第7話 文化祭、企画“0”からの逆転
文化祭実行委員の会議は、想像以上に静かだった。静かすぎて、つまり誰もやる気がないってことだ。音がないのに、空気が埃っぽい。白い長机が島みたいに並んで、中央に小さな名札。書記のボールペンだけが、紙の上を行ったり来たりする。行くと戻るだけ。前に進む気配がない。
「一年三組は……未定、ですね」
書記が読み上げる。読み上げながら、自分の字を疑っている顔だ。未定という字は便利だ。線が少ないのに、やらない気配が濃い。
「無理せず安全第一で」
教頭・鵤が低く言う。灰色のスーツに、灰色のネクタイ。言葉まで灰色に聞こえる。安全第一。砂袋。風が吹かない日の凧。
その空気を吸ったら、俺の肺まで灰色になりそうだった。だから、吸う前に手を挙げた。
「やります」
顔がこちらを向く。向いた顔の奥で、どうせ無理でしょ、が薄く光る。そういう光に対しては、具体が一番強い。
「何を?」
「屋台――じゃなくて、“屋台風配信ブース”」
会議室の温度が一度だけ動いた。どよめき。どよめきには、ちょっとだけ酸素が入っている。
「校内限定配信。三組の出し物は“言葉の屋台”。通りかかった人の一言を、編集してショートに。合言葉は『三秒で笑って十秒で好きになる』」
笑う人、眉を上げる人、メモの手を止める人。鵤の眉が跳ね上がる。
「配信は規制が多い。安全上の――」
「顔は映さない。声も変換。生徒会の承認も取る。プライバシーは学校ルールを上回る“ユメ運営ルール”準拠にします」
口が勝手に出た。出てから、しまったと思う。ユメ運営、は家の呼び名だ。
「ユメ運営?」
「プロの運営ルール、です。安全と同意を最優先。記録は校内のみで保管、翌日破棄」
鵤はしばし沈黙し、椅子をわずかに引いた。沈黙の淵で落ちかけたところを、学年主任が拾ってくれる。
「……まずは案を持ってきてください。生徒会と連携で」
通った。厳密にはまだ通ってないけど、道はできた。ゼロに穴を開けた。穴があれば、そこから風が入る。
放課後、教室。机をコの字に組み、黒い布を垂らして簡易ブースを作る。段ボールに白いガムテープで枠を描き、上に筆ペンで看板。「言葉の屋台 三秒で笑って十秒で好きになる」。字は下手だが、勢いだけは立派だ。タクミがiPadで波形を見つめ、イヤホンを片方だけ耳に入れる。ミオは色ペンを持ち、厚紙に“お題カード”を書いていく。
「『最近言われて嬉しかった一言』、『三日続いたら自慢していいこと』、『自分にしか言えないありがとう』」
カードを並べるミオの横顔が、いつもより柔らかい。色ペンのキャップを歯で外す癖をやめて、ちゃんと指で外している。そういう小さなところが、今日の教室の空気を変える。
「ミオ、センスある」
「先生、褒めすぎ」
「褒め切り抜き、作るから」
「なにそれ」
「うちの屋台の目玉。相手の“いいところだけ”を三十秒に切り抜く。余計な言い訳も、謙遜も、削る」
タクミがニヤつく。
「編集、俺に任せろ。テロップは細い線で、言葉は面で見せる感じっすね」
「頼んだ。音はコンデンサ一本で拾って、声変換かけて。顔は絶対映さない。手だけ、カバンだけ、靴だけ。匂いのする部分だけ」
「匂いって映るんすか」
「映る。たぶん」
――家では、ユメがエプロン姿で試作品のポップコーンを振っていた。鍋にコーンを落とす音が軽く弾け、ふたの下でリズムが早くなる。
「屋台と言えば食べ物。屋台“風配信”でも胃袋は大事」
「文化祭へ差し入れ?」
「当日、わたしは行けないけど、味は行ける」
双子が豆粒みたいな前掛けをして、塩を小指と薬指だけでつまんで“ぱらり”。偉そうな顔だ。偉そうに塩を落とすのは、許される。
「パパの屋台、あじつけ係」
「味付けは、言葉のほうも頼む」
「ことばにしお?」
「心の塩」
「しょっぱそう」
「しょっぱくない。甘じょっぱいやつ」
「おいしいやつだ」
泣き笑いの味。文化祭に一番合う。鍋から溢れそうなポップコーンをボウルに移し、透明の袋に入れ、白いマスキングテープで封をする。テープに双子がペンでハートを描く。描きすぎて丸くなる。
文化祭当日。天気はぎりぎり晴れ。廊下はコロッケの匂いと笑い声でざわめいていた。紙の札に書かれた「いらっしゃいませ」が、どこに行っても同じ声で迎えてくる。三組の前には黒い布のブース。入口に小さく「校内限定」の文字。看板の下に、お題カードを扇形に並べる。机の下では、小型のバッテリーが静かに唸っている。タクミがカメラの角度を調整し、ミオが受付で名前のないカードを配る。
最初の客は、意外にも数学の笠松先生だった。眉間のしわは今日も健在だが、休日仕様のニットで柔らかく見える。
「わし、なにを言えばいい?」
「“最近言われて嬉しかった一言”、いかがですか」
「……ありがとう、か」
短いのに重い。短いから重い。タクミが瞬時に編集。波形が跳ね、テロップが踊る。画面の下に小さく、誰の顔も出ない校章。横には細い線で言葉。
『“ありがとう”で数式は解けない。でも、心は軽くなる』
出来上がった三十秒を見た笠松先生が、目を丸くした。
「おお……これ、わし、かっこよすぎないか?」
「実物以上にかっこよくするのが編集です」
「なるほど、詐術だな」
「技術です」
次に来たのはバスケ部の女子。頬が上気している。部活のジャージの上から、手首に小さなミサンガ。
「“三日続いたら自慢していいこと”」
「……早起き」
「いい。三日は偉業」
即座にテロップ。
『三日続いた早起きは、もう才能』
彼女はスマホに保存して、笑った。
「これ、部のグループに投げていい?」
「顔映ってないからOK。『校内限定動画』って一言添えて」
列ができた。制服の襟、カーディガンの袖、名札、靴紐。映るのは断片だけ。その断片の温度で、持ち主がわかる。お題カードは足りなくなり、ミオがペンを走らせて手書きで増やす。筆圧が上がって、字が少し太くなる。
「先生、これも」
『“きょうの自分、ひとつだけ褒めてみる”』
「いい。最高にいい」
「褒めるの、苦手な人、多いから」
ミオの声は、少しだけ自分に向けていた。ブースの隅で、タクミがテロップの枠を一段薄くする。
昼。湯気の行列が廊下を横切り、教室の前で匂いの波がぶつかる。揚げ物の油の匂い、ソースの甘さ、綿菓子の砂糖の香り。俺のポケットには、ユメ製ポップコーンの小袋。差し入れを詰めた段ボールは、あっという間に軽くなった。
「先生、これ、うま」
タクミは編集の手を止めずに、口だけ動かす。器用だ。器用に食うな。
午後、ちいさな男の子が手を引かれて来た。目がきらきらして、靴がまだ新しい。ミオの弟だった。
「こんにちは。お姉ちゃん、お手伝いしてるんだよ」
「すごいでしょ」とミオは照れ笑いする。弟の肩に手を置くときの指が、優しい。
「じゃあ、君も一言いこうか。“自分にしか言えないありがとう”は?」
男の子は少し考えて、すぐ言った。
「お姉ちゃん、いつもごはん作ってくれてありがとう」
画面の奥で、タクミが鼻をすすり、編集を早回しする。波形が揺れる。音を少しだけ柔らかくして、テロップをシンプルに。最後に小さく、今日の日付。
『“お姉ちゃん、いつもごはん作ってくれてありがとう”』
完成した三十秒を見て、ミオの目が潤んだ。潤んでから、ぐっと堪える。堪えるのも優しさだ。
「先生、……ありがとう」
「言うのはそっち」
「はい。ありがとう」
彼女はブースの外で弟の頭を撫で、弟が照れて逃げて、戻ってきて、もう一回撫でられた。二回目のほうが嬉しそうだった。
そのあいだにも、屋台の前には大人も子どもも流れてくる。吹奏楽部の男子は「先輩に初めて褒められた」を、図書委員の女子は「貸出表が真っ白な本を借りた」を、用務員さんは「誰も見てない廊下を朝一番に歩く気持ちよさ」を。言葉にしてみると、全部、良い。良いのに、短い。短いけれど、残る。
夕方、屋台は完売――じゃない、完録。短い言葉の動画を、教室の壁いっぱいに投影する。白い壁に、白い文字が踊り、薄い影が揺れる。電気を少し落とすと、廊下のざわめきが遠くなる。
『ありがとう』『おはよう』『おつかれ』『たすかった』『また明日』
誰の顔も映っていないのに、誰の顔も浮かぶ。クラスメイトの歩き方、先生の咳払い、保護者のカバンの柄。断片があれば、人は勝手に人を想像する。想像のほうが、優しくできるときがある。
そこへ、腕を組んだ鵤が現れた。厳しい顔。今日いちばん厳しい顔で、白い壁を見上げる。立ち止まる。腕は組んだまま、目だけ動く。目は、意外とよく動く。
「……事故も炎上もなかったな」
「はい」
「来年もやるなら、正式な学校行事として提案しろ」
え、それって――。俺の口元が緩む前に、鵤は言葉を足した。
「“無理せず安全第一”のなかで、ようやった」
そのまま、踵を返して去っていく。去り際に、廊下の掲示板が少しだけ揺れた。風はなかった。揺れたのは、こっちの胸かもしれない。
タクミがガッツポーズをつくる。珍しく声を出して笑った。
「先生、これ、勝ちっすよ」
「勝ち、だな」
「来年、スポンサー付くっすね。校内スポンサー」
「スポンサーて」
「用務員さんからモップ提供、とか」
「最高だな」
片付け。黒い布を畳み、段ボールを折り、ケーブルを巻く。ミオがシールの剥がし残りにセロテープを重ねて綺麗に取る。こういう人がいると、世界は助かる。教室の床に最後のゴミが落ち、最後のゴミを誰かが拾う。拾った人の名前は、記録に残らない。記録に残らない手が、世界を支える。
夜。帰宅すると、玄関の先にダンボールの山とポップコーンの空袋。リビングのソファに、ユメが寝落ちしていた。エプロンの紐を外し忘れ、髪にはポップコーンの匂いが薄く残っている。頬に小さな跡。ブランケットをそっとかけると、目を細めて囁いた。
「差し入れ、足りた?」
「量、バグってたけど、全部売れた」
「よかった……むにゃ」
言いながら、指で空中に円を描く。配信でテロップを出す手つきだ。仕事が身体に染みこむのは、悪いことじゃない。
台所の隅に、白いゴミ袋。朝に出したはずの“やめたい紙”の残骸は、もうどこにもない。燃えるゴミの日は過ぎた。けれど、捨てなくても、消えるものもある。上書きで薄くなるものもある。今日の言葉の山が、上から重なった。
双子が布団の山から顔を出す。今日は屋台の前掛けをしたまま寝落ちしたのか、紐が首に引っかかっている。
「パパ、いらっしゃいませは?」
「閉店しました」
「またあした?」
「また明日」
「また明日」
ふたりが復唱し、また沈む。沈んだところで、同じタイミングで寝息になる。寝息のテンポが、今日の編集のテンポと似ている。リズムは家の中で共有される。
ユメが目を開けずに、もう一度だけ囁く。
「今日の先生、いちばん好き」
その言葉一つで、文化祭が夏祭りみたいに胸の中で続いた。人混みの余韻と、提灯の明かりの残像と、遠くの太鼓の音。秒針は滑らかで、時々ためらう。ためらって、また進む。今日の映像が、瞼の裏で次々と切り替わる。靴、手、カード、笑い、ありがとう。最後に残ったのは、白い壁の文字だった。
いっしょに 読むから すきになる
あの三行。あの屋台。短い言葉は軽い。軽いけれど、遠くまで飛ぶ。明日、授業の黒板に書く言葉は、もう決めてある。今日の続きじゃない。今日の先。三文字。小さくても芯があるやつ。
「先生」
ユメが寝返りを打つ。ブランケットがずれて、肩が少し出る。そっと直す。
「来年も、屋台やるの?」
「やる。たぶん」
「そのときは、ちゃんと店員やる」
「今日も十分やってた」
ユメは小さく笑って、また眠る。静かな夜。冷蔵庫の低い唸りと、窓の外のバイクの音と、遠い犬の一回だけの鳴き声。耳が静けさに慣れてくると、どこかで拍手の残りが小さく鳴る。あの教室の拍手。あの壁の文字。
灯りを落として、ソファに腰を下ろし、天井の角を見る。角は角のまま。そこから部屋が広がって、家族がいて、明日が準備されている。準備は、もうほとんどできている。あとは、開店の札をひっくり返すだけだ。
おはようございます。いらっしゃいませ。ありがとうございます。また明日。
四つの言葉で、だいたい世界は回る。今日、ゼロだった企画が、言葉だけで動いた。ゼロをひっくり返すのは、いつだって数字じゃない。手と、声と、ほんの少しの工夫。明日も、三秒で笑って十秒で好きにさせる。やれる。やる。そう思って、目を閉じた。




