Episode 4.「"管理者"フウリン・カンパニュラ」
「知ってるかい? シオン。昔の人々は海に糸を垂らして魚を捕まえていたらしいぞ」
手元の仮想キーボードから目を離すことなく、フウリン・カンパニュラはそう言った。
皺の寄った白衣に身を包み、艶のない黒髪を一纏めにした彼女の声は、いつもと同じく気だるそうだった。
あれから夜が明けて、ここは西地区第二研究棟の3階。能力開発分野の301研究室。平たく言えば彼女、フウリンの部屋だ。
彼女は私の担当の研究者で、管理者――保護者のようなものでもある。とはいえ、日がな一日研究室に籠りきりで、こうして出向かなければ顔を見ることすらないのだが。
今日はそんな彼女との、週に一度の面談の日だった。もちろん、単にあれこれ話すというだけではない。
手足には有線でコンピュータに繋がるリストバンドのようなものがはめられており、ヘッドギアのようなものを被らされて、部屋の中央近くに座らされている。
この間歴史の授業で見た、昔の処刑道具で使われていた椅子に似たような感じだが、流石に私が処刑されるということはないだろう。悪いことしてないし。
この面談はとあるデータの収集を兼ねている――というか、そっちがメインですらあるのだ。
私が退屈しないよう、彼女はいつもこうして適当な雑談を振ってくるのだ。だから、引きこもりの彼女が唐突に始める突飛な話題にも私は慣れっこだった。
「魚って、あの塩焼きとかにするやつだよね。あれが海にいるの?」
私は昼食の白身魚を思い浮かべながら言う。食事はほとんど寮の食堂か学食で済ますので、食材に関する知識は乏しい。中にはスーパーでパック詰めされた生鮮食品を買ってきて自炊している学生もいるらしいが、私にはそんな甲斐性はない。
「ああ、そうだ。今でこそ全て水槽で完全養殖されているが、昔は海にも生息していたらしい。まったく、あの荒れ狂う水面を見る限り、命の気配は無さそうなものだけどね」
海。と言われても、私にはピンとこない。
フウリンは【スクールヤード】でも数少ない大人だ。もしかするとコロニー間の移動の際にでも海を見たことがあるのかもしれないが、私にはその記憶もない。私がここに来たのは随分昔だし、そのあともコロニーから出たことがないからだ。
だから、私の中の海の知識は教科書に載っているくらいのものしかない。この地球の七割以上を埋め尽くす、大きな水の塊。かつての人類は飛空挺だけではなく、水の上に船を浮かべて旅をすることもあったようだが、今はそんなこともできないくらいに厳しい環境らしい。
私が見たことのある大きな水の塊なんてのは、去年サクラと遊びに行った南地区のプールくらいのものだ。そういえば、あそこには終末期前の海辺を再現した"ビーチ"とかいうのがあった気がする。焼けた砂を敷き詰めた、静かな波の打ち寄せるプールだったが、海というのはああいうものなのだろうか。
わからない。いつか大人になってコロニーを出る時には本物を見ることができるだろうが、それが何年後になるのかなんてのは考えたくもない話だった。
「……にしてもさ、前から不思議だったんだけど。あの妙ちきりんな生き物が、どうやって水の中で生きてるの?」
私の問いに、フウリンは露骨に訝しげな表情を向けてきた。なんだ。私はそんなに変なことを訊いたか。
「そりゃあ君、泳いでるに決まってるだろう」
「泳いでるって、あれが? それこそどうやって泳いでるのさ」
「ヒレがあるだろう。尾びれとか、胸びれとか」
「ヒレ? アレにはほんの少しの小骨と、肉の片面に皮が一枚あるだけじゃん。頭がどっちなのかわかんないし、そもそも脳がない生き物って訳わかんないよね」
そこまで交わして、ようやく彼女は私の方に顔を向けた。曇ったレンズ越しの瞳が、信じられないものを見るように揺れている。
なんだ、その反応は。彼女とは長い付き合いだが、ここまで露骨に感情を見せる姿は初めて見た。それこそ、宇宙人でも見るような顔だ。
「あー、その、なんだ、シオン。君は魚、つまり魚類がどんな姿をしているか、知っているかい?」
私は思わず首を傾げた。質問の意味がわからない。魚がどんなものかなど今さら言うまでもないだろう。そのくらいは一般常識、私がいくら馬鹿だといっても知らないはずがない。
呆ける私を見た彼女は、手元のタブレット端末を引き寄せると画面に指を走らせた。そして、画面を突き出してくる。
「これ、これだ。この絵がなんの絵かわかるかい?」
彼女が見せてきたのは、横長の丸と左に倒した三角形を組み合わせたような図形だった。
「なにって、魚でしょ? こういうのもいるらしいけど、私たちが普段食べてるのは違う種類のじゃないの? もっとこう、へにゃって形をしたやつ」
「……これかい?」
彼女は再びタブレットに線を引き、見せてきた。そこに描かれていたのは、片っぽにしか皮のついてない、私の知る魚の姿だった。
「うん、そうだよ。どうしたのフウリン、今日は変なことばっかり訊くじゃん。研究室に籠りっきりだとやっぱりよくないんだよ、今度私と中央地区のカフェまで行こうって」
「うるさい、私は好き好んでここにいるんだ、それに、まあ、これはこれで興味深いデータではある……」
言葉とは裏腹に、諦めたように息を吐く。瞳の奥には呆れたような色も見える。しばらくの間視線で私を馬鹿にした彼女は、やがていつもの陰気な声色で言った。
「いいかいシオン、魚ってのは皆もともとこの姿なんだ」
え、と、思わず声が出そうになる。
「で、でも、私たちがいつも食べてるのはその形じゃないじゃん!」
「あれは切り身だよ。こう、背骨を境に三枚におろすんだ。そうして切り分けると、あの形になるのさ」
知らなかった。生きている魚を見たことなんかないし、あの姿のまま捕まえて焼いたり蒸したりしてるものだと思っていた。
けれど、ここでそれを表情に出せばまた馬鹿にされてしまう。なので、できるだけ隠しながら。
「ふ、ふーん。まあ、知ってたんだけどさ。ほら、フウリンこそ魚について知ってるのかなーって、ちょっと気になったから」
「……なるほど、私を試そうとしたわけだ」
「うんうん、そう、そうだよ!」
私は大きく首を振った。ほんの少しだけずれたヘッドギアが髪の毛を巻き込んで痛かったが、もとの位置に直せばそれも感じなくなった。誤魔化せた、と、安心したのも束の間。
「……嘘はやめたまえよ、嘘は。発汗量と心拍数計ってるんだから、その薄っぺらな誤魔化しが通じるわけもないだろうに」
「……うう」
わざとらしく肩をすくめ、再びモニターの方に向き直った彼女の仕草は、私に敗北感を抱かせるに十分だった。
おのれ、ほんの少しだけ私より博識だからといって、いつもからかいおって……と、静かに燃やした怒りを、心の中にしまいこんだ。
いつか見ていろ、私だって適当な蘊蓄を仕入れてきて恥をかかせてやる。
唸る私を意にも介さぬまま、フウリンは何事かをキーボードに打ち込み、そのまま二度三度何事かを確かめるように頷いて、顔を上げた。
「……ふむ、よし、お待たせだ。この間の試験の結果からして"能力"は安定しているみたいだし、バイタルにも問題なし。強いて言うならもう少し頭を使った方がいいけどね」
フウリンは固そうな革張りの椅子から立ち上がると、私の頭から器具を取り外した。途端、手首に巻き付いていたリストバンドもするりとほどけ、椅子の下に滑り落ちていく。
その場で大きく伸びをすると、背筋が伸びる感覚があった。膨らんだ肺いっぱいに酸素を吸い込んで、私はゆっくりと立ち上がる。
「悪かったね、休日に呼びつけて。今日はサクラと出掛けるんだったか?」
「うん、中央地区のショッピングモール。こないだ誘われたんだ」
そうかい、と、素っ気ない彼女の返事。相変わらず興味があるんだか無いんだかわからない。もう長い付き合いになるが、何を話してもだいたいこんな調子だ。
そのくせ、自分の話になるとやけにお喋りになる。彼女を見ると、こんな大人も許されているのだな、と私は元気になれるのだ。
「フウリンも、もっと息抜きすればいいんだよ。こんなところにカンヅメだから、ひねくれた性格になるんだよ」
「余計なお世話だ。それに、息抜きをしようにも、私のところには仕事が次々舞い込んでくるんでな」
と、彼女は机に積まれた資料に視線を向けた。微かに表面に"レプリカント"という文字は見えたものの、それが何なのかまでは判読できなかった。
「まあ、はしゃぐのは構わないが、くれぐれも人前で大きな力は使うなよ。まだ不安定だし、人目に触れると――君にとっても、不都合なことが多いだろう」
「……うん、わかってる」
釘を刺してくる彼女から目を背けると、そのまま背後にある時計に目が行った。
それと同時に、少しだけ心の中に焦りが生まれる。どうやら、思っていたよりも時間に余裕がないようだ。
「ごめん、ポーター呼んでもらえるかな。中央地区まで歩いていったら間に合わないや」
ポーター、というのは公共交通機関の1つで、お金を払うと目的地までつれていってくれる小型車両のことだ。だいたいが二人乗りで、コロニー中枢にある交通管制システムでコントロールされている。
旧暦の頃には"タクシー"という似たようなものがあったらしいが、そっちはなんと人間が操作していたらしい。今では考えられないことだ。
「ふむ、それは構わないが、研究所の前からバスが出ているぞ。わざわざ呼ばなくても、確かそろそろ――」
彼女はそこまで言って、言葉を切った。珍しくばつが悪そうに俯いて、それからボソボソと続けた。
「――失礼。そうだったな、すぐに手配するよ」
「うん、ごめん、ありがとう」
バス、か。
記憶の奥の方で、何かが瞬いていた。思い出したくもない記憶だ。でも、忘れちゃいけない思い出でもある。
私はふと、壁に掛けられたカレンダーに目をやった。電子ペーパー製の画面に映された日付は新暦39年、7月の真ん中。
「……もうあれから、2年が経つんだな」
フウリンがしみじみと言った。私はただ頷くだけで、適当な言葉が見つからなかった。
2年。決して短くはない。だけど、これっぽっちの時間では私の傷はまだ癒えていない。
私がバスに乗らなくなってから、2年。
私が"この力"に目覚めてから2年。
私が、君と別れてから、2年。
「……ふむ。ポーターは2分ほどで到着するそうだ。そろそろ下に降りているといい」
その言葉に、ハッと我に帰った。いけない。思い返したってどうにもならないことだ。今さらあれこれ考えるのはやめにしよう。
やめにしようと、決めたのだ。
「わかった、ありがとね。またそのうち、遊びに来るよ」
私は定型の台詞を口にしてから、踵を返した。そして逃げるように、出口に向かって歩を進める。
「……なあ、シオン」
そんな背中に、投げ掛けられる言葉。私は振り返らないで、それを聞くことにした。
「あれからもう、ずいぶん経ったろ。君もそろそろ、前に進む頃合いなんじゃあないのか?」
「……うるさいな」
私はそのまま、扉を開け放って廊下へと飛び出した。「……すまない」と聞こえた気がしたが、立ち止まることはなかった。
『本当に悲しいのは、悲しい思い出が残ることじゃなくて、思い出がなにも残らないことが、いちばん悲しいんだ』。
誰が言ってたんだっけ。私にはどうにも、思い出せなかった。