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短編小説

生涯で一人だけ呪い殺せる力を手にした悪役令嬢の復讐譚

作者: 久遠琥珀

 私が初めて人を殺そうと思ったのは、断頭台に立った日のことだった。


 潮風が頬を撫でて、岩肌に砕ける波の音が私の心臓の鼓動と重なった。崖の縁に立った時、私はもう何も失うものがなかった。


 足元の小石が崩れ落ちていく。カラカラと乾いた音を立てて、はるか下の海へと消えていく。まるで私の人生のように。


 爵位剥奪、財産没収、婚約破棄。すべての元凶となったエリーゼ・ベルトラム。彼女の偽善的な微笑みが今でも脳裏に焼き付いている。薔薇の香油の甘ったるい匂いと共に。


「セリア様は、きっと寂しいのですね」


 あの慈悲深い瞳で私を見下ろしながら、エリーゼは私の悪行を一つ一つ暴いていった。まるで私を救おうとするかのように。まるで私を哀れむかのように。舌先に蜂蜜を乗せたような甘い声で。


 それが一番、許せなかった。


 私の胸の奥で、黒い炎がくすぶり続けている。怒りと憎悪が溶け合って、ドロドロとした感情の塊となって私を内側から焼いている。口の中は苦く、まるで毒でも飲んだかのような味がしていた。


 風が強くなった。私の髪が顔に張り付く。もう一歩踏み出せば、すべてが終わる。この苦しみからも、この屈辱からも解放される。


「復讐したいか?」


 突然、背後から声が聞こえた。その声は、まるで古い墓場から響いてくるような、ぞっとする響きだった。振り返ると、そこに立っていたのは――


 身長は私より頭一つ分高く、深く被ったフードの奥から、まるで地獄の業火のような赤い瞳が覗いていた。顔は影に隠れて見えないが、時折フードの隙間から覗く口元には、血を想起させる真紅の唇と鋭い牙が光っている。黒いローブは風に揺れることなく、まるで彼自身が闇の化身のようだった。そして何より印象的だったのは、彼の周りに漂う硫黄と腐敗の混じった匂い。鼻を突く刺激的な臭いが、この世のものではない存在だということを教えていた。


「我は悪魔、ベルゼブブの眷属なり」


 彼の声は私の魂を震わせた。


「貴様の憎悪の深さに惹かれて参った。美しい、美しい憎しみよ。血のように濃く、毒のように甘い」


 悪魔は私に手を差し伸べた。その手は人間のようでありながら、指先が異様に長く、爪は漆黒に光る鎌のようだった。触れれば冷たそうなのに、なぜか私の肌は熱くなった。


「契約せよ。貴様に、一度だけ確実に人を呪い殺せる力を授けてやる。代償は、貴様の魂の半分だ」


 悪魔は懐から小さな水晶の瓶を取り出した。その中には、血のように赤い液体が渦巻いている。


「この『憎悪の雫』を飲めば、貴様の憎しみは武器となる。この瓶は貴様の心に呼応する。憎悪で満たされれば復讐の道具となり、愛で満たされれば無力な器に戻る。使い方は簡単だ――瓶を砕けば、中に込められた感情が力となって解放される」


 私は迷わず瓶を受け取った。


「いいわ。契約して」


 私は一気に液体を飲み干した。それは火のように熱く、まるで溶けた鉛を喉に流し込んだような激痛が走った。雷鳴が轟き、私の左手に血のように赤い薔薇の刺青が浮かび上がった。


 瓶は再び液体で満たされ、私の憎悪に呼応して赤く光った。


「これで、貴様は一人だけ、憎悪を込めて瓶を砕くことで呪い殺すことができる。ただし、一度きりだ」


 悪魔は満足そうに笑った。その笑い声は、まるで千の魂の断末魔のように響いた。


「さあ、復讐を果たすがいい。血を、血を求めるのだ」


 私の心臓が激しく打った。胸の奥の黒い炎が、今度こそ爆発しそうになった。口の中に鉄の味が広がる。水晶の瓶が、私の憎悪に呼応してさらに濃く光った。


「エリーゼ・ベルトラム! 呪い殺してやる!」


 ◇◇◇


 だが、私は踏みとどまった。


 エリーゼの名前が舌先で踊り、瓶を握る手が震えた。左手の薔薇が熱を帯び、まるで焼きごてを当てられたような痛みが走る。私の全身が汗ばみ、心臓が破裂しそうなほど激しく鼓動していた。


「砕け、砕け! 今こそ復讐の時だ!」


 頭の中で悪魔の声が響いた。まるで脳髄に直接囁きかけるような、邪悪な声。


「あの偽善者を地獄に送れ! 貴様の憎しみを解放するのだ!」


 でも、その瞬間、ふと冷静な声が頭の中に響いた。


 一度きり。たった一度きりの力。


 もし今使ってしまったら? 明日、もっと憎い相手が現れたらどうする? この先の人生で、今日のエリーゼ以上に許せない人間と出会ったら?


 私は唇を噛んだ。歯が肉に食い込み、血の味が口の中に広がる。その痛みで、少しだけ冷静さを取り戻した。


 いや、まだ早い。この力は、私の人生で最も許せない人物のために取っておこう。エリーゼごときに使うのは、もったいない。きっと、もっと酷い人間が現れる。もっと許せない相手が。


 私は水晶の瓶を胸元に隠した。それは私の体温で温かくなり、まるで生きているかのように脈打っていた。


「まだよ」


 私は震える声で自分に言い聞かせた。


「まだ、その時じゃない」


「愚か者め! せっかくの機会を逃すとは!」


 悪魔の声が苛立たしげに響いた。


「だが、良い。もっと深い憎悪が育つまで待ってやろう。もっと濃密な復讐を」


 ◇◇◇


 十八歳の春、薄紅色の桜が舞い散る午後、私は下町の小さな屋根裏部屋で針仕事をして生計を立てていた。


 そんな時、子爵家の三男、レオナルド・ハーヴェイが私の元を訪れた。彼は私の没落した家柄を知っていたが、それでもなお誠実に接してくれた。


「君と結婚したい」


 彼はそう言って、私の手を取った。その手は温かく、握ると安心感が全身に広がった。久しぶりに、本当の幸せを感じた瞬間だった。


 だが、その幸福は一週間で打ち砕かれた。


 私たちの婚約が王都の噂になった翌日、レオナルドの実家から使者が来た。


「申し訳ございません、セリア様」


 使者は冷たい声で言った。


「レオナルド様は、急遽ビアンカ・ロッセリーニ様との婚約が決まりました。セリア様との約束は、無かったことに」


 私は愕然とした。


「でも、レオナルドは私に愛を誓ったわ」


「レオナルド様は、もうお会いになりません」


 その夜、ビアンカ・ロッセリーニ本人が私の元にやってきた。黒い髪に紫の瞳、まるで夜の女王のような美しさを持つ女性。


「あら、セリア様。お元気でしたか?」


 ビアンカは私を見つめて、勝ち誇ったような笑顔を浮かべた。その笑顔は美しかったが、氷のように冷たかった。


「レオナルド様から全て伺いました。あなたが彼に執着していたことも、必死に誘惑していたことも」


 私の心臓が止まりそうになった。


「誘惑? 私は何も」


「でも、もう心配いりませんわ。私が彼を守りますから」 ビアンカは扇子で口元を隠した。その扇子にはラベンダーの香油がつけられており、その上品な匂いが私の惨めさを際立たせた。「落ちぶれた令嬢が、名門の御曹司に恋をするなんて、分をわきまえなさい」


 私の左手が疼いた。水晶の瓶が胸の奥で熱を帯び、まるで燃えるような痛みが走る。胸の奥で黒い炎がまた燃え上がった。


「砕け! この高慢な女を地獄に送れ!」


 悪魔の声が頭の中で叫んだ。


「貴様の幸せを奪った罪人だ! 復讐せよ!」


 私の手が震えた。水晶の瓶を取り出しそうになる。


「ビアンカ・ロッセリーニ」


 名前が喉元まで出かかる。今なら、今すぐにでも呪い殺せる。この高慢な女を、今すぐに。


 だが、私は歯を食いしばった。奥歯に力を込めて、唇を内側から噛む。血の味が口の中に広がり、その痛みで少しだけ正気を取り戻した。


 まだだ。まだ早い。ビアンカ程度で貴重な力を使うわけにはいかない。もっと、もっと憎い相手が現れるはずだ。きっと、今のビアンカなど比較にならないほど許せない人間が。


 私は拳を握りしめて、その場を立ち去った。爪が手のひらに食い込み、小さな三日月の傷跡ができた。


「臆病者め。だが、良い。もっと深い絶望を味わうが良い」


 悪魔の嘲笑が頭の中で響いた。


 ◇◇◇


 二十五歳の時、私は街の書庫で写本師として働いていた。


 古い羊皮紙の匂いとインクの香りに包まれた静かな空間で、私は束の間の平安を見つけていた。左手の薔薇も、この場所では穏やかだった。


 そんな中、書庫長のポストに空きが出た。私は長年真面目に働いてきた実績を評価され、昇進が内定していた。


 だが、その昇進を横取りしたのは、かつての女学院時代の同級生、マリア・ダンフォースだった。


「まあ、セリア! あなたがこんなところで働いているなんて」


 マリアは大きな声で言った。書庫の静寂を破るほどに。


「でも、安心して。私が館長になったから、あなたの面倒は見てあげるわ」


 私は愕然とした。


「でも、館長のポストは私が」


「あら、そんな約束あったかしら?」 マリアは首を傾げた。「それに、あなたみたいな素性の怪しい人が責任者なんて、市民が不安に思うでしょう?」


 マリアは私の前に羊皮紙を置いた。そこには『元令嬢が書庫で働く』という見出しで、私の過去が詳細に書かれていた。


「私が街の詩人たちに話したの。市民には知る権利があるから」 マリアは満足そうに微笑んだ。「あなたも、ようやく人間らしい仕事ができるようになって、良かったじゃない」


 人間らしい?


 その言葉が私の心に突き刺さった。まるで氷の矢で撃ち抜かれたような、鋭い痛み。


「砕け! 貴様の人生を破壊した女だ!」


 悪魔の声が頭の中で咆哮した。


「復讐せよ! 血の雨を降らせるのだ!」


 私の胸の奥で水晶の瓶が激しく脈打った。


「マリア・ダンフォース」


 私の口が勝手に動きそうになる。


 だが、私は必死に堪えた。爪が手のひらに食い込むほど強く拳を握りしめて。


 まだだ。まだ、その時じゃない。マリアのような小物に、貴重な力を無駄遣いするわけにはいかない。きっと、もっと許せない人間が現れる。


「愚か者! また逃すのか!」


 悪魔の怒りが私の頭を締め付けた。


 ◇◇◇


 三十歳を過ぎた頃、私は小さな仕立屋を営んでいた。


 長年の努力が実り、店は軌道に乗り始めていた。そんな時、大きな商談の話が舞い込んだ。侯爵家専属の仕立て師になるという、夢のような話だった。


 だが、その商談を横取りしたのは、新興貴族の夫人、ロザリー・ベルモンドだった。


「あら、この店の店主があなたなの?」


 ロザリーは私を見下ろすように言った。彼女は異様に強い香油をつけており、その甘ったるい匂いが店内に充満した。


「貴族の端くれが商売なんて、みっともない。でも、私が救ってあげるわ」


 ロザリーは私の前に契約書を置いた。


「この店を私に譲渡しなさい。私が侯爵家との取引を成功させてあげる。あなたには、雇われ店番として働く権利をあげるわ」


 私は書類を見た。買取価格は、店の価値の十分の一だった。


「これでは」


「不満なの?」 ロザリーは冷笑した。「あなたみたいな素人が、侯爵家と取引できると本気で思っているの? 私には貴族とのつながりがあるの」


 ロザリーは私の肩を強く掴んだ。


「それに、あなたの過去を知った侯爵家が、本当に取引してくれると思う? 私が先回りして、あなたがどんな人間か教えてあげたの」


 私の心臓が激しく鼓動した。


「砕け! 砕け! この強欲な女を地獄に送れ!」


 悪魔の声が頭の中で狂ったように叫んだ。


「貴様の夢を踏みにじった罪人だ! 血祭りに上げろ!」


 水晶の瓶が胸の奥で燃えるように熱い。


「ロザリー・ベルモンド」


 名前が口の中で踊る。今すぐにでも口に出せそうだ。


 だが、私は唇を噛んだ。血が滲むほど強く。


 まだだ。まだ早い。ロザリー程度では、まだ足りない。もっと、もっと許せない人間が現れるはずだ。


「また逃げるのか! 貴様の復讐心はその程度か!」


 悪魔の怒りが私の魂を揺さぶった。


 ◇◇◇


 四十歳の時、私は孤児院で働いていた。


 ようやく見つけた心の安らぎ。子供たちの笑顔が、私の傷ついた心を癒してくれていた。そして、院長が私を後継者に指名してくれたのだ。


 だが、その地位を奪ったのは理事長夫人のアデライーデ・フォン・ブリュッケだった。


「セリア、残念なお知らせがあるの」


 アデライーデは私を応接室に呼び出した。


「理事会で決議が取られたの。あなたは孤児院から解雇よ」


 私は耳を疑った。


「でも、院長は私を後継者に」


「院長はもういないのよ」 アデライーデは冷笑した。「彼は、あなたと不適切な関係があったという疑いで辞職したの」


 私は愕然とした。


「そんな事実はありません」


「でも、証拠があるのよ」 アデライーデは絵画を数枚テーブルに置いた。「あなたが院長と二人で食事をしている絵。夜遅くまで二人でいる絵」


 それらは、すべて仕事の打ち合わせの時のものだった。だが、悪意を持って見れば、確かに怪しく映る。


「私が画家を雇って描かせたの」 アデライーデは満足そうに微笑んだ。「子供たちを守るためよ。あなたのような危険な女は、この聖域にはふさわしくない」


「砕け! この嫉妬深い女を八つ裂きにしろ!」


 悪魔の声が頭の中で咆哮した。


「貴様の居場所を奪った悪女だ! 血の海に沈めろ!」


 私の心臓が激しく鼓動した。水晶の瓶が胸の奥で燃えるように熱い。


「アデライーデ・フォン・ブリュッケ」


 名前が自然に口から出そうになる。今度こそ、今度こそ使ってしまいそうだ。


 だが、私は歯を食いしばった。唇が切れて血が流れる。


 まだだ。まだ、もっと憎い相手がいるはずだ。この程度で諦めるわけにはいかない。


「貴様の我慢にも限界があろう! いつまで耐える!」


 悪魔の嘲笑が私の心を蝕んだ。


 ◇◇◇


 五十歳を過ぎた頃、私は街で最も貧しい地区の治療院で働いていた。


 薬草の刺激的な匂いと、患者たちの汗の匂いが混じり合った空間で、私は人々の痛みを和らげることに生きがいを見出していた。包帯を巻く手つきは慣れたもので、患者たちの安堵の表情が私の心を温めてくれた。


 医師から「君に治療院を任せたい」と言われたのだ。


 だが、その約束を反故にしたのは公爵夫人のクラリッサ・ド・モンテスパンだった。


「あなたが、例の落ちぶれた令嬢ね」


 クラリッサは治療院にやってきて言った。


「この治療院は、我が家の慈善事業の一環よ。でも、あなたのような素性の怪しい人間が責任者では困るの」


 クラリッサは医師に大金を渡した。


「この女を解雇しなさい。代わりに、私が推薦する人間を雇いなさい」


 医師は金に目がくらみ、私を解雇した。しかも、クラリッサは私の悪い噂を街中に流した。


「あの女は、患者から金を盗んでいたのよ」


 嘘だった。だが、人々は公爵夫人の言葉を信じた。


「砕け! この悪魔のような女を地獄の業火で焼き尽くせ!」


 悪魔の声が頭の中で狂ったように叫んだ。


「貴様の人生を完全に破壊した極悪人だ! 今こそ復讐の時!」


 水晶の瓶が胸の奥で激しく脈打つ。


「クラリッサ・ド・モンテスパン」


 だが、私は首を振った。目に涙が滲み、視界がぼやけた。


 まだだ。まだ、その時じゃない。もっと許せない人間が現れるはずだ。


「いつまで待つ! 貴様の人生はもう終わりだぞ!」


 悪魔の怒りが私の魂を引き裂いた。


 ◇◇◇


 六十歳を迎えた時、私は老人養護院で働いていた。


 最後の希望だった。ここで静かに人生を終えようと思っていた。


 そこで、私は運命的な出会いを果たした。


 新しく入居してきたのは、レジーナ・アークライトという女性だった。彼女は私を一目見るなり、まるで毒蛇のように顔を歪めた。


「あなた、セリア・ファーガソンね」


 レジーナは車椅子から私を見上げた。その目には、私が今まで見たことがないほど深い憎悪が宿っていた。


「私の人生を台無しにした女」


 私は首を傾げた。


「私の夫を奪ったのよ、あなたが」


 レジーナは震える手で私を指差した。


「ウィリアム・フォード。四十年前、あなたは彼と結婚の約束をしたでしょう?」


 私は記憶を辿った。確かに、そんな男性がいた。だが、私は断った。


「私は彼との結婚をお断りしましたが」


「でも、彼は私との結婚を拒否した!」 レジーナは激昂した。「あなたに振られた後、彼は『君以外の女性とは結婚できない』と言って、独身を貫いた。私の人生は、あなたのせいで滅茶苦茶になったの!」


 レジーナは涙を流しながら続けた。


「私は彼を愛していた。でも、彼の心には最後まであなたがいた。私は結婚することもできず、子供を産むこともできず、一人で老いていくの!」


 そして、レジーナは最も残酷な言葉を口にした。


「でも、もう終わりよ。私には、あなたを呪い殺す力がある」


 私の心臓が止まりそうになった。まさか、彼女も悪魔と契約を?


「そう、私も悪魔と契約したの」 レジーナは狂気じみた笑顔を浮かべた。「一度だけ、確実に人を呪い殺せる力を」


 レジーナは懐から黒い水晶の瓶を取り出した。


「セリア・ファーガソン! 呪い殺してやる!」


 その瞬間、私は彼女の目を見た。


 憎悪に歪んだ顔。狂気に支配された瞳。復讐に取り憑かれた表情。


 そこに映っていたのは――


 かつての私だった。


 悪魔と契約した時の私。復讐に燃えていた時の私。憎悪に支配されていた時の私。


 まるで鏡を見ているようだった。いや、時を遡って自分自身と対峙しているような、恐ろしい錯覚に陥った。


 その瞬間、私の心に様々な感情が押し寄せた。


 最初に襲ってきたのは、深い驚愕だった。私と同じ道を歩んだ人がいる。私と同じように憎しみに支配され、同じように悪魔と契約した人が。


 次に来たのは、激しい恐怖だった。私はこんな顔をしていたのか。こんなに醜く、こんなに恐ろしい顔を。憎悪に歪んだ表情が、どれほど人を怪物に変えるのかを、初めて客観視した。


 そして、深い悲しみが心を満たした。この女性も、きっと私と同じように苦しんだのだ。きっと私と同じように、幸せを奪われ続けたのだ。そして私と同じように、復讐こそが唯一の救いだと信じて生きてきたのだ。


 だが、今の私には分かる。復讐では、本当の救いは得られない。


 なぜなら――


 憎しみは、憎しみを生む。恨みは、恨みを返す。


 私がエリーゼを憎んだから、ビアンカが私を憎んだ。私がビアンカを憎んだから、マリアが私を憎んだ。私の憎悪が、新たな憎悪を生み出し続けた。


 そして今、その連鎖の最終形が目の前にいる。


 この連鎖は、永遠に続く。


 誰かが止めなければ。


 その気づきと共に、私の心の中で何かが根本的に変わり始めた。


 胸の奥に積もっていた憎悪の氷が、ゆっくりと溶け始める。それは物理的な感覚だった。まるで春の陽光が差し込んで、凍りついた心を温めてくれるような。


 六十年間、私の心を支配していた黒い炎が、静かに消えていく。代わりに、温かい光が生まれた。それは憎しみとは正反対の感情――慈愛だった。


 目の前のレジーナを見る私の目が変わった。敵ではなく、痛みを抱えた一人の人間として。私と同じように傷ついた魂として。


 これが愛なのだ、と私は理解した。相手を裁くのではなく、理解しようとすること。相手を憎むのではなく、共感すること。


 私は胸の中の水晶の瓶を取り出した。六十年間、私はこの瓶に憎悪を注ぎ続けた。今、瓶の中の液体は血のように赤く、私の復讐心で満たされている。


 だが、私の心が変わった今、この瓶に対する認識も変わった。


 悪魔は言っていた。「瓶は貴様の心に呼応する。憎悪で満たされれば復讐の道具となり、愛で満たされれば無力な器に戻る」


 つまり、今の私がこの瓶を砕けば――憎悪ではなく愛が解放される。


「何をしている! 今こそ復讐の時だぞ!」


 悪魔の声が頭の中で絶叫した。


「その女を殺せ! そして貴様も死ね! 憎悪の炎で燃え尽きろ!」


 だが、私は静かに首を振った。


「レジーナ」


 私は彼女の名前を、今度は憎悪ではなく、深い慈愛を込めて呼んだ。


「やめて」


「何ですって?」


「その呪いは、やめて」 私は彼女に近づいた。「それでは、あなたは幸せになれない」


「何を言っているの? あなたを殺せば、私は幸せになれるのよ!」


 レジーナは必死に呪文を唱えようとした。だが、なぜか言葉が出てこない。


「憎しみでは、本当の幸せは得られない」


 私は静かに言った。


「私は、六十年かけてそれを学んだの」


 私は立ち上がり、窓へと歩いた。レジーナが驚愕の表情で私を見つめている。


 私は水晶の瓶を高く掲げた。六十年間の憎悪が、赤い液体となって瓶の中で渦巻いている。


「私は、この力を使わない。いえ、違う――私は愛を選ぶ」


「やめろ! やめるのだ!」


 悪魔の声が頭の中で絶叫した。


「その力は我が血と魂で作り上げたもの! 破壊するな!」


 だが、もう遅かった。私は瓶を窓から外へと投げ捨てた。


 瓶は石畳に叩きつけられ、美しい音を立てて砕け散った。だが、そこから放出されたのは憎悪ではなかった。


 私の心が愛で満たされていたため、瓶から解放されたのは純粋な愛の力だった。それは光となって辺りを包み、レジーナの憎悪をも浄化していく。


 その瞬間、左手の薔薇の刺青が光を放ち、そして静かに消失した。


 私の憎悪が愛に変わったことで、悪魔の力も浄化されたのだ。


 そして、レジーナの手からも黒い瓶が砂となって消えた。


「嘘よ。そんなことが」


「憎しみを捨てて愛を選べば、呪いも消える」 私は彼女の手を取った。「あなたも、もう楽になりなさい」


 レジーナは泣き崩れた。


「私は、一体何をしていたの? 四十年間も、四十年間も憎み続けて……」


「大丈夫よ」 私は彼女を抱きしめた。「私たちは、やり直せる」


 彼女の肩は小さく震えていた。まるで傷ついた小鳥のように。私は静かに彼女の背中をさすった。


「憎しみは、もうおしまい」


 私は窓の外を見た。砕けた水晶の欠片は、もうどこにも見えなかった。代わりに、夕日が美しく空を染めていた。オレンジと紫の雲が、まるで絵画のように空に広がっている。


 私の心は、生まれて初めて本当に軽やかだった。


「貴様、何ということを」


 悪魔の声が、今度は弱々しく響いた。


「我が力を無に帰すとは」


「ごめんなさいね」 私は心の中で答えた。「でも、私は幸せよ」


「理解できん」


 悪魔の声は、もはや怒りではなく、純粋な困惑に満ちていた。


「貴様は復讐の機会を全て逃した。何のために生きてきたのだ」


「愛するために」 私は静かに答えた。「人を愛し、愛されるために」


 長い沈黙があった。


 ◇◇◇


 それから十年が過ぎた。


 私は七十歳になり、多くの人々に囲まれて穏やかな日々を送っていた。


 孤児院で育った子供たちは立派な大人になり、今では自分の子供を連れて私を訪ねてくれる。書庫で出会った人々、仕立屋の常連客たち、治療院で看病した患者たち、養護院の仲間たち――みんなが私を家族のように慕ってくれている。


 レジーナとも和解し、今では親友と呼べる関係になった。私たちは時々、昔の話をする。憎しみに支配されていた頃の話を。でも、それはもはや痛みではなく、教訓として語り合うことができるようになった。


 そして、エリーゼとも再会した。彼女は私に心から謝罪し、私たちは長年の誤解を解くことができた。


「セリア、あなたは本当に美しい人になったのね」


 エリーゼは私の手を握って言った。その手は年老いてしわだらけだったが、温かかった。


「いいえ」私は首を振った。「私は、ようやく人間らしくなれただけよ」


 私の人生は、憎悪から始まったが、愛で満たされていた。左手には、もう薔薇の跡はない。代わりに、小さな十字架の刺青があった。それは、私が自分で彫ったものだ。愛と許しの象徴として。


 ある静かな夜、薄いレースのカーテン越しに月光が差し込む中、私の枕元に見慣れた影が現れた。


「久しぶりだな」


 その低い声は、十年前と変わらなかった。フードの奥の赤い瞳も、鋭い牙も。だが、なぜか前ほど恐ろしくは感じなかった。


 悪魔は私を見下ろした。その姿は相変わらず闇の化身のようで、硫黄の匂いも漂っていたが、どこか疲れているように見えた。


「貴様は、我を失望させた」


 私は微笑んだ。枕に頭を預けたまま、穏やかに。


「ごめんなさいね」


「せっかく授けた力を使わずに、しまいには愛で浄化してしまうとは」 悪魔は苦々しげに呟いた。「契約違反だ」


「そうかもしれませんね」 私は静かに答えた。月光が私の顔を優しく照らしていた。「でも、私は幸せよ」


「幸せだと? 復讐もせずに?」


 悪魔の声には、純粋な困惑が込められていた。まるで理解不能な現象に遭遇した学者のような。


「復讐しなかったから、幸せになれたの」


 私は天井を見上げた。そこには、月の光で作られた美しい模様が踊っていた。


「憎しみは、憎しみしか生まない。でも、愛は愛を生む。許しは許しを生む」


 悪魔は長い間黙っていた。その沈黙は重く、まるで彼が何か深刻なことを考えているようだった。


「我には理解できん」


 ようやく彼は口を開いた。その声は、いつもより小さく、どこか迷いを含んでいた。


「貴様は、力を得たのに使わなかった。復讐する機会があったのに、それを放棄した。なぜだ?」


 私は彼を見つめた。フードの奥の赤い瞳が、今夜は少し揺らいで見えた。


「あなたは、いつから悪魔になったの?」


 悪魔は驚いたように身を引いた。


「何?」


「私と契約したのは、なぜ?」 私は静かに問いかけた。「あなた、もともとは人間だったんじゃない? あなたと話していると、なぜか他人のような気がしないの。ねえ、教えて」


 悪魔は長い沈黙の後、ついに口を開いた。


「我は、元の歴史を知っている」


 私は息を呑んだ。


「元の歴史?」


「そうだ」 悪魔の声は痛みに満ちていた。「我は未来から来た者だ。元の歴史を変えるために」


 私の心臓が激しく鼓動した。


「未来から?」


「レオナルド・ハーヴェイ。それが我の真の名だ」


 私は衝撃を受けた。「レオナルド……? 私の婚約者だった……」


「本来の歴史では、我と貴様は全く宿命だった」悪魔は苦しげに続けた。「我は貴様を愛していたが、家の圧力でビアンカと結婚させられた。その後、貴様を失った絶望で、我は酒に溺れ、賭博に狂い、最終的に貴様を騙し、貴様の最後の財産を奪った」


 私の目に涙が溢れた。


「それで、私は」


「そうだ。元の歴史では、貴様は別の悪魔――古代から存在する真の悪魔と契約した」 悪魔の声は自嘲に満ちていた。「そして七十五歳の時、我が貴様の人生で最も憎む相手となった瞬間、貴様は遂に水晶の瓶を砕いた。我は呪い殺され、地獄に落ちた」


「そして、あなたは悪魔になった」


「地獄で我は絶望した。貴様を愛していたのに、結局は貴様を裏切り、憎まれ、殺された」 悪魔は続けた。「だが、地獄の王が我に告げた。『時を遡り、運命を変える機会を与えよう』と」


 私は理解し始めた。


「それで、過去に?」


「我は考えた。もし我自身が貴様と契約し、復讐の相手を自分以外に向けさせれば、我は死なずに済む」 悪魔の声は苦悩に満ちていた。「だから、我は過去に遡り、真の悪魔になりすまして貴様と契約した。より早い段階で復讐の力を与え、他の誰かを殺させれば、我への憎しみは軽減されると思ったのだ」


 私は理解した。


「でも、結果は逆だった」


「そうだ」 悪魔の体が震えた。「貴様は誰も殺さず、愛を選んだ。我の計画は完全に裏目に出た。だが――」


 彼は一瞬言葉を止めた。


「だが、今の我は理解している。元の歴史よりも、はるかに美しい結末だということを」


 私は手を伸ばして、悪魔のフードに触れた。


「レオナルド」


 フードが落ち、そこには昔と変わらないレオナルドの顔があった。ただし、深い悲しみと後悔に満ちた。


「セリア」


 彼は私の名前を呼んだ。昔と同じ、優しい声で。


「我は、何をしていたのだ……。貴様を愛していたのに、結局は貴様を裏切り、憎まれ、殺された」


「大丈夫よ」 私は彼の頬に触れた。「今なら、やり直せる」


 だが、レオナルドは首を振った。


「いや、我はもう悪魔だ。地獄の住人だ。元には戻れない」


 彼の姿が再び闇に包まれ始めた。


「だが、貴様の選択で、我の心に変化が生まれた」


 彼は立ち上がった。


「我は去ろう。もう、復讐の力を与えることはない。それが、我にできる唯一の償いだ」


「レオナルド」


 私は彼を呼び止めた。


「愛は、時を超える。あなたもいつか救われる」


 レオナルドは振り返らずに言った。


「それは分からない。だが、貴様を見ていて思った」


 彼の声が遠ざかっていく。


「愛とは、確かにこういうものだったかもしれないな」


 彼の姿が闇に溶けていく。最後に、小さくつぶやくのが聞こえた。


「ありがとう、セリア。そして、すまなかった」


 そして、彼は完全に消えた。


 私は最後の微笑みを浮かべた。


 胸の奥には、もう水晶の瓶はない。代わりに、温かい光が宿っていた。それは、私が生きた証だった。私が愛した証だった。私が、許した証だった。


 窓の外で、夜明けの鳥が歌い始めた。新しい日の始まりを告げる、美しい歌声。


「ありがとう」


 私は呟いた。すべてに、感謝を込めて。


 レオナルドに。レジーナに。エリーゼに。私を憎んだすべての人に。私を愛してくれたすべての人に。


 そして、憎しみを手放すことを教えてくれた、この人生に。


 私の人生は、復讐から始まった。でも、愛で終わった。


 それで、十分だった。


 薄明の光が部屋を満たし、私は静かに目を閉じた。心は穏やかで、魂は軽やかだった。


 憎しみという重い鎖から、ついに解放されて。


 遠くで教会の鐘が鳴った。それは新しい一日の始まりを告げる音だった。でも私にとっては、永遠の安らぎの始まりだった。


 私は最後に、心の中で言った。


「みんな、幸せになって」


 そして、私は永遠の眠りについた。穏やかな微笑みを浮かべたまま。


 私の選択が歴史を変えた。元の運命では、私は別の悪魔と契約し、最終的にレオナルドを憎しみで殺していたはずだった。


 だが、レオナルド自身が過去を変えようとした結果、私は愛を学んだ。


 運命は変わった。


 どこか遠くで、レオナルドが自分自身の救いを求めて彷徨っているのを感じた。彼は自分を救おうとして、結果的に私をより良い道に導いてくれた。


 彼の物語は、まだ終わっていない。


 でも、いつか彼も愛を思い出すだろう。


 そう信じて、私は最後の息を吐いた。


 愛は、時を超え、死をも超え、運命さえも変える。


 それが、私の最後の確信だった。

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