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燃える避難所  作者: 妙原奇天


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第5話「反火」

 反対派は、名乗りこそしなかったが、動き方で分かった。奥田が工具箱を抱えて配管の前に陣取り、沼田は救護スペースと前室の間を往復し、砂原はひたすら紙の上で数字を刻む。彼らの周囲には自然と数人の若者が集まり、手を貸すでもなく、ただ見守るのでもなく、必要なときだけ素早く動いた。玲はそのそばに座り、鉛筆を回しながら言葉の重さを計り続けた。書けば秩序が保たれる。だが、書くことは同時に、誰かの正しさを固定してしまう。固定は、別の誰かを縛る。

 「ソーダライムを砕く。表面積を増やして反応を早める。湿気が強いから乾いた布で一度拭いてからだ」

 奥田の声は低いが、引っかかりがない。古い吸着筒を一度開け、固くなったペレットを布に広げる。若者の一人が金槌で軽く叩くと、白い粉がふわりと浮いた。咳が連鎖する。沼田がマスクを配り、子どもたちを壁際に下げた。

 「前室に持ち込むのは少し待って」砂原が顔を上げずに言う。「再生効率、理論値の四割が関の山。けどゼロじゃない。ゼロじゃないなら、試す価値はある」

 「ゼロじゃない、か」

 玲は紙の余白にその言葉を写し、鉛筆の芯先で軽く叩いた。ゼロではないことは希望だ。けれど、希望はいつも並び替えが可能だ。誰かのゼロじゃないが、別の誰かのゼロになる。

 反火派の中心に、もう一つの疑いが生まれた。最初の点火の直前、前室の排気弁は完全には閉じていなかった。覗き窓の縁に煤が薄く流れていた証拠を、誰かが見たという。弁を“わざと”半端にしておけば、酸素の流入が残る。燃焼は長引く。長引けば、「人体」の必要性は大きく見える――。

 囁きは最初、壁の影で言葉になった。やがて影から影へ移り、最後は正面に出た。

 対峙は短かった。奥田が弁座の傷を指し示し、砂原が計算用紙を握りしめ、沼田が静かな声で、確かめるように言った。「あの時、閉まっていなかった。古いのは分かる。けど――」

 吉住は首を横に振った。目は逸らさない。「弁は古い。完全には閉まらない。だから二重に閉じた。現場判断だ。結果を見ろ。生きている」

 結果、という単語は硬かった。硬さは刃だ。過程への問いを鈍らせる。砂原が紙を握る手に力を込め、「人体燃焼は“効率”が悪い。脂肪率、体重、含水。必要数がぶれる。それに……尊厳が」と言いかけて口を噤んだ。尊厳は酸素の単位で測れない。測れないものは、今は弱い。

 沈黙が落ちた。沈黙は、誰かの味方をする。誰の味方かは、その場の濃度で決まる。玲は名簿の端に「疑い:排気弁/結果主義」と書き、さらに小さく「声の強度」と付けた。強い声は短い。短い声は覚えられる。覚えられる言葉は、合意になる。

 その夜、救護スペースで小さな悲鳴が上がった。幼い子が眠りながら呼吸を止めかけたのだ。沼田が飛び込み、顎を上げ、胸を圧し、名前ではない優しい呼びかけを繰り返す。数秒が膨らみ、やがて細い息が戻った。母親はその場に崩れ、涙で濡れた手を沼田の腕に伸ばし、震える声で言った。

 「次は私が」

 意味は、誰も聞き間違えなかった。自分が“燃える”。そう言えば、子を守れると信じられる。反火派は凍った。倫理は、いつも愛の形で裏切られる。誰も責められない言い方が、いちばん鋭い。

 「……やめよう」

 沼田は首を振り、その手を両手で包んだ。「あなたは子のそばにいて」

 母親はうなずく代わりに、名簿を見た。赤い線が一本。黒い名前が幾つも。紙は何も答えない。答えるのは、数字の並びだ。玲は胸の内で母の顔を探した。はぐれた朝。鉄扉の重さ。今どこにいるのか。生きているのか。名簿を持つ手が重く、一度、膝の上に落ちた。

 夜明け前、吉住は「炎の投票」を提案した。公開の挙手ではなく、石を二つの箱に入れる方式。賛成の箱と、反対の箱。人の目は、箱の板に遮られる。心理の敷居は下がる。敷居が下がると、数は増える。数は正しさに見える。投票は“慰めの免罪符”でもある。自分は殺していない。箱が殺したのだ。

 「やるべきだ」若者の一人が言った。「責任を全員で、背負える」

 責任を分割すれば軽くなる。軽くなった責任は、遠くへ転がる。転がった先には、いつも誰かがいる。

 反火派は、最後の反証に賭けることにした。奥田の提案だ。前室にCO₂ボンベを接続する裏配管を作る。人体を用いず、前室を窒息帯にする。材料は少ない。時間はない。けれど、手を動かせば希望が生まれる。希望は、手の動きと一緒に形を持つ。形を持てば、疑いに耐えられる。

 古い倉庫から見つけた小さなボンベは、工事現場で使う簡易溶接の残りだった。圧は低い。継手は規格が古い。ゴムは硬い。奥田は歯でホースを柔らかくし、砂原が針金で補強し、若者がパッキン代わりの布を湿らせる。

 「ここ、締めると割れる」

 「じゃあ、二重に巻く。ねじれは逃がして」

 「圧、上げすぎないで」

 沼田は救護スペースからカフェインのタブレットを持ってきて、三人に半分ずつ渡した。「吐き気が出たらやめる。数字が読めなくなったら寝る。寝てから戻って」

 「寝る時間なんて」

 「寝る時間は、作るの」

 玲は名簿の上に小さな紙を重ね、反火派の作業手順を書いた。手順は、燃やすためではなく、燃やさないための儀式になった。儀式は反対にも使える。歌はなかったが、呼吸の数え方だけは共通している。長く吐く。短く吸う。亀さんのまねをする子どもたちが、作業を取り囲んでいた。

 昼。投票箱が置かれた。古い木箱に二つ穴を開けただけ。箱の前に双子が座り、石を受け取り、数を合わせ、手のひらを合わせる。

 「二つの箱に、一人一個。どっちかに入れたら、振り返らない」

 姉が言い、妹がうなずく。言葉は淡々として、しかし儀礼的だった。儀礼は罪の角を落とす。角が丸くなると、握りやすい。

 「入れるの?」

 少年が玲に聞いた。握った白い石が汗で濡れている。玲は石を見て、首を横に振った。「私は――名簿を持ってる」それが答えになっているかどうか、彼女には分からなかった。だが少年はうなずき、箱の前に進んだ。石が板に当たる音が小さく響いた。音はすぐに次の音に重なり、数に変わる。

 奥田の裏配管は、午後の終わりに仮組みができた。前室の手前、配管の古い点検口に布と針金と昔のゴムで作った継手を噛ませ、ボンベを低圧で開く。砂原がメーターをのぞき、数字を読み上げる。玲は名簿ではなく、新しく用意した紙に「反証の記録」と題を入れた。

 「圧、〇・二。流量、微小。臭気、なし」

 「前室温度、下降傾向。覗き窓、煤の動き鈍い」

 「CO₂、上昇……いや、センサーがない。体感。呼吸の重さ」

 最初の五分は順調だった。十人の胸の上下が少し落ち着き、覗き窓の黒がわずかに薄くなった。双子が顔を見合わせ、小さくガッツポーズを作る。子どもが真似をして笑う。笑いは数秒で冷める。だが、その数秒は確かに救いだった。

 十二分。点検口の継手から、か細い音がした。ピ、と短く。

 奥田が飛び、布を押さえ、手のひらで包む。「ここ、裂ける。誰か、針金」

 針金が渡され、奥田が締める。締めすぎれば割れる。緩ければ漏れる。指先に伝わる金属のざらつきが、彼の顔を険しくする。砂原がボンベのバルブをわずかに絞る。流量は落ち、効果は鈍る。だが、零ではない。零ではない――。

 「投票、締め切るよ」

 双子の声が本室の端から聞こえた。箱の前に列はもうない。石は両方の箱に積もり、音は止んだ。数は沈黙の形をしている。吉住は箱の前に立ち、深く息を吸う。沼田が立ち上がり、静かに手を伸ばした。「開ける前に、言わせて。箱は、私たちの代わりに決めてくれない。開けるのは私たちの手だよ」

 「分かってる」

 吉住は短く答え、蓋に手をかけた。

 その瞬間、前室の向こうで鋭い破裂音がした。全員の視線が跳ねる。裏配管の継手が片側だけ外れ、布がほどけ、細い白い霧が扉の縁に噴きつけていた。奥田が咄嗟に身を投じ、手の甲で噴流を遮る。冷たさが皮膚を噛み、赤みがみるみる広がる。沼田が走り、包帯を掴み、濡らした布を重ねた。

 「痛い?」

 「冷たいだけだ。締め直す」

 奥田は歯を食いしばり、もう一度針金を巻いた。指の震えは止まらない。だが継手は再び座り、霧は細くなり、やがて止まった。砂原がメーターを見て、かすかに笑った。「まだ、出てる」

 作業の円の外で、箱の蓋が開いた。小石の白と灰が、傾けられた天板の上で流れ、偏り、止まった。吉住は数えなかった。数えなくても見れば分かる程度に、偏っていた。賛成の箱が、重い。

 双子は顔を伏せ、妹の肩が微かに揺れた。姉は唇を噛み、目を閉じた。若者の一人が「これで」と呟き、言葉を失った。

 「結果は、こうだ」

 吉住は言った。声は平板だった。勝ちの宣言ではない。敗戦の確認でもない。結果の読み上げだ。結果は硬い。硬さは刃だ。沼田が前に出る。「待って。裏配管は生きてる。効果は小さいけど、ゼロじゃない」

 「小さい」

 「ゼロじゃない」

 短い応酬の間に、子どもが一人、沼田にしがみついた。「ナマケモノ、したよ」

 「えらい。勝ちだね」

 沼田は微笑み、子の頭を撫でた。その手が戻る場所は、奥田の包帯だった。白い布は、もう灰を吸って薄く汚れている。

 反火派の輪に、玲は少し遅れて歩み寄った。「名簿、置いてきた」

 砂原が目を丸くした。「どうして」

 「箱が決める前に、紙で決めてきたくなかった。……私の字は残るから」

 「あなたの字は、助けるために残るよ」

 玲は首を横に振った。「助ける字も、刺す字も、同じ黒」

 外の唸りは続いている。扉は時折、低く鳴る。覗き窓の煤は薄く息をして、黒の中に灰色の斑を作った。反火派の試みは、成果と失敗の境目に立っていた。境目は狭い。だが、そこに立つこと自体が選択だった。

 夕刻、吉住は前室の前に立ち、短く手を上げた。「聞け。投票の結果はこうだ。だが、今すぐに“次”を決めない。裏配管の効果を見たい。三十分。三十分で判断する」

 「三十分で足りる?」

 「足りなくても、決める」

 決める、という言葉に、人々の背中がまっすぐになる。決めることは、正しさと別の筋肉を使う。筋肉は疲れる。だが疲れても、決めるしかない時がある。

 その三十分の間に、反火派はもう一つ手を打った。砂原が思いついた小さな装置――金属片と塩水を使って弱い化学反応を連続させ、酸素を“奪う”のではなく、同じ空間で“使い切る”。紙の上では笑ってしまうほど微弱だが、積み重ねれば、誤差が溜まる。

 「材料が足りない」

 「足りるものだけで、やれるだけ」

 若者が缶詰の蓋を曲げ、別の若者が針金で留め、子どもたちが塩を数える。塩は数えやすい。粒を数えるたび、胸の上下が少し落ち着いた。

 沼田は救護スペースで母親の手を洗い、静かに言った。「“次は私が”は、ここでは言わないで。言うなら“次は私たちで出る”にして」

 母親は涙を拭い、うなずいた。言葉の向きを変えるだけで、少し世界が変わる。少しでも、変われば。

 三十分が過ぎた。吉住は覗き窓を最後に一度見て、本室に向き直った。「温度の下降、微小。煤の動き、鈍化。裏配管の効果、確認。装置の負荷、増加なし。――決める」

 玲は胸が跳ねるのを感じた。名簿は足元に置いてきた。今、彼女の手の中にあるのは「反証の記録」だけだ。記録は記録で、刃にも盾にもなる。彼女は鉛筆を握り直し、空白を用意した。

 「人体の補燃、凍結」

 吉住は言った。声は硬いが、わずかに揺れていた。「箱の結果は尊重する。だが今は、別の手で繋ぐ。裏配管の維持。補助反応の継続。焚き手小隊は“抑え”を再定義する。――反火の提案を採用する」

 静寂が落ちた。誰も歓声を上げなかった。上げてはいけない静けさだった。代わりに、いくつかの息が深くなった。深い息は酸素を使う。だが、その瞬間は許された。

 双子が顔を上げ、歌を探した。けれど歌は出てこなかった。代わりに、姉が小さく言葉を紡ぐ。「閉めて整えて、やめます。拭いて下げて、続けます」妹が頷き、同じ言葉を繰り返した。新しい儀式は、まだぎこちない。ぎこちなさは、人の形をしている。

 夜。裏配管の継手は何度も音を立て、何度も締め直された。奥田の包帯は取り替えられ、砂原の紙は余白を失い、沼田の足取りはそれでも速かった。子どもたちはナマケモノ呼吸に飽き、沼田は新しい遊びを考えた。「氷の亀さん。もっとゆっくり。三つまで数えたら、目をつぶる」

 玲は一度だけ、名簿を取りに戻った。紙の角は湿り、黒はわずかに滲んでいた。彼女は赤いペンを見て、そっと箱にしまい、代わりに黒い鉛筆を二本、机の上に並べた。箱の中の小石の音がまだ耳に残っている。石は軽い。軽いものが命を左右する夜は、長い。

 扉の向こうで、遠い音がした。雷でも、倒木でも、車のエンジンでもない。もっと大きく、もっと低く、腹に響く音。誰かが顔を上げ、誰かが手を握り、誰かが祈る。祈りの言葉は短く、意味は少ない。意味が少ないほうが、遠くへ届く。

 吉住は立ったまま、目を閉じた。開いた目は、決める目だったが、そこに初めて、明確な躊躇が灯っていた。躊躇は、人が人である証拠だ。彼は本室全体を見渡し、短く言った。

 「これからの“次”は、火じゃなくて、出る手順で決める。反火は、終わりじゃない。火に逆らうためじゃなく、火の外へ行くためにある」

 反対派と呼ばれた輪に、微かな笑いが生まれた。勝ったからではない。負けをやめたからだ。玲は紙に書く。「反火=終わるための勇気/続ける以外の続け方」。鉛筆の先は、震えていなかった。

 その夜の最後、双子が小さな灯りの下で新しい歌を作った。歌はまだ、うまく響かなかった。けれど、誰もやめようとは言わなかった。誰も、次に燃える名前を探さなかった。名簿は、しばらくのあいだ、ただの紙になった。

 外の音は、少しずつ近づいている。助けなのか、崩壊なのか、誰にも分からない。分からないまま、反火の輪は手を動かす。手を動かすことが、今いちばんの祈りだ。祈りは酸素を生まない。けれど、酸素が尽きる前に、人の形を守る。守れたものの数は、名簿のどこにも書けない。

 朝が来る。来ないかもしれない。どちらでも、彼らは紙に線を引く。新しい線は、火ではなく、出口に向かって引かれる。線が曲がっても、にじんでも、途切れても、紙はまだここにある。ここにある限り、書ける。書ける限り、選べる。

 玲は最後に、余白へ小さな一行を置いた。

 ――箱は決めない。わたしたちが決める。火ではなく、反火で。

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