Episode 3.「帰宅とラメントーソ」
【スクールヤード】の学生たちはそのほとんどが一人暮らしをしている。
全世界に7つあるそれぞれのコロニーで生まれた子供たちは、10歳になると【スクールヤード】への進学の権利を得る。そして、親元を離れてここで生活していくことになるのだ。
しかし、当然ながら十代前半の子供が突然自立して生活していくのは無理だろう。
金銭面は学生省が補助してくれるからどうにかなるとしても、健全な暮らしを送ることは難しい。そのため、必然的に私たちは全員学生寮に振り分けられることになる。
サクラと別れた私は、そのまま徒歩で寮まで帰ってきた。途中、自動販売機で炭酸飲料を購入したこと以外は大した道草を食うこともなく、ほとんど最短距離を歩いてきた。
東地区第020番女子寮、12階建てのレンガ造りのような壁面が特徴のここは、私が幼い頃から暮らしている場所だ。
自室に辿り着いた私は、そのままベッドに倒れ込む。制服がシワになるかもしれなかったが、疲れを溜め込んだ体は、まず休息を与えなければこれ以上働いてはくれなさそうだった。
疲れた。穏やかな日であっても、体力を使わないわけではない。こうして帰ってくれば、強い眠気と倦怠感に襲われることになる。
何をするわけでもなく、取り合えず仰向けになった。もう見飽きた天井が、視界を塞いでいる。肺一杯に空気を吸い込んで吐き出すと、膨らむ胸の感覚が、なんとなく愉快だった。
私が【スクールヤード】に進学したのは、他の子たちよりずっと早い時期だった。ある事情で、幼少の頃からここで教育を受ける必要があったのだ。
物心つく前だったので、両親の顔すらまともに覚えていないくらいだ。それを寂しいと思ったことは、あまりなかったが。
ともあれ、十年以上をこのコロニーで過ごしていることになる。時間は私に構うことなく流れ続けているのだ。だから私も、いずれは前に進まないといけない。
いつかは、大人にならなきゃいけない。そのくらい、わかっているつもりだ。
だけど。
私は首だけを動かして視線を巡らせた。そして、机の上に置かれた写真立てに目を止める。
これは、いつ撮った写真だっただろうか。南地区のテーマパークのモニュメントを背に、二人の子供が並んで写っている。
一人は私だ。昔から本当に間抜けな笑い方をしている。この頃はいつも男の子に混ざって遊んでいて、泥だらけになって帰ってきては寮母さんに叱られていた。
そして、隣に写っているのは――。
――そこで、思考を着信音が切り裂いた。
私は手首の端末に指を這わせる。すると微かな電子音と共に、【HelPer】が立ち上がった。滑らかな合成音声が用件を訪ねてきた。
【HelPer】は私たちの暮らしをサポートする、携帯端末だ。これひとつで通話も、調べものも、なんならゲームだってできたりする。旧時代にあった"スマートフォン"に近いものらしい。
高度なAIを搭載していて、コロニーの市民IDに紐づいた使用者の行動パターン・嗜好を記憶し、常に最適なサポートをしてくれる。これも、子供たちが安心して生活できる要素のひとつであるだろう。
着信はサクラからだった。仮想スクリーンを操作して、送られてきたメッセージを開く。
それは、明日の予定を尋ねるものだった。中央地区のショッピングモールにオープンした、新しい店に行かないかという誘いだ。
「【HelPer】、明日のスケジュールを教えて」
音声入力。ほとんど間髪入れることなく、答えが返ってくる。
『明日は、朝の9時から面談の予定が入っています。場所は西地区第二研究棟の301研究室。担当者はフウリン・カンパニュラ』
面談。そうか、忘れていた。私はほんの少しだけ迷ってから、仮想キーボードを立ち上げた。
【スクールヤード】は子供たちの街であるが、だからといって大人がいないわけではない。"管理者"と呼ばれる、保護者のような立ち位置の大人たちがほんの僅かであるがいるのである。
私たちは管理者と定期的に面談をしなければならない。これは精神的なカウンセリングという意味合いだけでなく、もうひとつある理由があるのだが、まあ、それは置いておこう。
ともかく、こうなると午前中一杯は潰れてしまうことだろう。もし遊びに行くのなら、午後からになる。
「ごめん、面談入ってたんだ。昼過ぎとかからでもいいかな……っと」
入力を終えて、送信。仮想キーボードはどうしても操作が難しいが、慣れてしまえばなんということはない。
返事は、ほとんど待たずに返ってきた。明日の午後に中央地区の広場に集合。心拍が、ほんの少しだけ上昇するのを感じた。
垂直に持ち上げていた腕が、脱力と共にぱたんと倒れる。埃が舞ったが、そんなことは大して気にもならなかった。
ほんの少しだけ、気持ちが上を向いた。明日が楽しみになった、それだけで体を動かす原動力としては十分だった。
そして、それを見計らったように腹の虫が鳴き始めた。ついさっきパフェを平らげたばかりだというのに、まったく、堪え性のない胃袋だ。
「……よし、とりあえず、晩御飯でも食べに行こうかな」
【HelPer】を覗き込む。時刻は20時を少し回った頃だった。寮の食堂は、あと一時間もすれば閉まってしまう。先に着替えようかとも思ったが、すぐに行かなければ、今日の夕食は抜きになることだろう。
背中のバネを使って、私は勢いよく飛び起きた。そしてそのまま玄関の扉を開けて、廊下に飛び出す。食堂までの道すがら、自然と足取りが軽いことに気づくのは、もう少しだけ先の話だ。
***
「ねえ、シオンには何か、なりたいものがあるかい?」
心地よい揺れと空調の暖気に包まれながら、"キミ"はそう問いかけてきた。
忘れもしない、私が最後にバスに乗った、これは"あの日"の記憶。私と"キミ"は後ろ席に並んで腰掛けながら、流れる景色を眺めていた。
きっと、微睡みの中にいるのだろう。背景も、輪郭も、何もかもがパステルカラーに歪んでいる。
「なりたいもの?」私は首を傾げた。
将来だとか、未来だとか。そういったものはすべて、漠然の霧が隠してしまっていた。だから、この頃の私は深く考えたこともなかったのだと思う。
「うん、ほら、そろそろ僕らも高校に上がったんだし、進路を決めろって先生たちもうるさいだろ? だから、シオンももう決まってるのかなって」
「私が決まってるわけないじゃん。できることなら、大人になんてなりたくないよ」
シオンらしいな、と彼は微笑んだ。
それがどこか悲しそうに見えたのは、きっと、西陽のせいだろう。"あの日"は茹だるような夏だというのに、いやに日が落ちるのが早かったのを覚えている。
「僕は、なりたいよ」"キミ"がポツリと呟く。
「早く大人になりたい。大人になって、ここの外がどうなっているのかを見てみたいんだ」
「外、ってコロニーの? でも、外の環境ってとんでもないことになってるんでしょ?」
「うん、とても人が住める状態じゃないって、テキストに書いてあった。でも、それって僕自身がこの目で見たものじゃないからね」
そういうやつだった。
何もかも、自分の目で見ないと納得しない。そのくせ優柔不断で、他人に気を遣ってばっかりいて。
そしてなにより、底抜けに優しかった。
そんな彼のことが――好きだったのだろう。
けれど、想いを伝えることはできないままだった。
――あの日、唐突に私たちの世界は潰れてしまったのだ。