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燃える避難所  作者: 妙原奇天


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第6話「炎の投票」

 石は小さく、手のひらで温まっていった。冷たいはずのものが体温を吸っていくと、罪悪感は少しだけ丸くなる。箱は二つ。左に「点火継続」、右に「代替試行」。黒いマジックの字は太く、揺れがない。列は静かに進み、誰もが床を見ていた。床を見る集団は、同意の形をしている。上を見れば誰かと目が合う。目が合えば、意見になる。意見は空気を使う。空気は、もう贅沢だった。


 玲は列の後ろで、鉛筆を回しながら自分の順番を数えた。名簿係は投票権があるのか。ある。だが、どちらへ入れるのか。彼女は石の重さが言葉の重さに似ていると思った。軽いはずなのに、落ちると音がする。音は消えない。名簿の紙は膝の上、角が湿って少し丸くなっていた。赤いペンは箱の中。黒い鉛筆は短い。短い鉛筆は、言葉を短くする。


 双子の篠原姉妹が、箱の前で身を寄せ合った。姉は唇を結び、妹は小さくうなずく。二人の手には白い石が一つずつ。姉が先に動いて、迷いなく左の箱へ落とした。コト、と乾いた音が響く。妹は一拍置いて、右の箱へ。音は少し柔らかく、紙の上でほどけるようだった。姉が妹の手を握る。握った手の温度で、場の温度がわずかに上がる。


 「任せようよ。リーダーに」

 姉が囁き、妹が返す。「任せるって、どういうこと?」

 「信じるってこと」

 任せる、は服従のやわらかい言い換えだ――玲は名簿の余白に小さく書いた。言葉の角を丸めれば、人は触りやすくなる。触りやすい言葉は、よく広がる。


 奥田は箱のそばに立ち、配管図を折りたたんだまま列の流れを見守っていた。彼の手の甲には包帯。裏配管の継手で切った傷はまだ新しく、酸っぱい消毒液の匂いがわずかに漂う。沼田は子どもたちを壁際へ寄せ、亀さん呼吸の確認をしていた。長く吐いて短く吸う。三つ数えて勝ち。子どもは素直に真似をするが、母親たちの目は石と箱に吸い寄せられて戻らない。


 砂原は列の一番後ろにいた。ノートは手放していない。ページの隅には、昨夜も解けなかった式が残っている。酸素の減衰、吸着筒の飽和曲線、前室の容積、燃焼の熱量。正確であろうとするほど、数字は人から遠のく。遠のく数字を、彼は自分の体に引き戻そうとするように、ひとつひとつ指でなぞっていた。


 玲の順番が来た。二つの箱の間に立つと、穴の黒さがよく見えた。どちらも同じ大きさ、同じ形。違うのは貼られた文字だけだ。手の中の石は、汗で少し滑る。彼女は名簿を胸に抱いて、もう片方の手で石を上に掲げた。誰も見ていない。見られていないのは、自由でもあり、孤独でもある。


 「名簿係も投じてください。全員で決めることに意味がある」

 吉住の声が背中から届いた。低く、短い。命令ではない。だが従いやすい声だった。玲は喉の奥が乾くのを感じた。もし自分が右へ落とせば、誰かに「反対派」と記されるだろうか。もし左へ落とせば、誰かが燃えることになるだろうか。石は指の間でわずかに跳ね、玲は目を閉じて、右の箱へ落とした。音は、思っていたより軽かった。


 投票は一時間で終わった。終わると同時に、箱は吉住の前に移された。素早い動きだった。これまでのどの作業よりも段取りがよく、無駄がない。迅速は、透明性の反対語になることがある。だが今、誰もそれを口にしない。空気は薄い。言葉は短くなる。短い言葉は、長い決定に勝てない。


 「開ける」

 吉住が蓋を開け、双子が横で見守る。姉の指は拳を作り、妹の指は祈りの形のまま固まっていた。中から白い石が流れ出す。板の上で転がり、偏り、止まる。ぱっと見は拮抗しているように見えた。玲は本能的に数を数えかけて、やめた。数えることは、決めることに近い。


 「点火継続、三十一。代替試行、十九」

 吉住は迷いなく言った。双子は頷き、姉が言う。「リーダーに任せよう」任せるは、ここでもやさしい。やさしい言葉は、速い。奥田が抗議しようと口を開くが、酸素の薄さが言葉を短くする。

 「迅速すぎる。ここで、もう一度――」

 「結果は出た」

 「手順の確認が――」

 「時間がない」


 「時間がない」ほど強い理由はない。時間は、責任の上に降る砂のようだった。砂は誰の肩にも平等に乗るように見えて、実際には重い方向へ流れる。


 その直後だった。誰かの声がした。

 「彼でいい」

 小さな声。だが鋭かった。視線が一斉に向く。指が一本、砂原を刺す。反火派の若者が一歩退き、沼田が反射的に立ちはだかった。

 「待って。今のは違う」

 「違わない。彼は配管をいじった。安全を損ねた」

 声の主は誰か。顔は見えない。群衆は時々、顔を消す。顔が消えると、言葉は強くなる。


 吉住は一瞬だけ視線を落とし、すぐに上げた。「志願者がいない以上、抽選だ」

 言い直した。だが空気はすでに整っていた。抽選に入る前の段取りは、人の意志の滑りを良くする。箱に入れる紙片。名簿から切り取られた、同じ大きさの白。沼田がはっきり言う。

 「名前を書かないで。番号にして」

 「そうだ。番号だ」

 奥田が賛同し、玲は名簿の番号を読み上げた。砂原は二十三番。二十三という数字は、今までただの位置だった。今は扉の鍵穴に見える。


 紙片が箱に落ち、双子が揺すり、吉住が手を入れる。その手の筋は太く、火を扱う人の手だった。指先が紙をつまむ。持ち上げる。開く。白の上に黒い数字が一つだけ。二十三。

 「偶然だ」

 誰かが言った。偶然は、責任の仮面だ。仮面はよくできている。外から見れば表情に見える。


 「やめて」

 沼田の声は平坦だった。叫ぶ力を奪われても、芯は折れていない。「やめて。彼は妨害なんかしていない。裏配管は、誰かを救うための試行だった」

 「結果を見ろ」

 吉住の返答は短い。「生きている」


 砂原は前に出た。足が震えている。だが、目は落ちていなかった。ノートは持っていない。代わりに、背筋の中に線を一本通すように、息を整えた。

 「やります。……ただ、最後に一つだけ。酸素は、数字で数えられるけど、尊厳は数えられない。だから、これは間違いだと言っておきたい」

 「砂原」

 奥田が呼ぶ。砂原は小さく笑った。

 「僕は、ずっと人のために正解を出したかった。たぶん、ずっと間違ってきた。だから――ここで正しい数字を出せなかったことを、謝る」


 玲は名簿に黒を一筆置いて、手を止めた。大迫源蔵の上に小さな炎の絵を描いてしまったときと同じくらい、手が震えた。「これ以上、書けない」と思った。紙は湿って重く、鉛筆は短い。黒の線は刃にもなり、楔にもなる。

 「名簿は続けて。君の字は読みやすいから」

 誰かが言った。善意に聞こえた。読みやすい字は、決定をやさしくする。やさしさは、痛みを遅らせる。遅れた痛みは、深くなる。


 前室へ向かう通路は短く、長かった。扉の前で、焚き手小隊が立つ。篠原の姉が歌の一行を口にし、妹が続ける。歌は小さかった。小さい歌は、耳のすぐ手前で止まる。吉住は手順を読み上げ、奥田が確認し、沼田が砂原の肩に手を置く。

 「戻ってきて」

 「戻るよ」

 砂原は笑ってみせた。計算のときよりも、自然な笑顔だった。彼は上着を脱ぎ、足元に毛布を敷いた。冗談は言わない。ノートも持たない。あるのは体だけだ。体は、ここでは材料と呼ばれる。


 「仕切り扉のシール、良好」

 「排気弁、二重閉鎖」

 「覗き窓、視認かろうじて」

 「本室の吸着、優先」

 命令形は心の揺れを見えなくする。見えなくなった心は、誰の中にも残る。残ったものは、後で出てくる。


 点火。火は静かに立ち上がる。最初は青い。やがて黄色。脂が焼ける匂いが本室にも薄く届き、同時に何人かが吐いた。誰かが祈り、誰かが笑い、笑いはすぐに泣きに変わる。音が変質する。人間の声が火の音に、火の音が金属の鳴きに、鳴きが空気の縮みへ。玲は覗き窓を見なかった。見ない代わりに、音を数えた。パチ、パチ。扉の唸り、弱。人の声、消。


 十五分。二十分。覗き窓の煤が張り付き、炎は背を丸める。吉住が短く言う。「まだだ」待つ時間は、群衆を黙らせる。黙りは賛成の延長線上にある。反対は言葉だ。言葉は空気を使う。空気は、もう残り少ない。


 玲は名簿の「二十三」の横に、時刻を書き添えた。黒い線が震える。大迫のときと違って、炎の絵は描かなかった。描いたら、次にも描ける気がしたからだ。描かないと決めることは、抵抗と呼べるほど強くない。けれど、ゼロではない。


 やがて、覗き窓の向こうで炎が低くなり、煤の内側に鈍い影が沈む。温度が下がる。吉住は頷いた。「成功だ。本室は守られた」その一言で、場のどこかにあった固い石が少しだけ転がった。誰かが息を吐く。吐いた息は、すぐに薄くなる。


 沼田は洗面器の水で手を洗い、動きを止めずに涙を落とした。奥田は吸着装置の数値を見つめ、「上がり幅は小さい」と呟く。改善はある。だが十分ではない。双子は肩を寄せ、誰にも聞こえない声で「英雄」を口にしかけて、やめた。言えば、次の英雄を探すことになる。


 砂原は戻ってこない。本室の隅に置かれた毛布が一枚、以前よりも静かに見える。誰かが立ち上がりかけて、座った。立ち上がる理由が見つからない。座る理由は、いくつもある。


 「結果は出た。次の“次”の準備に入る」

 吉住の声はいつも通りだった。だが玲には、そこに小さなひびが見えた。ひびは、外からは分からない。中にいる者だけが気づく。ひびが広がると、声は少しだけやわらかくなる。やわらかさは、迷いの形をしている。


 そのとき、沼田が立った。「投票をやり直して。少なくとも、開票を、全員の前で」

 「時間がない」

 「時間がないのは、ずっとだよ」

 短い応酬。双子が顔を見合わせ、姉が小さく手を挙げた。「じゃあ……歌の時間を一分ください」場違いに聞こえた。だが誰も拒まなかった。歌は儀式だ。儀式は空気を整える。


 双子の歌は、最初よりさらに小さかった。閉めて整えて始めます。拭いて下げて終わります。言葉は抜け落ちて、骨組みだけが残った。それでも、人の声が重なることが必要だった。人の声は、火の音に飲まれない唯一の音だった。


 玲は名簿をそっと閉じた。紙は湿り、重さが増している。閉じた紙の中で、黒い線は動かない。動かない線は、彼女の中で動き続ける。彼女は余白に一行だけ書いた。

 ――知ってしまったことは、次を容易くする。


 「玲」

 奥田が呼んだ。彼の指先はまだ震えている。「反証の記録、続けてくれ。裏配管は死んでない。小さいけど効いている。数字は、ゼロじゃない」

 玲は頷いた。頷きながら、名簿とは別の紙を取り出した。そこには赤い線はない。黒い数字と短い言葉だけが並ぶ。小さい効き目は、場の端を支える。端が崩れれば、真ん中が落ちる。


 夜が深まる。箱は隅に置かれたまま。石は静かだ。誰も取り出さない。取り出せば、音がする。音がすれば、誰かが顔を上げる。顔を上げれば、意見になる。意見は空気を使う。空気は、贅沢だ。


 眠りかけた子の呼吸が一度途切れ、沼田がそっと背中を撫でる。母親はその手を握り、何も言わない。言葉にしてしまえば、祈りは小さくなる。小さくなった祈りは、遠くへ届かない。届かなくても、祈る。祈ることは、火ではない。


 扉の向こうで、遠い唸りがまた響いた。雷にも、倒木にも、エンジンにも似ている。何に似ているか当てているうちは、まだ間に合う。誰かが顔を上げ、誰かが目を閉じ、誰かが名簿を抱きしめる。


 吉住は立ったまま、ほんの一瞬だけ目を閉じた。開いた目は、決める目だった。だが、躊躇は消えていない。消えない躊躇は、彼が人である証拠だ。彼は短く言った。

 「もう一度、開ける。明日は、箱じゃなくて扉だ」

 扉は、箱より重い。重いものを開けるには、数よりも手が要る。数は昨日を支え、手は明日を押す。押した先が崖でも、地図は正しいと言うだろう。


 玲は鉛筆を握り直した。名簿の紙ではなく、反証の記録に線を引く。火ではなく、反火のために。数字は少しずつ増える。小さい数字は、見えにくい。見えにくいものを見ていくことが、彼女の仕事になる。名簿の字は読みやすい。読みやすい字で、難しいことを続ける。続けることが、今の正しさにいちばん近い。


 夜明け前、覗き窓の煤がわずかに薄くなった。外の何かが、ほんの少しだけ退いたのかもしれない。退いた分だけ、誰かの胸がふくらむ。ふくらんだ胸が、また空気を使う。使っても、呼吸する。呼吸しているかぎり、次を選べる。


 砂原の番号の横の黒は、乾いていく。乾いた黒は、紙の中で軽くなる。軽くなった黒は、いつか誰かに読まれる。そのとき何と読まれるのか、今は誰にも分からない。分からなくても、書かれてしまった文字は残る。残るから、次が重くなる。重くなっても、手は動く。


 石は冷え、箱は黙る。火は揺れ、空気は薄い。けれど、誰もまだ、完全には沈黙していない。沈黙の手前で、声の種のようなものが、静かに増えている。増えた種は、どこかで芽吹く。燃える場所ではなく、出る場所で。


 「行こう」

 誰かが言った。誰の声か分からない。分からなくても、足は前に出る。箱の前ではなく、扉の前へ。扉の前で止まり、手順を一つずつ確かめる。命令形ではなく、共有の形で。


 玲は最後に、反証の紙に一行を添えた。

 ――投票の結果は終わりじゃない。ここから先の結果は、箱ではなく、わたしたちの手で書く。

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