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Sangría  作者: なすみ
9/11

9話

 椎名は、可能性を考えた。

 まずは卯月の主張するとおり、その少女が今もそこへ実在していて、自分がたまたま、何かの弾みでその虐待を目撃し、そして見て見ぬ振りをした。そんな可能性。

 ありえない。とも言い切れない。それが彼女にとって強いストレスとなり、解離性健忘を引き起こした。可能性は小さくない、と考えた。

 次に、過去、自分が体験したことが夢となって、思い出されようとしているという可能性。これは椎名が、卯月本人には敢えて伝えていない可能性であったが、初めから視野に入れて考えていた。

 実際に幼少期の虐待か、あるいは恋人などからの暴力か。はたまた、彼女が隠している過去に、そのような体験があったか。いずれにせよ、その時の記憶が今、呼び起こされようとしているのではないか。

 最後に、その他の雑多な可能性。

 精神病性の障害。例えば統合失調症の、前駆症状。あるいは解離性障害としてのフラッシュバックや、フラグメント記憶。

 最悪の場合、虚偽記憶症候群の様に、現実では無い過去を事実として認識してしまう事例もある。

 勿論、それらは非常にレアケースであり、それであると断定するには、判断材料も足りない。当てはまる事柄が無いに等しい。

 卯月沙耶という人間を、考える。

 言葉を発する前に、それらの持つ意味とリスクを考える様な間がある。少なくとも、このカウンセリング中に置いて、椎名がこれまで接してきた様々な患者と比べ、卯月は努めて理性的に在ろうと振舞っていた。今日、アクシデントから結果的に彼女との間に一つのラポール、架け橋が渡されたが、それでもその癖は彼女が生来持つものとして映っていた。

 卯月もまた、そんな危ういバランスの上で成り立っている彼女。その内心に踏み込むためには、一層の慎重さが求められる気がして、緊張が走る。きっと、一つでも判断を誤ってしまえば、彼女を律しているものが、容易く崩れてしまうような気がして。

「少し……試したいことがあります。今朝、夢の中で見た風景を、出来る限り、思い出して貰えますか? もしかすると、それによって何か発見があるのかもしれません」

 卯月は初め、目の奥に怯えたものを宿した。自分の掘り起こすべきではないと、知識ではなく直感で理解しているところ。そこに手をかけ、積もった土を払い退けて、白日の下に晒す。

 だが、恐怖と同じ位、そこには決意もあった。

 もう逃げない。忘れようとしたことも、見ないようにしたことも。全部思い出さないと、あの少女を救えない。そんな気がした。

 胸元に手をやりながら、小さく頷いた。

「……やってみます」

 いつの間にか温くなっていたコーヒーを飲み、ゆっくりと身体の力を抜く。椎名の前で、瞼を薄く閉じる。

 やがて、部屋から一切の音が消える。卯月と椎名の息遣いも、外を走る車の音も、彼女の耳には一切が届かない。ただ、今朝見た夢の内容を思い起こすように、深い呼吸を続けた。

 椎名は、そんな姿をただ黙って見つめ続けた。少しずつ、思い出そうと眉間に皺が寄り、膝の上へ置かれた手へ力が込められていく。

 その度に、彼女の中で、錆びついて風化した扉が、少しずつ開いていく。

 僅かに肩が跳ねる。

 椎名はその変化を見逃さない。記憶の蓋が開いた合図と思い、僅かに道を指し示す。

「なんでも構いません。思い出したこと、憶えていることを、ただ教えてください。順序が逆になっても大丈夫です」

 その声は、思考のノイズにはならない。穏やかに手を引かれるような感覚で、静かに乾いた唇を開いた。

「……玄関。茶色い扉で、ドアノブは金色……ですかね。押し引きで開くタイプで、子供ながらに、力が必要だったんです。扉がすぐに開くんですけど、そこからが重たくて……。リビングに続く扉は、すりガラスがはめ込まれていて、その反対側にトイレがあって……リビングは、大きかった。だから掃除をするのが大変で……」

 まるで家を彷徨い歩きながら、昔話を語っているかのように、話を続ける。声音に自信の無さが表れており、表情は不安そうに顰められていた。

 それでも、記憶の中で歩みを止めようとはしない。そうして家を歩いている内、必ずぶつかる恐怖の対象がいると分かっていても、彼女は前に進もうとした。

「ソファと、リビングにテーブルがあって、テレビ……キッチンは、わたしの場所でした。冷蔵庫が右奥にあって、冷蔵庫もその隣に。いつも食材とビールが冷えていて、上の棚は取りにくかった気がします……」

 椎名は、ただその言葉を受け止めた。

 メモも取らず、相槌も打たず、ただ物音ひとつも立てないように、卯月の意識から外れる事を意識して、吐き出される記憶を、観察した。

「他に、匂いとか、音とか、気温とか……何か憶えていることはありますか?」

 今、彼女の内側で沈んでいたものが、ゆっくりとその姿を現そうとしている。

 椎名の問いかけは、過去へと続く階段の一段目を、そっと照らす明かりの様だった。

 それは卯月が更に記憶を掘り起こす手助けを、優しく促す。

「匂い……。煙草の匂い、お酒の匂い……。いつも、服に染み付いていました。でも、あの子は服なんて持ってない……? そうです、持ってなくて……」

 語りながら、彼女の手が震え始める。

 それは記憶の重さに身体が耐えようとする、無意識の反応。

「音は? 今朝の夢で、何が聞こえましたか? どんなことでもいいです。思い出してみてください」

 卯月は更に苦しそうな顔を浮かべる。気付くと、また彼女は胸元へ手をやっていた。悪い癖だった。強いストレスを感じると、胸元を強く掴んでしまう。その癖は、元々、あの少女のものだった。

「音は、うるさいです。あの男の人……足音がうるさくて、身体の大きさが、嫌でも伝わってくるような……。テレビをずっとつけてて、それをソファに座って見てました。わたしは、そんな……あの男の人の大きな声が、苦手で……」

 卯月は、思わず鼻の奥が熱を持つのを感じた。

「怒られるのが嫌で、あの人がいない時でも、ずっと物音を立てないようにしてました。静かに過ごして、ちょっとでも、あの人の迷惑にならないように……。わたしが、追い出されたら行くところなんてないから……」

 椎名はいつの間にか、彼女が自分の夢に存在する少女のこと、という視点での記憶から、自分の視点で話を続けていることに気付く。

 初めはずっと、自分の悪夢だと思っていた。卯月は自分が夢の中で、何か酷いことをされていると感じていた。そこへ疑惑が浮かび、夢の中で自分はあの少女へとなっていて、そして。

 今、卯月は夢の中にいるのがあの少女なのか、それとも自分なのか。そんなことも、分からなくなってしまっていた。

 涙を流しながら、卯月は続ける。

「寒かったです……。夏なのに、とても寒くて……寝る場所がないから、わたしの部屋すらも無くなったから、廊下で……寝ていて。そこ以外で寝る事を、あの人が許してくれなかったから……だからわたし、制服のままで廊下に横たわって……身体、痛くて」

 記憶はただの情報ではない。

 それは感情と結びついた体験であり、心身に染み込むものだ。だからこそ、思い出すだけで身体が、またその感覚を再生する。

 レモンを思い出すだけで唾液が出る様に。

 恥ずかしかった思い出を思い返すだけで、頭が真っ白になるように。

 今の卯月も、全てが皮膚の裏から蘇っていた。

 夢だから耐えられた出来事も、何もかも。

「その廊下の窓から、庭に植えられた木が見えたんです。葉っぱは落ちてて、枝が重なって……夜に起きてそれを見るのが、怖かった。わたしの方を見ている気がして……怖かった。あの木、すごく怖かった。……でも、それを怖いって言うと、また……怒られて……い、嫌なら出て行けって……言われて。でも、わたし、逃げられませんでした」

 カウンセリングを終えた後も、一度開いてしまった記憶は、そう簡単に忘れる事を許してくれない。

 卯月はいつもよりかなり長い時間をかけて、ようやく家に着いた。クリニックを出た時には昼過ぎを差していた時刻も、今や夏の空にうっすらと橙色が流れ始めていた。

 カバンを持ち、重たい身体を引きずるようにして、玄関へと向かう階段に足をかける。途端に喉の奥から胃液が込み上げて、思わず膝をついた。

 何度も喉が跳ね、嘔吐してしまいそうになるのを必死で我慢する。こんなところで床を汚したら、他の人に迷惑が掛かる。頭の中で何度も唱え、一歩一歩、手すりに体重を預けながら、倒れこむようにして階段を昇る。

 目からは反射か、感情によるものか、涙が溢れ出しては落下する。ぼやけた視界が何度も晴れては、またすぐに滲み出す。

 そうしてようやく家の扉を開けるなり、卯月はそのまま靴も脱がず、慌てて走り出した。

 口の中に溜め込んでいた胃液をトイレへ吐き、続けて何度も吐き戻す。帰路の途中で何度もコンビニへ立ち寄り、何ももう出てくるものはないというのに、それでも吐き気は収まらない。喉は焼ける様な痛みを発し、ひと呼吸の度にトイレへ顔を埋める。

 手や足は、もはや自分の物とは思えない。がたがたと震えて言う事を聞かず、それに意識を向ける傍から次のものが喉を突く。

「うう、うううう……」

 唸り声しか出せないまま、いったいどれほどそうしていただろう。いっそ、気絶した方が楽だとすら思う程の苦痛は、いつの間にかその姿を潜めていた。

 必死でトイレから這い出た後、力尽きて、卯月は廊下に倒れこんでいることに気付いた。

 指の一本すら、動かす気になれない。自分の呼気が吐瀉物の匂いを放ち、鼻を突く。ぬるりとした唾液が唇の端を垂れ、頬と床に垂れた髪の毛へ染み込んでいた。だがそれでも、今はただ、何もしたくなかった。

 喉が痛い。水が欲しい。そう思ってみても、今はただこうして、フローリングの冷たさを感じていたかった。たとえそれがどれだけ寝心地の悪い場所であるとしても。

 思い出さなければ良かった。

 ふと、そんな考えが脳裏を過る。そう思ってしまった瞬間、胸の奥に小さく、けれど深い痛みが走った。

 椎名先生は、なにも悪くない。

 あの人はちゃんと、わたしの話を聞いてくれた。無理に踏み込んだり、急かしたりなんてしなかった。

 最後に決めたのは、わたしだ。自分で踏み込んだ。こうなることを、どこかで分かっていたはずなのに。それでもあの子を救うため、この道を選んだんじゃないか。

 苦しくなることも、辛くなることも。そしてそれ以上に、自分の無力さを知ることも、全て承知の上で。わたしが選んで、記憶に手をかけた。

 今の卯月にとって、吐き気も倦怠感も、希死念慮すらも、彼女を救うための手立てが一切ない。その事に比べれば何のことはなかった。

 ……でも。

 どうしてあの記憶は、閉じたままになってくれなかったんだろう。

 どうして思い出そうとした時、あそこまで滑らかに思い出せたんだろう。

 どうして、悪夢をこの先ずっと見続けるだけに、しておいてくれなかったんだろう。

 思い出さなければ、表面上は普通を装えたのに。

 そんな醜い考えが、再び顔を出す。卯月は慌てて否定する。

 違う。

 椎名先生は、わたしを助けようとしてくれた。わたしだって、助かりたかったはずだ。

 あの人の言葉に、今日も救われたじゃないか。

 あの人を信じるべきだ——そう分かっているはずなのに、こんなことを思ってしまう自分が、とても情けなく感じた。

 あの子も、救われたいと願っているとは限らないだろ?

 それは、自分に対する言い訳だけの考えではないと、どこかで分かっていた。

「……ごめんなさい」

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