第8話 保護者会は推し活会場
文化祭が終わった翌週、学校の空気が一段硬くなった。十月の終わりの風が、昇降口のガラスをさらりと拭いていく。紙テープの名残は片づけられ、掲示板は何事もなかった顔をしている。現実は、だいたいこうやって平常運転に復帰する。
三年の保護者会は、午後いち。会議室は四角くて、音が反響しない材質でできていた。折りたたみの椅子が整列し、前方にスクリーン。ホワイトバランスを取り損ねたプロジェクターの白が、うっすら青い。黒いスーツとベージュのコートと、きっちりした表情。空気の粒が一つずつ角を持っていて、吸い込むたびに喉がチクチクする。
「SNSが学業に与える影響について」
教頭の鵤が抑揚を抑えた声で読み上げる。言葉は正しい。正しいけれど、温度がない。温度のない言葉は、耳の上を滑る。保護者の視線は前に向いているが、半分は別の場所にいる。家の台所、仕事のメール、夕飯の買い出し。俺は壁際で配布資料を抱え、目の前の現実と、頭の奥で別の現実を並べていた。
鵤の話が二つ目のスライドに入ったあたりで、ポケットのスマホが小さく震えた。通知の震えは、悪いことほど控えめだ。画面をちらと覗く。DM。差出人のアイコンは、淡いピンクのうさぎのイラスト。見覚えがある。見覚えがありすぎる。保護者会の最前列、腕を組んでスクリーンを見上げている、あの人のスマホケースにも、同じうさぎ。
《白咲ユメ、最近キャラ変? 運営、変わった?》
心臓が、胸の真ん中で二回、雑に跳ねた。雑でも正確な場所に当たる。息が浅くなるのを、喉で止める。いまここで変な顔はできない。壁の時計の秒針は、さっきからひとつも迷っていない。迷わない針を、ちょっとだけ恨む。
保護者会は予定通りに終わった。拍手は控えめで、でもちゃんとあった。鵤は片づけを主任に任せ、すぐに次の会議に向かう。俺は資料の端をそろえ、椅子を一列ずつ畳む。最後列の椅子を畳み終えたとき、廊下のほうから控えめな呼び声。
「先生」
さっきのうさぎのアイコンの人。髪を後ろでひとつに結わえ、薄手のコートを腕にかけている。目が強い。好きなものがある人の目だ。
「うちの子、あなたの授業、最近楽しそう。でも、SNSばっかりで大丈夫かしら」
真顔の質問。正論の匂い。俺は一度だけ呼吸を深くして、言葉を選ぶ。
「SNSは道具です。包丁みたいなもの。使い方を一緒に練習するのが、いまの授業だと思ってます」
「……それは、わかるのよ。でも、あのVtuber、白咲ユメって子。子どもが夢中で。正直、ちょっと不安」
心臓が三回目に跳ねそうになって、なんとか一回におさめる。喉の奥で返事が迷子になりかける。俺は口角だけで小さく笑って、言った。
「不安なのは当然です。もしよろしければ、“推し活ルール”を一緒に作りませんか」
「推し活、ルール?」
「はい。家と学校の共通ルール。例えば『寝る前一時間はノーSNS』『匿名で他人を傷つける言葉はブロック・報告』『学びがある配信はメモを残す』。そして、保護者の方が“わからないまま禁止”じゃなく、“わかろうとして一緒に決める”」
彼女の目が、少しだけ柔らかくなった。強い目は、納得するとき、角が小さくなる。うさぎのアイコンが、頭の隅でぴょんと跳ねた。
「先生、あなた、推し活してる?」
「してません」
即答。心の中では正座して土下座している。家でいちばん熱心に推し活をしているのは、俺かもしれない。いや、推しの“中の人”の夫が推し活と言えるのか、定義の問題だ。定義の話をすると長いので、やめた。
「……ふふ。わかった。作業会、行きます」
小さく笑って、彼女は会議室を後にした。歩幅は早いのに、足音は静かだった。強い人は、だいたい足音が静かだ。
放課後、三組の教室で“推し活ルール”作業会を開いた。黒板の半分に大きく「推し活ルール会議」と書き、もう半分に「今日は“禁止”より“工夫”」と書いた。机を島にして、保護者数名、生徒有志、雨宮先生、俺。教室の時計が十六時を回るころ、最初の鉛筆が紙に触れ、最初の「えー」が空気をほどく。
「ルールは“禁止”だけじゃ続かない。だから“ごほうび”も入れる。例えば『一週間、ルールを守れたら推しの名言をクラス掲示に採用』。健全で前向きな言葉、限定で」
生徒たちの目が、ぱっと上がる。ごほうびは、正しく使うと勉強より効く。いや、勉強もごほうびのひとつだ。順番の話。
「推しの名言、黒板に?」
「うん。朝のホームルームで一言読む。先生が選ぶ“健全な言葉”から」
「“健全”って誰が決めるんですか」
「俺と生徒会と、今日いる人たち」
「独裁じゃないなら、まあ」
軽口が一つ出ると、次の意見が出やすくなる。教室の空気は、生き物だ。空気を飼うには、笑いが要る。
「他には?」
「『配信を見る時間を、親子で“宣言”する』」
「『学校の日は二十一時以降はアーカイブ』」
「『コメント欄で喧嘩しない』」
「『推しの悪口を言われたら、深呼吸してミュート』」
「『推しの“好きポイント”を一週間に一度、三行で書く』」
短い意見が、黒板に並んでいく。黒板の粉が白い雨みたいに落ちる。落ちる粉を、雨宮先生が教卓でそっと払う。保健体育の先生は、だいたいこういうところが上手い。
ミオが挙手する。少し迷って、でもしっかり。
「白咲ユメの『夢は売れても、心は売らない』がいい」
喉が鳴りそうになった。今夜の配信のサムネに入れる予定の言葉だった。俺は咳払い一回でごまかして、うなずいた。
「いいね。掲示の“今週の名言”の候補に入れよう」
後ろで保護者のひとりが笑う。「それ、いい言葉ね。うちのも書き写すわ」
「“うちの”?」
「家の冷蔵庫の横。目立つところ」
すでに実装の準備ができている。強い。強い親は、だいたい家の動線をよく知っている。
ルールは、禁止と工夫とごほうびの三点でまとまった。最後に「今日のまとめ」を黒板に書く。
・わからないまま禁止しない。わかろうとして一緒に決める。
・タイムテーブルは“宣言”。守れたらちいさく讃える。
・推しの言葉で、教室の空気をよくする。
作業会の終わり、あのうさぎアイコンの保護者が近寄って、小声で囁く。さっきよりずっと柔らかい声。
「先生、白咲ユメって、運営ちゃんとしてるのね」
「……そうですね。とても」
「うち、今夜から“配信ログ”つけるわ。子どもと一緒に。寝る前はアーカイブ。リアタイは週末に」
「ナイス推し活です」
ハイタッチはしない。しないけれど、空気はハイタッチした。
片づけを終えて職員室に戻ると、鵤が資料を閉じるところだった。目が合う。彼は短く顎を引き、何も言わずに出ていった。言葉がないときほど、伝わることもある。今日の“なし”は、悪くない“なし”だ。
夜。家に帰ると、台所でユメが鍋をかき回していた。湯気の向こうで、モニターに“推し活ルール”の写メが映っている。白い枠で囲って、太字にした「わからないまま禁止しない」のとこに、蛍光ペンの飾り。家でも仕事は仕事の顔になる。仕事の顔の人は、きれいだ。
「先生、やったね」
「やった。あと、バレかけた」
「ふふ。大丈夫、家庭の推し活は守秘義務」
「守秘義務の概念、広いな」
「うちの運営は、広い。広いけど、堅い」
双子がリビングのテーブルに走ってきて、ノートを持ち上げる。表紙に大きく「はいしんログ」。小さな手の字は、不思議と勢いがある。
「これ、“はいしんログ”。きょうのあいことば」
ノートの一行目には、拙い字でこうあった。
『ゆめはうれても、こころはうらない』
胸の奥を、誰かが手のひらでぎゅっと掴んだみたいだった。掴んで、離さない。どうしようもなく、嬉しい痛さ。
「いい言葉だな」
「パパ、しってる?」
「ちょっとな」
「ゆめはうれる?」
「売れるといいな」
「こころは?」
「売らない」
「じゃ、すき」
双子はそれで満足し、次のページに今日の配信時間を記入し、イラストの欄に意味のわからない生き物を描いた。意味のわからない生き物は、たいがいかわいい。かわいいから、意味は後からついてくる。
夕食の湯気の向こうで、ユメが俺を見た。いつもの目。配信前の、呼吸を整える目。
「先生。今日の議事録、送って」
「もう送った。ルールの“ごほうび”のとこ、うちの名言も候補に入ってる」
「どれ」
「それ」
「……ふふ」
笑って、味見のスプーンを俺に差し出す。塩気と甘さが、ちょうど真ん中で握手している。文化祭のポップコーンの続きの味だ。
風呂上がり。湯気の中で、ユメがぽつりと聞く。声は湯気より少し重い。
「わたしの推し、誰か知ってる?」
「……だれ」
「“やめない”を選ぶ人」
胸の奥の掴まれた場所が、もう一度ぎゅっとなった。言葉が出る前に、タオルで顔を隠した。隠して、少し黙った。黙ることにも意味はある。意味のある黙りは、言葉より伝わるときがある。
「ありがと」
「どういたしまして」
言葉に戻る。戻るために、黙った時間を使う。
配信が始まる。俺はミキサーの前に座り、双子はベビーサークルの中で“はいしんログ”に今日の合言葉の欄を作る。ユメはマイクの前で声を整え、画面の向こうの何千の目に向けて笑う。コメント欄に、またあのうさぎのアイコンが流れた気がする。気がするだけかもしれない。でも、いい。気がしただけでも、距離は縮まる。
「今日の合言葉は――」
テロップに、あの言葉。『夢は売れても、心は売らない』。コメント欄が、短い賛成で埋まる。短い賛成が、長い支えになることを、最近ようやく知った。
配信の途中、ユメがふいに言う。
「学校で“推し活ルール”を作ってくれてる先生がいるんだって」
「だれ」
双子が小声で聞く。俺は肩をすくめる。ユメは笑って、言葉を続ける。
「“わからないまま禁止しない”ってさ。わかろうとして、一緒に決めるんだって」
コメント欄が「それな」で埋まる。短い同意が、四方から飛ぶ。音はないけど、音があるみたいに読める。
配信が終わると、家の空気が少しだけ軽くなる。ライトが落ち、画面が暗くなり、ミキサーのメーターの緑が呼吸をやめる。ユメは椅子にもたれ、息をひとつ。双子は「はいしんログ」に今日のマルをつけ、シールを一枚貼る。シールは星。星は、夜に似合う。
「先生、今日の先生は?」
ユメがいたずらっぽく聞く。自分で自分に点をつけろと言われるのは苦手だ。苦手だけど、やってみる。
「百点中、七十二点」
「高い」
「保護者会でDMが来て、心臓落としそうになったけど、拾った。作業会で名言が刺さって、ちょっと泣きそうになったけど、飲み込んだ。飲み込んで、喉に少し残った」
「それは、合格」
「ですか」
「です」
いつものやり取り。いつものやり取りが、家の柱を太くする。
翌朝。教室。黒板の端に、白い紙。掲示の「今週の名言」。角をテープで留める。テープの端を折り返して、剥がしやすくしておくのは、誰かが教えてくれた生活技。こういうのが一番役に立つ。
《夢は売れても、心は売らない》
字間を少し広くして、読みやすく。黒板の粉が少し降って、紙の上に白い点がつく。指で払う。払った指に、粉が移る。指先をズボンでこっそり拭く。拭いた跡は見えない。見えないけれど、跡は跡だ。
ホームルーム。朝の挨拶のあと、短く一言。
「今週の名言。誰の言葉かは、知ってる人もいると思うけど、名前も顔も、いまは置いとこう。言葉だけで読んでみよう」
「夢は売れても、心は売らない」
声は一斉じゃない。バラバラで、でも、揃っていく。途中で笑ったやつがいて、最後は静かに終わる。静かに終わるのは、悪くない。静けさは、余白の仕事だ。
配布物を配り終えてふと見ると、教室の後ろで、あのうさぎアイコンの保護者がこっそり覗いていた。参観日ではないけど、送迎のついでに覗いたのだろう。目が合う。彼女は軽く会釈して、スマホに何かをメモした。たぶん“配信ログ”。家の冷蔵庫の横に、新しい紙が一枚貼られる。想像するだけで、家がちょっと温かくなる。
休み時間、タクミが編集用のiPadを抱えて近づいてくる。画面の上には、昨日の“推し活ルール作業会”の短いダイジェスト。黒板の前で笑うミオ、うなずく保護者、雨宮先生のホイッスル。テロップが細い線で走る。
「先生、これ、校内向けに出すっすか」
「出そう。“家と学校の共通ルール”のまとめも入れて」
「了解。……先生」
「ん」
「“心は売らない”って、編集もそうっすね」
「どういう意味」
「盛るけど、盛りすぎない。嘘つかない。良さがちゃんと伝わる形に、ちゃんと整える。売るのは外側じゃなくて、中の温度。そういうやつ」
タクミはさらっと言って、イヤホンを片耳に戻した。彼が言うと、本当にそういう気がしてくる。編集のやつは、言葉の並べ替えが上手い。
昼休み。ミオが「今週の名言」をスマホで撮って、生活ノートの最後のページに貼り付けた。貼った上から、小さく丸を書き、丸の中に「いい」と書く。自分にだけ読める字で。自分にだけ読める言葉は、役に立つ。
放課後、廊下で鵤に会う。彼は足を止めず、でも、短くひとこと。
「名言、悪くない」
「ありがとうございます」
「“誰の言葉か”より、“どう読ませるか”だ」
「はい」
唐突な正論。正論の角は、今日は丸かった。丸い正論は飲み込みやすい。
夕方。空が薄く冷えて、遠くのグラウンドの声が細くなる。校門を出る前に、スマホが震えた。うさぎのアイコンのDM。
《“配信ログ”、子どもと二人でつけた。よく眠れそう。ありがとう先生》
短い文が、短いのに重い。俺は短く返す。
《ナイス推し活です》
家。玄関を開けると、ユメがエプロン姿でフライパンを振っていた。香ばしい匂い。双子はテーブルの上で「はいしんログ」にシールを貼っている。今日のシールは、星ではなく、ハート。ハートは、今日に似合う。
「先生。今日の“名言”、どうだった?」
「よかった。先に泣きそうになったのは俺だけ」
「先生は泣き虫」
「泣かない。泣きそうな顔をするだけ」
「それを泣き虫と言うの」
言い合いながら、皿を並べる。双子が箸を数え、一本足りないと言って、なぜか自分の耳に挿す。耳に挿すな。やめろ。笑いながら止める。止められて、笑う。笑いながら、箸はきっちり四人分ならぶ。
食後、ユメがノートを開く。「“家庭の推し活ルール”」。ページの上に、今日作ったルールが家の言葉に翻訳されて並んでいる。宣言、アーカイブ、メモ。メモの欄には、双子のひらがなで「すき」。ひらがなの「す」は、だいたいヘタになる。ヘタな「す」は、かわいい。
「先生」
「ん」
「今日の先生、すこしだけ、キャラ変」
「どのへん」
「保護者会のときの顔。前より、好き」
「怖かったけど」
「怖くても、立ってた。立ってたら、だいたい大丈夫」
「だいたい、か」
「全部は求めない。だいたい、でいい日もある」
うつむいたユメの頬に、台所のライトが白く落ちる。髪の毛が一筋、光る。俺はそれを指で直す。直しながら、心の中で三回だけ唱える。やめない、やめない、やめない。唱えるだけで、肩が少し軽くなる。
夜が深くなる。家の音が小さくなる。冷蔵庫のうなりと、遠い車の音と、双子の寝息。自分の呼吸の音が聞こえる。秒針の音は、今日は目立たない。目立たないけれど、確かだ。確かで、速すぎない。速すぎないのが、ちょうどいい。
寝る前。ユメが布団にもぐりながら、小さな声で言う。
「先生。今週の“名言”、来週も続けよ」
「続ける」
「次は、なににする?」
「まだ秘密。でも、読んだら、少し背筋が伸びるやつ」
「伸ばしすぎないやつがいい」
「任せろ」
電気を落とす。暗くなると、今日の白い紙が瞼の裏に浮かぶ。『夢は売れても、心は売らない』。薄い光で、くっきり。言葉は、置き方で変わる。置いた場所で、また変わる。教室の黒板、家の冷蔵庫、配信のテロップ。どこに置いても、消えない。
翌朝。教室の扉を開けると、黒板の端の紙がまだきちんと貼られている。テープの端がちょっとだけめくれて、剥がしやすくなっている。誰かが、昨日より読みやすい位置に、紙を一センチだけずらした。誰がやったのかはわからない。わからないままでいい。そういう手のおかげで、教室は今日も始まる。
――保護者会は、たしかに緊張する。けれど、同時に、推し活会場でもある。誰かが誰かを好きだと言える場所は、だいたい安全だ。好きの言い方を練習する場所は、だいたいあたたかい。学校は、そういう練習のためにある。俺は今日も黒板にチョークで線を引く。一画目は、上へ。短く、迷わず、すっと。




