Episode 1.「鬱屈の日々」
「であるからして、人々は某国が建設を進めていた巨大な建造物に身を寄せて――」
狭い長方形の部屋の中に、たった一つだけ声が響いている。7かける6に並べられた机には、それぞれ気だるげな生徒たちが座らされていて、一様に前方の黒板を見つめていた。
五時間目、歴史の授業。昼食の直後でほどよく満たされた胃袋が、私のまぶたに重りを吊り下げていく。
ああ、どうして授業というのはこんなにも退屈なのだろうか。
狭く風通しの悪い箱に閉じ込められて、私たちはひたすらに個性を削ぎ落とされてゆく。
興味なんて欠片もない、将来何の役に立つのかわからない知識をいくつも詰め込まれ、その容積に点数をつけられる。
同調圧力と慣習が幅を利かせる、旧態依然としていて、非合理的で、非生産的な、そんな仕組みはいつの時代も変わらないのかもしれない。
なら勿論、世界が終わったところでーー変わるはずもない。
「じゃあ3行目の初めから……ミッドウェー、読んでみなさい」
凛とした返事が教室の真ん中辺りから聞こえて、間髪入れずに一人の女子生徒が立ち上がった。
艶のある黒髪を腰元まで伸ばした彼女は、張りのある声でテキストを読み上げ始める。
「はい、絶滅期の始まりは22世紀の始め頃と言われており、その原因は未だに特定されていません」
教科書として使っているタブレットの表面を視線で撫でる。やることもなかったので、私はなんとなく、彼女の声に続けて文を目で追っていた。
――終末絶滅期。
そう呼ばれる天災は、瞬く間に地球の環境を一変させた。具体的な原因は未だに特定されていない。一説によればどこかの国の気象兵器が暴走しただとか、ある宗教家曰く、神が定めた終わりの時だとか。
ともかく、海は荒れ狂い、植物は枯れ果て、大地を灼熱の熱波と凍てつく吹雪が覆い尽くした。
やがて、各国のあらゆる都市はその機能を失い、小国から順に次々と滅んでゆくことになる。人々は安息の地を求め、少しでも環境変化の緩やかな場所に移動しようとしたが、既に交通網は崩壊してしまっていた。
いや、仮に残っていたとして、どこに逃げれば良かったと言うわけでもない。西暦2092年。地球上に、人類が生存可能な地域はほとんど残っていなかったのだから。
――こうして世界は滅び、西暦は実に唐突に終わりを迎えた。
「……なんてね」
私は周りに聞こえないくらい小さく呟いた。そんなのは、今を生きる人間なら誰だって知ってることだ。
わざわざそんなことを授業でやるなんて馬鹿馬鹿しい。だから私は、この歴史の授業が一番嫌いなのだ。
ふと、私は窓の方に目をやった。暇潰しに、思考は窓の縁を乗り越えて旅をする。
快晴だった。汗ばむ陽気と湿気の中、嫌になるくらい透き通った青色の空に、わざとらしく屹立する雲の峰が、街を見下ろしている。
校庭の向こうに見える街並みは、まるでジオラマのように見えたが、そうでない証拠を誇示するように、校門の前をバスが通過していく。
遥か遠くには、地区間移動のリニアモーターカーが走っているのも見えた。それがなんとなく、この街の脈動のように思えて、可笑しくなってしまう。
この風景だけ切り取れば、まるでこのテキストに書いてあることは全部嘘っぱちみたいだ。
それでも世界は滅んだ、らしい。私が生まれる何年も前に。だからこの空は作り物で、私たちは、ずっとこの屋根の下に閉じ籠っているのだ。
「……オン、……を……きなさい……」
首筋を、汗が伝っていった。エネルギーの節約がどうこうとか言って冷房をケチっているから、教室の中は茹だるように暑い。
だが、窓際の最後尾である私の席は一番風通しがいい。頬杖をついて外を眺める鼻先を涼風が掠めていくから、まだいくぶんマシだ。
現在、私たちの街の季節は夏に設定されている。秋への変更は9月の15日からだったから、まだまだこの暑さはひと月以上は続きそうだ。
「……シオ……聞いて……前を……」
ああ、そうだ。なら、帰りは冷たいものでも食べていこうか。学校の近くにある行きつけの喫茶店が、新しいメニューを出したはずだ。今日は5時間目で終わりだから、誰か誘って――。
「……シオン・ヴィオレット! 聞いてるのか!」
唐突に、頭のてっぺんに衝撃が走った。
驚きが先行して、呻きに近いような声が漏れた。それから少し遅れて、つむじの辺りに痛みを感じる。誰かに叩かれたのだ、と考えるより早く。
「前を向けと言ってるんだ、ヴィオレット」
その声は頭上から降ってきた。恐る恐る目を開けると、そこに立っていたのは、先程まで黒板の前にいたはずの先生だった。
「……あ、先生、どうも……」
私は反射的に口角を上げた。笑って誤魔化そうとしたのだが、どうにも言葉が出てこない。代わりに冷たい汗が、背中を流れていくのを感じていた。
先生は、ワイシャツの袖を半分ほど巻くった腕を胸の前で組んで、私を見下ろしていた。癖っ毛の前髪に隠れて見えなかったが、もしかするとこめかみには青筋が浮かんでいるかもしれない。
まずい、と、私が喉の奥から謝罪を取り出すよりも早く。
「俺の授業で余所見とはいい度胸だ。よもや、こないだの小テストの点数を忘れたわけじゃないだろうな」
「あはは……何点でしたっけ」
「……とぼけるのなら、今この場で開示してやろうか。百点満点中――」
「わーっ! 先生、駄目だって、何すんのさ!」
慌てて手を伸ばして、先生を制する。ただでさえ授業中に怒られていて、教室中の視線が集まっているのだ。今そんなことされたら、私は明日から笑い者になってしまう。
というか、もう既に手遅れな感じすらあった。あちこちから、押し殺した笑い声やひそひそ話が聞こえてきていた。
「……まったく、俺はお前の将来が心配だよ。言われるのが嫌なら真剣に授業を聞くんだ。次の期末テストでも似たような成績だったら、補習も覚悟してもらうからな」
先生が不機嫌そうに鼻を鳴らす。そして、そのまま靴音を発てながら教室の前方に向かって歩いていった。
まったく、いちいちイヤミな人だ。だから眉間に寄ったシワが消えないのだろう。別に少しくらい授業を聞いてないからって――。
「……おい、何か言ったか?」
振り替える横顔に、今度こそ血管が浮き出ているのが見えた。拳骨の二発目をもらいそうな気配がしたので、「いえ、何にも」とノータイムで返して背筋を正す。
先生が教壇に戻ると、緩んだ空気が再び引き締まるのを感じた。他の皆も静まり返って、また授業が再開される。
つまらない時間ほど、長く感じるのはどうしてだろう。「人に与えられた時間は平等だ」なんて誰かが言っていたけど、私には嘘にしか思えない。
私は、手首に巻き付いている腕時計型の端末に目を落とした。終業の鐘が鳴るまであと30分。
それを確認して、静かに瞳を閉じた。じきに微睡みの波が押し寄せてくる。
机の上に投げ出した腕に顔を埋めて、意識が飲み込まれていくのを感じていた。