Episode 20.「帰り道/メロウ」
放課後までの数時間は、まるでコーヒーカップを傾けたときのように、とろとろと流れた。
ソーヤは昨日の宣言通り、校門の前で待っていた。
癖のある白い髪は、最低限指が通りそうなくらいには整えられていて、全体的に白色で統一された風貌は、夕暮れの中に空白が口を開けたような錯覚を、私にもたらした。
放課後の景色にはどこか不釣り合いだったが、それでも門扉に体を預け、腕を組んで黙する姿は、とても画になっていた。
私は、そのおぼろげな輪郭を、しばらく見つめる。本来ここにいないはずの彼は、二度、三度と胸を膨らませてから、薄っすらと目を開けた。
「う、ん……。あれ、シオン、来てたんなら起こしてよ」
眠たげに目を擦りながら、ソーヤは言う。その呑気な仕草が、なんだかいやに可笑しく見えて。
「ごめん、ごめんって。まさか本当に寝てるなんて思わなかったからさ、いつから待ってたの?」
「今来たとこ、って言いたいんだけど、30分くらい前かな。知らないって、高校の終業時間なんて」
頬を膨らませて言う彼は、ほんの少しだけ憧れが籠もったような目を校舎に向けた。
ソーヤがいなくなったのは、中学3年生の夏。
だから、高校がどんな場所っていうことを、彼は知らない。ちょっと考えればわかりそうなことだったが、逆に言えば、私が自然のままであれば、思い至ることもなかっただろう。
私も彼に倣うようにして、なんとなく校舎を見やる。丁度、運動部と思しき数人の男子生徒が駆けてゆくところで、合わせた掛け声が私の鼓膜を叩いた。
穏やかな夕間暮れの気配。蒸すような夏の暑さも、この時間になれば心地の良い涼風が交じるようになる。
彼が眠気を覚えるのも、なんだか、わかるような気がした。
「……僕、さ。本当に2年も眠ってたんだね」
ソーヤは、訥々と話し出した。穏やかではあっても、歯切れ良く喋る彼には随分と珍しい。
「変わらないものは沢山あったけど、それでも、何もかもが変わらないわけじゃなかったんだ。シオンも、いつの間にか大人になったみたいだし」
「……なってないよ、大人になんか。まだまだ子供だし」
「ううん、シオンは大人になったよ。立派な高校生やってるじゃん。僕も、その隣にいると思ってたのにな」
からからと、彼は笑う。どちらともなく歩き出した私たちの歩調は、揃えるまでもなく、乱れることはなかった。
彼と私は、2年ズレている。
私が惰性で生きた2年間が、彼からはすっぽりと抜け落ちているのだ。それは、人間性だとかノリだとか、そういうので誤魔化せるものではあるのだろうけど、それでも直視してしまえば、見なかったことにはできない。
「……僕さ、嫌な想像ばっかりしちゃうんだ」
「嫌な、想像?」
「うん、僕がいない間にシオンが一人で立てるようになってたらって。そうしたら僕はもう、要らなくなっちゃうでしょ?」
「……そんなこと」
ないよ、と。
言おうとして、詰まってしまった。
私は一人で立たなければならなかったのだ。ソーヤはいなくなってしまって、本当は帰ってこないはずだったのだから。
『――あの人、レプリカントじゃないですか』
屋上で、カレンに言われた言葉が、何度も頭の中で響いている。
ソーヤが死んでしまったのは、私がこの目で確認している。だから、目の前に立つ彼が創られた偽物である可能性は、確かにある。
――ソーヤの記憶と、意志を持ったレプリカントが?
どうしてそんなものが、と疑問は残るものの、真相を知りたければ、方法が無くはない。彼の体のどこかにある刻印を、探せばいいのだ。
……探して、どうなるのだろうか?
彼が偽物だと認めて、何か、いいことがあるのだろうか?
そんな気持ちが、何度も何度も、心房を内側から叩き続けている。乱れた心拍は、微かに胸の奥を軋ませるような痛みを発した。
「……シオン? どうしたの、顔色悪いけど」
気付けば、俯く私を覗き込むようにして、ソーヤが足を止めていた。
「……ううん、なんでもないよ。ちょっと今日は、疲れちゃっててさ」
「そう? あんまり無理しちゃだめだよ、体壊したら大変だ。病院って、結構退屈なとこだからさ」
大丈夫。
私はそう口にして、首を振った。
答えをこの場で出すことはできなかった。中途半端のまま迷い続けることになったとしても、それは痛みを抱えて真相を知るも、よっぽど楽だ。
「……シオンがそれならいいけどさ。ほら、もう少しでバス停に着くよ」
びくり、と。
私の足は不格好な痙攣とともに、そこで止まってしまった。
「……バス、使うの?」私は恐る恐る尋ねる。
「うん、だって、ここからじゃまだ――」
そこまで口にした彼は、続きの言葉を中空に投げた。気付いてくれたのか、それとも、不機嫌そうな私の顔を見て、何かを察したのか。
ともあれ、彼はバツが悪そうに後頭部を掻いた。
「……ごめん、迂闊だった。そうだよね、今日は――」
「いいよ、気にしなくて。だって覚えてないんでしょ?」
「……うん。正直、何も」ソーヤの目が、少しだけ泳いだような気がした。
そして、背後に視線を向ける。虚空をしばらく睨んだ彼は、やがて納得したかのように目を瞑った。
いこうか。その言葉で再び歩き出した私たちの間に、少しだけ気まずい空気が流れる。黙ったまま、漠然と動かしていた両足にも、微かな重さを感じるようになってきた。
ソーヤは昔のままだ。
良くも悪くも、"あの日"から何も変わっていない。
なのに、私たちの関係は、あの頃と同じようにはいかない。彼は何も変わっていないのに。私は、何も変われなかったはずなのに。
……いや、本当にそうなのだろうか。
変わらないものなんて、実は一つもなくて、私も取り返しがつかない程に、変質してしまっているのではないだろうか?
「シオン」優しく響いた声が、深く思考に沈み込んだ私を現実に引き戻す。
いつの間にか立ち止まってしまっていた私と彼との距離は、夕景を後ろに、言いようもないほどに寂しく開いてしまっていた。
私と彼。その間に漂う淀んだ酸素の向こうで、彼は呼びかけてくる。
「……せっかくだから、ちょっと歩こうと思うんだけど、大丈夫?」
「私は平気だよ。門限も、まだまだ余裕があるし」
「それならよかった、丁度いいから、僕が眠っている間に変わった街のこととか、いろいろ教えてよ」
「……わかった。例えば、あの曲がり角にあったケーキ屋さんなんだけどね――」
私は見ないふりをする。
傷から滴る血を、見なかったことにする。
***
西地区の隅の方にある私の学校から、南地区まで歩いてゆくのには、そこまで時間は要さなかった。
それでも、20分ほど。並んでいた建物は、進むごとにその華やかさを増してゆく。ぐるりと周囲を見渡せば、私たちと同じであろう下校中の中高生たちが、楽しそうに笑みを浮かべつつ、歩いてゆくのが見えるだろう。
「で、あの通りが昔、私たちがアイスの買い食いして怒られた店があるところだよ」
「あれ、懐かしいな。あの時は確か、シオンがどうしてもアイスキャンディーを食べたいって駄々こねたんだよね」
そうだったっけ? と、私は首を傾げた。
この街で生まれ育った私たちは、街のあちこちに思い出が残っている。それが、2年という時間の中でどう変質したのかを、私たちは確かめながら歩いていた。
「シオン、よく覚えてるね。僕は眠っていたのを差し引いても、忘れちゃってることばっかりだよ」
感心したように、彼は言う。その手には齧りかけのラップサンドが握られているが、それもまた、数年前に二人で食べた店のものだ。
「ソーヤが忘れ過ぎなだけなの。ありえないよ、二人の思い出の場所を覚えてないなんて」
「あはは……、二人で行った場所が思い出の場所なら、もう、このコロニーで制覇してないところはないんじゃない?」
「確かに」私は、遠くに視線をやった。
「一緒だったもんね、この街に来てから、ずっと」
そして、それを疑うこともなかったのだ。
今日が昨日の続きであるように。
明日が漠然と伸びてゆくように。
それが途切れる日を意識することなど無いままで、私たちは二人で一つだった。
「これからも、一緒だよ」
それは、何かに言い聞かせるような響きを帯びていた。そうしなければ、水の中の角砂糖のように崩れてしまいそうな、不定形なものに指をかけてしまっているかのように。
だけど、私もその気持ちは同じだ。もう、離れたくはない。
今のように私が匿っていれば、これからもずっと、一緒にいられるのではないだろうか――そんな風に、楽観視しながら。
ふと、気が付けば、私たちは南地区の半ばほどまで来てしまっていた。
辺りを見回して、少しだけ、心拍が上がる。
見覚えのある景色、いや、忘れることなど出来るはずもない、苦い思い出。
2年前、私たちが乗ったバスも、南地区を目指していた。あの時の私たちはまだ、何が待っているかなんて、知る由もなくて――。
「……シオン、どうかしたの? 顔色、悪いよ?」
「……なんでもない。ちょっと、思い出しちゃっただけ」
覗き込んでくるソーヤを、掌で制する。
自分の中で、感情がぐちゃぐちゃにかき混ぜられているような感覚があった。ソーヤはいないはずなのにここにいて、それでも確かに傷だけが残っていて、私の胸を深く、深く苛んでいる。
だから、上手く笑えない。
あれだけ待ち望んでいた、彼との逢瀬だというのに、私は――。
「――今日は、やっぱりやめておこうか」
ソーヤはどこか、遠くに視線をやりつつも、まるで体温のような、優しい口調でそう言った。
「学校帰り、疲れもあるだろうし、無理して行くようなところじゃないよ。週末、お休みの日にゆっくりと、足を向けよう」
「だ、大丈夫だよ、ちょっと色々思い出して、追いつかなかっただけで――」
「――シオン」彼は一言で、私を縫い止めて。
「君の無理する癖を、僕が知らないわけないだろう。強がりはやめよう、お互いにね」
そんなことを言われてしまえば、私にはもう、何も言葉が出てこない。
ただ静かに頷いて見せれば、ソーヤは優しく微笑んでくれた。それが何だか、とても心苦しい。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、ソーヤは伸びを一つ打った。背骨の伸びる音が、小気味よく響く。
「……まあ、いいさ。これから、いくらでも時間はあるんだから。今度でいいんだ、僕の用事なんて」
「いくらでも……って、ソーヤ、病院には戻らないつもり?」
「戻るよ。でも、これだけ元気なんだ。どうせすぐに出てこられる。そうしたら、僕もシオンと同じ高校に編入できるかな……?」
「ふふ、それじゃ、フウリンに頼み込んでみるよ。あの人、私には激甘だから」
他愛のない話。ただ、これまではどう頑張っても、私には手に入らなかったもの。
それが今や、ここにある。ただそれだけでいい。私の中でずっと渦巻いていた暗がりが、靄の向こうに消えていく。
「さて、と。ちょっと、遠くまで来すぎたね。寮まで帰るの大変だし、ポーターでも捕まえようか」
「それなら私がやるよ。だってソーヤ、【Helper】無いし……」
と、そこで。彼の眉根が僅かに寄る。
「……ずっと思ってたんだけどさ、その、【Helper】って、どこに行ったらもらえるの? この間から、君やサクラに出してもらってばっかりで、流石に少し、ばつが悪いよ」
「あ、ううん、これはね……」
そこまで口にしてから、私は重大なことに気が付いた。
【Helper】は2年前に、このコロニーに住む全ての学生を対象にして配られたものだ。
その対象とは――つまり、市民IDを持っている者に限られる。
ソーヤの市民IDは、どうなっているのだろうか。彼は、公的には死んだことになっているはずだ。
いや、ここでこうしているのだから、一応死んでいなかったことにはなるのだろうか……? どうあれ、もしも市民IDが無ければ、彼は【Helper】を手に入れることはできないだろう。
ポーターを呼ぶのもそうだが、買い物をするのも、病院にかかるのも、何かバイトをするのも、全て【Helper】が必要なのだ。
翻せば、そうなれば彼は、この街では生きられないということになる――。
「……シオン? どうかしたの?」
事の重大さに気付いていないソーヤが、無邪気に問いかけてくる。
そんな彼に悟られぬように、私はこっそりと手首の端末を操作する。モードはスキャン、目の前にいる人物を市民IDから特定し、情報を提供してもらうモードだ。
日頃はあまり使わない機能だが、今、この場においては何よりも重要だ。何せ、ソーヤの死が本当だったのか、それをひと目で判別できるのだから。
「……なんでもない、それじゃ、ポーター呼ぶね」
そうして、こっそりと、【Helper】のカメラ部分を彼に向ける。
見たくないような、見なければならないような。そんな、まだらの感情をぶら下げたまま、目を落とした私は、それを目にすることになる――。




