第1話「口火」
避難開始のサイレンは、町を割るように鳴った。山の斜面を赤黒い煙が舐めるように這い、スピーカーのアナウンスが断続的に避難壕の位置を告げる。朝比奈玲は学校から母と並んで走った。だが母とはぐれ、曲がり角で人波に逆らってしまった。気づくと彼女は一人、町内会の地下避難壕の鉄扉を押していた。扉は重く、油の匂いが混じる冷たい鉄の手触りがあった。
扉が閉じる瞬間、元消防士の吉住剛が勢いよく滑り込んできた。彼の体がぶつかった拍子に前室のレバーが歪み、金属音が嫌な余韻を残す。直後に大きな地鳴りがして、外の階段が波のように崩れ落ちた。土砂が扉の外に圧し掛かり、外へ出る道は塞がれた。中はざわめき、だが扉の向こうで燃える匂いと高温が薄く伝わってくるだけだった。
閉じ込められたのは五十人ほど。乳児を抱えた若い母親、杖を突く老人、喘息の薬を携えた中年、受験勉強を諦めた高校生、観光で来ていた老夫婦。壁には古い配管図が貼られ、換気のルートが赤と青の線で示されている。CO₂吸着装置はあるが年季が入っていて、交換用ソーダライム缶は数本しか残っていない。奥田修が手際よく点検を始め、沼田沙希は毛布と水を分配する役を取りまとめた。吉住は腕組みして前室の扉を何度も叩き、外の腐食した金属の音を確かめていた。
「書く人がいれば、混乱は遅くなる」吉住は低く言い、玲に名簿を書くよう促した。玲は震える手で鉛筆を握る。名簿に書くこと。それは単に名前と年齢ではなく、時間と出来事を記録していく役割だった。何かを記録する行為が、揺れる心を一つの線に閉じ込める。そう信じた群衆の一隅で、まだ小さな秩序が息をしていた。
最初の一時間は奇妙な穏やかさが続いた。誰かが子どもに歌を教え、別の者が冗談を言って場を和ませる。だが壁の温度はじわじわと上がり、前室の隙間から熱が差し込む。鉄扉は熱で膨張し、鍵の噛み合わせがぎしぎしと鳴った。奥田は顔をしかめ、配管図を指して換気口が外火で塞がれていると報告した。CO₂濃度が上昇している、頭痛や眠気、判断力の低下が見られる――言葉は理屈として冷たくても、その重みは息苦しさを和らげはしなかった。
そのとき吉住が立ち上がった。彼の体は大きく、元消防士としての骨格が頼もしさを与える。だがその声は冷たく、一枚の図を示した。前室と本室の関係、通気の流れ、バックドラフトの危険性。扉の隙間から酸素が外へ漏れ、そこに新しい酸素が供給されれば、外火は内側に逆流する。爆発的燃焼の恐れがある。吉住は前室と本室の仕切り扉を指で叩いた。
「この前室の酸素を意図的に落とせば、火はここで止まる。前室を窒息帯にするんだ」
問いが飛んだ。「どうやって?」誰かの声が震える。吉住はためらいなく答えた。
「燃やす。燃やして酸素を喰わせ、二酸化炭素で満たす。燃料は――」
そこで彼の言葉は止まった。視線が集団の上をゆっくりと滑って行き、やがて人を捉えた。「人だ」
空気が凍った。笑いも怒号も起きない。ただ、人々は互いの顔を窺い、相手の反応を測り始める。冗談だろう、と誰かが笑ったが、その笑いはすぐに乾いた。言葉と現実の間で、恐怖が静かに形を取り始めた。
玲は鉛筆を握りしめ、紙に線を引いた。彼女は「提案:前室窒息化。方法:点火。燃料:人。反応:賛否拮抗。」と書いた。鉛筆の先が震え、黒い点が紙に落ちる。小さな点が、やがて誰かの口火になることを、まだ彼女は知らなかった。
議論は始まった。沼田は即座に「ありえません」と吐き捨てるように言い放ち、目には怒りが宿った。奥田は配管図を覗き込みつつ、「理屈としては……」と語尾を濁す。吉住は理性を盾にし、計算を示す。ひとりが犠牲になれば、前室は安全地帯になり、本室の命は守れる。酸素の消費は増えるが、窒息化に成功すれば火の侵入を断てる。時間が稼げる――と。
「その“誰か”は?」と誰かが問う。問いは椅子のきしみとともに宙を揺れた。理屈は顔の具体へ飛び、名簿係の玲はうつむきながら自分の名前を確かめた。恐怖は理論よりも、誰かの体温や皺や泣き顔の形でやって来る。
最初に視線が止まったのは年寄りの一団だった。足が弱く、呼吸が浅い。その中の一人――白髪の老人が静かに頭を下げた。彼の目には諦めの色があった。隣にいた若い父親が声を荒げた。「父さんをそんな目に遭わせるな!」だが老人は首を振り、震える声で言った。「私がいればいい。家族はここにいるだろう。若い者は生きなければいけない」
その言葉で事態は一転した。誰かが自らを差し出す。自己犠牲の発露に場は一瞬で救われた気分になった。だがそれは安堵ではなく、別の痛みだった。自らを差し出す行為は、他者にとっては救いでもあり、同時に深い不公正の印でもある。誰が真に選ばれたのか。誰が自分の意思で立ったのか。群衆には問いが残った。
次に指名されたのは「観光で来ていた夫婦」の夫だった。彼は顔を赤らめ、言葉を詰まらせた。子どもはいない。彼は震えながらも、戦うように否定した。「そんなことはできない」しかし妻が彼を制した。泣きながら「私たちは来てしまった。地元の人間ではない」と呟く。外部者という烙印が、群衆の目を変えた。硬直していた秩序が、むしろこの瞬間から崩れていった。
玲は名簿に続けて書く。時間、名前、年齢、そして欄外に小さく「選定の過程:討議→自発的志願→指名」と記した。文字は冷たく、事実だけを拾うように進むが、彼女の手は震えて止まらない。鉛筆が紙を引き裂くような音を立てるたびに、前室の空気が厚くなる。
議論は二つの軸で展開した。一つは倫理、もう一つは効率。倫理は沼田や若い母親たちのように誰も殺すべきではないという立場を取った。だが効率を掲げる者は、冷徹な数字を示す。酸素の総量、消費率、焼失可能な燃料の時間換算。計算は容赦なく、あたかも命を方程式に置き換えてしまう。吉住はその計算の番人になろうとした。
「選ぶな。選ばせろ」ある受験生が小さな声で言った。彼の目は異様に冷たかった。受験で培った合理性がここで顔を出す。だが誰もその考えを歓迎しなかった。誰が選ぶのか、どうやって? 投票か、くじか。公平を装った方法論が出てくるが、実際には揺れる人間の心に勝るものはない。
夜が近づいた。外の火はますます近く、鉄扉が黒く焼ける匂いは濃くなる。人々の呼吸は浅く、会話は短くなり、眠気が頬を重くする。奥田は次第に無力感を露わにし、ソーダライムの残量を指差してため息をつく。時間がない。決断が迫る。
結局、決め手になったのは「手続き」だった。誰もが納得する完璧な手続きなど存在しない。だが群衆は審議の疲れから、振り出しに戻ることを恐れ、ある種の形式を受け入れた。くじ引き。名簿に記された全員の名前を小さな紙に折り、帽子の中に入れる。だがその行為自体が矛盾を孕んでいた。誰かを外すことこそが問題なのに、平等の名で運命を委ねる仕組みが生まれる。
玲は紙片に自分の名前を書く手を止められなかった。誰かが提案した。「生死に関わる決定を、選ばれた代表二人で最終判断する」。代表は吉住と沼田になった。二人は議論し、互いに鋭く睨み合った。自発的志願者がいること、老人の申し出、観光客の妻の言葉。結局、帽子から一枚が引かれた。
引かれたのは、観光で来ていた夫だった。彼は震え、声が出ない。ただ妻が彼の手を握ったまま、目を伏せた。群衆からは安堵の息と、どこか濁った祝福のようなものが漏れた。誰もが自分の胸に針を刺されたように疼いた。玲は名簿にその名前を書き、時刻を記した。手が震え、字が歪む。
その夜、狭い前室で簡素な「準備」が行われた。燃料となる布や可燃物が集められ、それでも足りないので段ボールが裂かれた。夫の妻は泣き崩れ、誰も慰めることができなかった。老人は静かに額を拭い、「これでいいのか」を呟いた。受験生は無言で机の下に座り、学校の問題集をぎゅっと抱きしめた。
吉住は最後の確認をし、火が外に回らないように前室の通気を再度閉鎖した。奥田はソーダライムの残量を念入りに確認し、もしものときの手順を皆に伝えた。だが伝わるのは冷たい事務連絡だけで、誰の心も落ち着かなかった。彼らは生き延びるために冷たくなければならないのか。誰かの体温を奪うことが、生きるための条件なのか。
玲は最後に名簿の余白に「口火:19:42」と書き入れた。鉛筆の線が紙の繊維を深く裂いていく。外では風が何かを運ぶように唸り、鉄の奥が鳴った。前室の空気は熱を帯び、鼓動が耳に近づく。誰もがそれが未必の殺意であることを分かっていたが、同時に誰もがその救いに一縷の希望を託していた。
夫は震えながら立たされた。夫の後ろで妻が短く「ありがとう」とだけ囁いた。彼は顔を上げ、薄い光に目を細めた。そこには逃げ場のない確定が映っている。吉住は震える手でライターを取り出した。火花が小さく散り、明滅する。全員の呼吸が一つになる瞬間、玲の鉛筆が紙の上で細い音を立てた。
火は、やがて口を開く。




