第3話「点火」
前室は狭かった。鉄の匂いとコンクリートの湿り気が混じって、鼻の奥に張り付く。壁にぶらさがった古い消火器は粉の跡で白く、奥の棚からは濡れた軍手や汚れた毛布がはみ出している。床は片勾配で、排水溝に向かって薄く傾いていた。そこに溜まった水が、誰のものとも知れない土や灰を溶かし込み、薄い膜のように光っていた。
吉住は工程表を持たない。だが、手順は口に出すたび確かな形を持った。
「仕切り扉のシール確認。排気弁閉鎖。換気口は二次閉鎖。点火後、覗き窓で炎の高さと色を監視。CO₂吸着は本室優先。いいな」
語尾はすべて命令形だった。命令形は、心の揺れの居場所を奪う。揺れるなら内側で揺れろ、と言わんばかりの勢いがあった。奥田は短く頷き、パッキンの状態を手で押して確かめる。指先に湿りを感じるたび、彼は眉を寄せる。その横で沼田は救護スペースからアルコール綿を持ち出し、テープでまとめた救急箱を開けた。
大迫源蔵は、自分の上着を脱いだ。背筋は思ったより伸びていた。毛布を二つ折りにして足元に敷く。「これで、床への熱伝導を少しでも減らす」と、冗談のように言った。笑いは起きない。代わりに、何人かが同時に息を吸う音だけが重なった。沼田はアルコール綿を握り、迷いのある目で問う。「痛み止めは? 少しでも」
吉住は無言で首を横に振った。痛み止めは眠気を呼ぶ。眠気は判断を鈍らせ、呼吸を浅くする。ここでそれは、もう一つの危険だった。言葉にせずとも、何人かは理解し、黙って目を伏せた。
「終わったら、扉は開けるな。炎が酸素を探して暴れる」奥田は最後まで工程の危険性を洗いざらい口にする。確認は祈りの別名だった。間違いが起きないように、というより、起きたときに「言ったはずだ」と心を守るための壁でもある。彼の声に自分の不安が混じっていることを、奥田自身がいちばんよく知っているように見えた。
玲は本室の一番前、覗き窓の横を外して名簿に目を落とした。顔を上げなければ、音だけが入ってくる。そうすれば、音を数えられる。数にしてしまえば、少しだけ遠くに置ける。鉛筆の芯は短く、木の部分が親指の腹に当たって痛い。けれど削る音を立てると誰かが振り向く気がして、彼女はその短い芯のまま書き続けた。
「始める」
吉住が小さく告げ、ライターを擦った。火花が黒い空気を瞬く。古い布とベニヤに油を薄く塗った束に、火は最初、青白く沈んで噛みつく。やがて酸素の残量に合わせるように黄色く長く伸びた。熱の波が覗き窓の向こうで歪む。前室の天井に沿って火舌が走り、壁に貼られた古びた注意書きの角を舐めた。
脂が焼ける匂いが立ち上がる。人の皮脂や毛髪に近い、甘いような苦いような複雑な臭気が、薄く本室にも届く。誰かが喉を鳴らし、別の誰かが吐いた。吐瀉の音が一度響くと、堰を切ったように二度三度重なる。祈りの声がそれを追い越し、さらに笑いがひとつ紛れ込んで、すぐに泣きに変わる。音は形を変え、同じ場所を旋回した。
玲は覗き窓を見なかった。代わりに、音を拾った。パチ、パチ、と金属が膨張する音。空気が逃げ場を探して縮む音。火の中にいる人の声が、やがて音ではない別の何かに変わっていく気配。書く。パチ、二。扉の鳴り、弱。人声、消。書く。書いているうちは、現実を半歩だけ後ろにずらしていられる。
十五分。二十分。時計はない。だが、薄い非常灯の明かりが壁のシミをゆっくり移動させるのを目印に、玲は時間を作った。吉住は覗き窓から目を離さず、炎の背丈と色合いを確認する。「まだだ」短く言うたび、背中の筋肉が固く縮む。待つ時間は群衆を黙らせた。黙りは賛成の延長線上にある。反対は言葉だ。言葉は空気を使う。空気は限られている――そう思わせてしまうほどに、前室の火は説得力を持って燃えた。
やがて、炎は背を丸めはじめた。覗き窓のガラスに煤が張り付き、火は色を鈍らせる。天井にまとわりついていた熱の影が薄くなり、前室の温度がわずかに下がる。吉住は覗き窓から目を離し、深く息を吐いた。
「成功だ。本室の扉は守られた。これで外火の押し込みは減る」
その言葉が空間の温度を変えた。成功――たった三文字でできたその言葉は、椅子に固まっていた背中をゆるめ、握り締められていた拳をほどく。反対を声にしてきた人たちは、何も言い返せなくなる。結果が目の前にあるとき、方法論の是非は急に色を失う。
玲は、自分の指が震えていることに遅れて気づいた。名簿の「大迫 源蔵」の横に、無意識に小さな炎の絵を描いてしまっていた。慌てて塗りつぶすと、黒い楕円は紙の繊維に滲み、呼吸のように濃淡を変えた。彼女はその黒を見ないように、行を一つ飛ばし、時刻だけを書いた。
救護スペースで沼田が手を洗っている。手の甲から手首にかけて、泡が白く残る。彼女は動きを止めない。止めると涙が落ちるからだ。背中でそれが分かった。奥田は吸着装置の数値を見つめて「上がり幅は小さい」と呟いた。改善はある。だが指の間から水が漏れるように、希望に穴がある。
双子は囁いた。「大迫さん、すごい。英雄だ」英雄。言葉は温度を下げる。熱いことを言ってしまった誰かの口の中を、氷水が洗うように。英雄という二文字の下で、群衆は安堵に頷きやすくなる。称号が誰かの行為の意味を決めてくれるなら、自分で決めなくていいからだ。
「休憩を回すぞ」吉住が短く言い、持ち場の交代を指示する。子どもは壁際に寄せられ、年配者には水が配られる。水筒の底を叩く音が硬く響いた。底は浅い。誰もが知っているが、誰もが見ないふりをした。見れば、次の議論に繋がるからだ。
しばらくして、最初の異変が起きた。観光で来ていた妻が、音もなく座ったまま前に倒れた。隣にいた女子高生が慌てて支える。「ちょっと、ちょっと! 顔が真っ白」沼田が飛んできて、脈を取る。細く、早い。「頭、重たい? 目、回る?」妻はうなずいた。沼田はすぐに数人を指示して仰向けに寝かせ、足を少し高くする。「一酸化炭素かもしれない。換気は?」奥田が顔をしかめ、装置のメーターを二度、三度見直した。「COは計れてない。CO₂は落ちてきたが……前室からの漏れはゼロじゃない」
成功の二文字は、別の三文字を呼んでいた。副産物。火は言う通りに酸素を食ったが、同時に誰も頼んでいないものを置いていく。目に見えない色のない気体が、名簿にない速度で人を奪いに来る。祈りの声が小さく再開する。だが祈りは酸素を生むわけではなかった。
吉住は前室の扉に再び手を当て、パッキンの温度を確かめた。「まだ開けない。外火は強い。ここを開けたら、一気に吸われる」言いながら、彼自身の顔色も悪かった。命令形は、言っている本人の体にも負担をかける。ただ、彼はそれを見せなかった。見せると、空気が凍るからだ。
時間がまた進む。子どもが眠り、誰かが歌を小さく口ずさむ。歌はすぐ止む。途中で終わる歌ほど、心に刺さるものはない。篠原の双子は、互いの指を絡めたまま、時々誰かの背中をさすって回った。彼女たちの生々しい若さは、この場所で唯一の明るさだった。だが明るさは影を濃くする。彼女たちが「英雄」という言葉を多用するほど、反対していた人たちは口を閉ざし始めた。
やがて、覗き窓の煤が乾いて、誰かが布で軽くなぞった。黒い膜が指に移る。吉住はほんの少しだけ扉から身を離し、本室に目を向けた。「このまま持てばいい。持たせる」声は低く、確信の形をしていた。玲は名簿の次の欄に「前室温度低下、CO₂緩やかに減」と書いたあと、少し迷ってから小さな字で付け加えた。「匂いは薄いが残る」
成功という言葉は、揺れる床を一時的に平らにした。だがそれは長くは続かない。装置の奥で「カコン」と小さな音がした。誰かの肩がぴくりと動く。奥田が駆け寄り、カバーを外す。「吸着剤が湿ってきてる。交換分は……」彼はすぐに口を閉じた。残りは数本。元から心許ないと言っていた分だ。ここから先の日数分すら、足りない。
「やり切ったんだろ。だったら、もう一度やればいい」受験生の誰かが、無邪気な正論を口にした。篠原の姉がうなずく。「そうだよね。大迫さんみたいに、誰かがまた。少しずつ持ちこたえれば、助けが来るまで」
無邪気は、刃より切れることがある。言った本人が、何を斬っているか気づかないから、迷いがない。空気の一部が冷たくなった。沼田が立ち上がり、ハッキリと首を横に振る。「違う。違うよ。それはもう手段じゃない。やり方じゃなくて、考え方のほうが壊れていく」
「でも――」と篠原の妹が言いかけたとき、鉄扉の向こうが低く唸った。土圧がわずかに変わったのか、外の崩落がどこかで起きたのか、避難壕全体が小さく揺れた。ざわめきが走る。誰もが一斉に前室の扉を見る。覗き窓の煤が細かく震え、黒い粉が下に落ちた。
吉住は手を上げ、人差し指を立てる。「静かに」その一本の指に、場の全員の視線が集まる。指が下りると同時に、彼は短く言った。「今は待つ。無闇に動かない。入口側の壁に寄るな。負荷が偏る」
命令形。また、命令形だ。玲は鉛筆を握り直し、名簿の余白に小さく「成功の後」と書いた。視界の端で、観光の妻がうめき、沼田がスポイトで口に水を落とす。少しだけ落ち着いた表情が戻る。よかった、と誰かが言いかけて、飲み込む。よかったは、言うのが難しい言葉になっていた。
その後、二時間ほどは大きな変化がなかった。人の目が慣れ、耳が鈍る。危機の音は一定になると、逆に目立たない。奥田は装置の前で、数字が小さく上下するのを見続けた。沼田は手を洗って、また人の間を歩いた。篠原の姉は歌詞を思い出せない歌を口ずさんだ。妹が途中で追いついて、二人は顔を見合わせ、笑って、黙った。
「……もう一回、話し合おう」
沈黙を破ったのは、吉住だった。意外なくらい柔らかい声だった。彼は覗き窓から離れ、群衆の前に立った。背中は少し丸くなっている。疲れているのが見える。だがその目はまだ、決める目だった。
「前室は今のところ持っている。だが装置の残りが心配だ。ここを抜けるための別の手を、考え直したい。穴を掘るのは無理だ。出口は塞がっている。壁は――」彼は壁に触れ、「熱い。薄いところがある。外はまだ高熱だ」
「じゃあ、どうするの」誰かが言う。「待つしかないの?」
「待つことも手だ。だが、ただ待つだけなら、ここにいる全員を同じ速度で減らしていく。少しでも安全側に転ばせる手があるなら、やるべきだ」
玲は、自分の耳が吉住の言葉を選んで拾っているのに気づいた。命令形の外側に置かれたこの柔らかさは、逆に危うい。柔らかさは、人を抱き込む。抱き込まれた先で、また命令形に送られる。彼女は余白に線を引き、二つの言い方を並べて書いた。「命令形=揺れを隠す/柔らかい声=揺れごと運ぶ」
「別の手って、何ですか」奥田が問う。彼は理屈で戦う人間だ。理屈が無いところでは、彼は立ちにくい。
吉住は壁の上方――換気経路の古い図面に目をやった。「このルートの先に非常口が一つある。外からは土砂で塞がれている可能性が高い。だが、反対側から圧をかければ、少しは動くかもしれない。水のシールを作って、冷やしながら――」
「動かなかったら?」沼田が遮った。声は穏やかだったが、芯は硬い。「動かなかったら、次は誰を燃やすの?」
空気が一瞬固まった。言葉は正面からすぎると、誰かの顔に直撃する。篠原の姉が鼻をすすり、受験生が視線を逸らす。吉住はわずかに目を伏せ、すぐに上げた。「その話は、今はしない。ここにいる全員で出る手を考える。二度と同じことをしないために、だ」
玲は名簿を握る手に力を込めた。紙の端がしわになり、黒いインクの「大迫 源蔵」がわずかに歪む。二度と同じことをしない――それは祈りだ。祈りの別名が、また増えた。
打ち合わせは続いた。必要な水の量、毛布の枚数、負傷者の移動、子どもを抱える順番。声が飛ぶ。案が出る。案はすぐ穴が見つかり、別の案に差し替えられる。差し替えの速さが場を支えた。ゆっくり考えれば、誰も口を開けなくなるからだ。
そのときだった。覗き窓の向こうで、小さな光がぱちりと弾けた。ほとんど見逃すほどの小ささだ。だが空気は敏感だ。数人の視線が同時にそこへ向く。吉住が一歩近づき、顔をしかめた。「酸素、流れてる?」
奥田が壁の隙間に手を当て、首を横に振る。「シールは生きてる。けど、温度がまた上がってる」
玲の手が、紙の上で止まった。視界の端が暗くなり、耳が遠くなる感覚。待つという選択肢の時間が、終わりに近づいているのが分かった。誰かが息を吸い込み、別の誰かが「また?」と言いかけて止めた。言葉にすると、現実を招く。皆がその迷信を一時的に共有する。
沈黙のまま、数秒。数十秒。覗き窓の煤がじわりと広がる。薄いひびのような筋が黒に走り、そこから細かな粉が落ちた。前室の温度が上がれば、再燃はある。再燃があれば、次の「成功」は長くない。
「――見張りを増やす。子どもは奥へ。水、前室の床際に追加で撒く」
吉住の命令形が戻った。声に迷いはなかった。玲は名簿の端に「再燃の兆候」と書き、日付の横に小さな点を打つ。点は丸く、黒い。第一話の余白に落とした「口火」の黒と、同じ色だった。
篠原の姉が小さく呟いた。「ねえ、私たち……やっぱり、誰か」
妹がその手を強く握った。「だめ。もう、だめ」
沼田はふたりの間に身体を入れ、優しく首を振った。「この話は、ここではしない」
言えない言葉は、空気の底に沈んで残る。沈殿した言葉は、誰かの足に絡みつく。歩こうとしたとき、引き戻す。前室の向こうで小さな光がまた、ぱちりと弾けた。
玲は名簿を広げ直し、深く息を吐いた。吐いた息は、すぐに薄くなって返ってくる。彼女は行をひとつ埋め、そして余白に書いた。
――名簿は、心の逃げ道であり、次の火種の置き場でもある。
鉛筆の先が紙から離れると同時に、避難壕のどこかで、ほんの少しだけ空気が変わった。誰も、まだそれを言葉にできない。けれど、分かる。成功という言葉が灯した火は、前室だけで燃えているわけではない。人の中にも、静かに、確実に広がっている。
そして、扉の向こうで、新しい音がした。土砂が流れる音でも、木が裂ける音でもない。遠い雷鳴のようで、近い唸りのような、聞き慣れない響き。誰かが顔を上げる。誰かが手を握る。誰かが名簿を抱きしめる。
吉住が一歩、前に出た。
その一歩の重さが、全員の視線を引き寄せた。次に起きることは、きっとどの手順書にも載っていない。だが、誰かが決めなければならない。もう一度、ではない何かを。
玲は鉛筆を握り直し、紙に空白を作った。そこに何を書くのか、まだ分からない。けれど、書く場所だけは用意しておく。言葉が来たときに取り逃がさないように。
覗き窓の黒い膜が、また、かすかに震えた。




