗き窓の煤が薄く震え、黒の膜がひびを増やす。やがて、影が現れた。煤を背負い、目を細め、肩を落として、吉住が出てきた。出てきた彼の唇が、「生きろ」ともう一度形を作る。今度は、誰も読まなかった。読むまでもないからだ。
外の空気が、たっぷり降りてきた。土と草と油と汗。遠くで救急車のサイレンが別の旋律を奏で、風がそれをちぎって運ぶ。ここから先の手順は外の人間が持っている。持っていないものは、今は持たなくていい。
玲は名簿を抱きしめ、ゆっくりと立ち上がる。膝が笑い、足が地面に戻る。戻るたび、胃がひっくり返った朝の酸味が遠のく。「記録係さん」と消防服が言う。「あなたに読み上げてほしい。名前を。ここから出た人、これから出る人、全員」
紙は重い。重いまま、玲の手の中で形を保つ。読みやすい字で書かれた黒い線が、外の世界へ続く音に変わる。彼女は一行目に指を置いた。声を出す。名前が、風に乗る。名前は、生きることの記号だ。記号が空へ伸びる。
背後で、避難壕が静かに息を吐いた。火はまだどこかでくすぶっている。だが、もうここにはいない。ここには、出てきた人間の息がある。息は薄い。けれど、風がある。風がある限り、次を選べる。
玲は最後に、紙の余白に小さな一行を置いた。
――助けは近い。火も近い。わたしたちは、間を渡った。




