8話
椎名は、悲しそうに目を伏せる。
「だから、わたしもそんな風に、ただ寄り添うだけ。そんなカウンセラーになりたかった」
話し過ぎましたね。すみません。
そういって、椎名はふっと笑みを浮かべる。しかしその顔はどこか悲しげで。卯月はその中に、自責の念があることを知っていた。
この先生も、カウンセラーである前に、一人の人だった。人並みに悩み、誰かに救われて、それに憧れる。努力もして、勉強もして。
そんな人に、わたしは。
「……すみません」
口を開いた卯月より先に、椎名はそう言って、深々と頭を下げた。茶色の緩くカールが掛かった髪が揺れ、それに隠れて表情は読めない。
卯月は慌てて、手を前に出す。
「そんな、先生が謝る事なんてありません。わたしこそ、まるで疑うみたいに……失礼な事をしたと思っています。謝るのはわたしの方です」
頭なんて、下げないで欲しかった。
悩みながら、それでも必死で伸ばしてくれた助けの手に疑いを抱いたこと。それを思うと、卯月は、胸が締め付けられる思いだった。
椎名はゆっくりと顔を上げる。患者に猜疑心を抱かせた。辛い気持ちを楽にしてもらうために来ている患者へ、余計に苦痛を与えたことが、彼女にとって何よりも辛かった。
その表情は、もうカウンセラーとしての椎名ではなかった。ただ、一人の相談相手として。卯月と、ある種対等な立場としての、彼女の姿だった。
卯月は、改めて口を開く。
「わたし……ただ怖かったんです。先生に、抱えている悩みを相談することも、胸の内を暴かれることも。自分の悩みが、人に知られることも。全部、ただ怖くて……。自分でも、自分がおかしいって分かってるんです。普通じゃない、どこか変だって。だからこそ、そのおかしくなった部分を、先生に見られてしまうのが嫌だった……。これまで、ずっとわたしの話を聞いてくれていた先生に、自分でもどうしたらいいか分からない所を見られるのが……怖かったんです」
気が付けば、手で胸元の服を、力強く掴んでいた。息苦しさを感じているのか、何に耐えようとしているのか、自分でも分からない。この告白すら、卯月にとってはとても勇気を必要とすることだった。
怖いという事を話す。それすら、自分の弱みを誰かに見せる行為であり、卯月は、椎名に冷たい目を向けられるのも、見捨てられるのも、何もかもに怯えていた。
蛍光灯の光が照らす中、椎名には卯月の顔が今やはっきりと確認できる。喉に何かがつっかえた様な、堪える表情。それを理論に基づいて分析することは、もうしない。ただ、この人がどう思っているのか。何をしてあげることが一番良いのか。そんな、直感に委ねて、ただ話に耳を傾けた。
「見捨てられたくない……」
ぽつりと口をついて出た言葉。それが卯月の本心だったのかもしれない。
一人は嫌だ。誰かにいて欲しい。
大人として、副部長として。卯月は常に誰かからの見られ方を気にしていた。どんなに体調が悪くても笑顔を絶やさず、部下にも上司にも、弱みを見せることがなかった。親にも恋人にも頼らず、全て自分一人で何とかしてきた。弱く映らないか。未熟に見えないか。化粧で目の下の隈を消し、長袖で身体の痣を隠し。常に自分に対して、完璧であれと押し付けた。
その仮面の内側で、ずっと耐え続けてきた本当の自分が、悲鳴を上げているのも無視して。
我慢して、我慢して、我慢して。
とうとう、椎名に対しても、自分の弱さを悟られまいとしてしまった。
あそこでもし、椎名がカウンセラーとして、そんな卯月の反応を良くあること、聡明な患者が至るものだとして処理してしまっていたら、きっと卯月はこの先、椎名にすら、強い自分としての仮面を被って接してしまっていただろう。
けれど今は。
弱さも、醜さも、見られても良いと思った。
本当は、誰かに診てもらいたかった。
人として自分の話を聞いてくれる彼女に、卯月は少しだけ、弱くなることが出来た気がした。
再び、部屋を静寂が包んだ。だが今度は、不快なものではなかった。
カーテン越しに窓の光が漏れ、鳥の影がその中を飛ぶ。二人の前にある机に、隙間から差し込む日差しが反射していた。
椎名は、ふと立ち上がる。卯月は鼻の奥に熱を感じ、思わず泣きだしそうになっていたのを慌てて誤魔化す。
「卯月さん」
名前を呼ばれ、卯月は鼻を啜って顔を上げる。椎名は淡い色調のロングスカートを翻しながら、目を細めた。
「コーヒーはお嫌いですか?」
たまにカウンセリングへ訪れた時、アロマに交じって微かにコーヒーの香りがしていたのはこの為だったのか。卯月はそんなことを考えながら、ただ静かに座って待っていた。
やがて、奥の扉が開いたかと思うと、恐らく資料や個人情報を保管しているであろう準備室から、彼女がマグカップを2つ持って、帰ってきた。
「すみません、ミルクも砂糖も置いてないので、ただのブラックになってしまいますけど……」
そう言いながら、椎名は近づいて、一つを自分の傍へ置く。もう一つを、卯月に差し出した。
「あ、ありがとうございます」
卯月は恐る恐る、それを両手で受け取る。頭の中では、すっかりカウンセリングの時間など超過しているはずなのに、ここにいて良いものか、他の人の迷惑になっていないだろうか。そんなことを考えた。
部屋の中を見渡すが、しかしどこにも時計がない。無論、椎名の腕にもその類のものは付けられていなかった。
その考えを察してか、或いは偶然か。椎名はマグカップから口を離して、卯月に話す。
「この後はお昼過ぎから予約が入っているくらいですから、どうぞゆっくりしてください。……肝心のカウンセリングも……まだ出来ていませんから」
そう言われて、卯月は少し安心した。誰かの迷惑になっていない。そう分かって、少し安心した。
少し頭の中で整理してから、切り出す。
「夢に、変化があったんです」
マグカップを両手で抱える様にして、膝の上に手を置く。
「その変化とは……率直にお聞きしますが、良くなりました? それとも、悪くなりました?」
椎名もまた同じ姿勢を取って、慌ててそれを止める。患者の動きを無意識の内に真似をする——ミラーリングの癖がついている事に気付く。
だが、それを意識してやめる。というのも彼女にとって、不誠実な気がした。悩んだ末、再び同じ姿勢を取って続きを待つ。
自然体であろうとした。
「どちらとも言えない、ですかね。その、夢の中で鏡を見たんです」
以前抱いた、夢の中にいるのは自分ではないかもしれないという疑惑。
扉に付いたドアノブの見え方や、感じた家具の大きさ。異様に大きく映る、顔の見えない男。それらから、自分はあの夢の中で、自分ではないかもしれないと思った事を伝えた。
そして、鏡に映った少女。
「……見覚えのない女の子でした」
椎名は、何か考える様に視線を外す。コーヒーに映った自分の顔と、目が合う。
「その、わたしも記憶力が良い方ではないと思います。自分が中学生の時の記憶を、完全に覚えている訳では無いと思います。でも、直感的に……あの女の子を、わたしは知らないと、感じたんです」
思ったことを、卯月はそのままに伝える。取り繕うこともせず、ただ感じた事を、感じたままに。
椎名もまた、敢えて深く考えずに言葉を返した。
「その子は、いくつ位でした? 服装とか、髪型とか、少しでも記憶と合致するものはありました?」
「年齢……は中学生くらいだと思います。制服を着ていて、それが中学生くらいで……あ、でも、わたしの母校の物ではないと思います。見覚えが無くて……。服装も、髪型も、全くわたしの記憶にない……と思います」
言いながら、改めて思い出す。夢の中での記憶のため、うっすらとしか出て来ない。だが、いくら記憶を探っても、全く関連するものは思い出せなかった。
椎名は眉を潜めた。
卯月の話に、食い入るように身を乗り出す。
「でしたら、その少女の姿は、はっきりと見えましたか? 例えば、卯月さんの夢に出てくる男の様に、靄がかかっているように認識出来ない、ということは?」
そう言われて、はっとする。確かに、そんなことはなかった。そんな記憶がない。ということは、少なくともあの少女の顔や姿。それははっきりと認識出来ていた。という事に他ならない。
それを伝えると、椎名は深く息を吸いこんだ。
「その、気を悪くしないでくださいね」
そう前置きをして。
「夢というのは、記憶の整理のようなものです。日中に起きた事や、覚えておかないといけない事、逆に忘れても良いものを仕分けているんです」
そこまで言ってから、椎名はマグカップをそっと置く。そして、真剣な眼差しで卯月を見つめた。
その視線は、まるで顕微鏡の中に未知の存在を見た研究者の様に、輝いていた。知的好奇心と、鋭い探求心が垣間見える。
目の前に存在しているものを正確に理解し、言語化し、分析したい——そんな欲求が、滲み出していた。
思わず卯月はたじろいだ。
この人は今、わたしを患者としてでは無く、症例として見ている。そんな感覚が頭を過る。
だが、不思議と嫌悪感は無かった。むしろ、そこに温かみすら感じる。
ただ心配するだけではない。自分の内側に巣食っている、ずっと誰にも理解されなかった何かを、椎名は真剣に、誠実に見つめてくれている。そう思えたからだ。
そしてきっと、この人なら、それの正体を突き止めてくれる。
だからこそ、怖かった。
椎名が見つけてしまうそれは、自分にとって、忘れておいていたかった過去や記憶なのでは。
誰かを夢の中ではなく、現実で、見て見ぬ振りをして、見殺しにしてしまったものではないか。
そんな恐れが、胸を締め付ける。
それでも、卯月は目を逸らそうとはしなかった。
「……卯月さんを疑っている訳ではありません。それは理解して下さい」
椎名は再び念を押して、続けた。
「……つまり、夢の中に完全な他人が出てくるというのは、実はありえないことなんです」
「ありえない……」
「そうです。人は、見た事のないものを、一から想像して作り出すことが出来ないんです。例えば、有名なお化けや妖怪、化け物とか……未知の存在として考えられたそれらも、全て何かの組み合わせなんです。ヴァンパイアはコウモリと人。河童は猿とカエルと亀、スフィンクスはライオンと鷲と人……そういった風に、既存のパーツを無意識に組み合わせて、わたしたちは未知を構築しているんです」
説明を区切り、理解出来ているか確かめる様に卯月を見る。彼女は思わず、講義を受けているような気持ちで首を縦に振った。
椎名はそんな反応に、柔らかく笑って続ける。
「正確には、全くの新しい顔を、夢の中で見ることは出来ない、という事です。つまり、架空の顔を夢の中で作ることは出来ても、それはどこかで見た誰かのパーツを組み合わせた物なんですね」
通りすがりの人、テレビで数秒見ただけの人物、子供の頃に一度だけ会った遠い親戚。そういう記憶のかけらが混ざって、夢の中で形になる。
卯月は、そこで何かに気付いたように顔を上げる。
椎名はそんな顔を見て、僅かに目を細めた。もう彼女の中に膨らむ知的好奇心を隠そうともせず、楽しそうに。
「ええ。……卯月さんがその子を知らない、と感じたとしても、その顔は、脳のどこかに残っているはずなんです。どこかで、絶対に、その子を見ているんです」
椎名の語調は強くなかった。あくまで優しく、穏やかな語り口。しかしその奥には、強い確信と根拠が秘められていた。
「ただ……」
椎名はそこで、僅かに眉を寄せた。
「記憶は、感情や状況と一緒に保存されるんです。怖かった、混乱していた、見たくなかった、危なかった。そういうとても強烈な感情が、その時に感じられていた場合、脳はその記憶を封じ込めようとすることがあります。いわゆる解離性健忘ですね」
聞き覚えのない病名に、卯月は必死でついていこうとする。
「いわゆる記憶喪失、と言ったらあまりに乱暴な区分けになりますけどね」
「……それって、わたしが、その子に……嫌な思い出を抱いている、ということですか?」
「いえ、そうとは限りません。ただ、思い出すことが難しいような状況で見た。というだけかもしれません。例えば、事故の直後や、強いストレス下、あるいは……ご自身では重要だと思っていなかった場面。日常の中の一コマだと思っていた場合、当然記憶は薄まりますよね」
一昨日のお昼は何時に何を食べましたか? そう聞かれて、卯月は言葉を返す代わりに納得する。
「でも、夢はそれを掘り起こすんです。今なら向き合ってもいいかもしれない。そう脳が判断すると、封じ込めたはずの記憶が形になって、夢になる」
「……じゃあ、あの子は」
「きっと、何らかの形で、卯月さんと繋がりのあった人。と、わたしは考えます。遠い過去かもしれないし、たった一度の出会いかもしれない。たまたま見かけただけの、赤の他人ということもあるでしょう。でも——あなたの作り上げた幻ではないと、わたしは自信を持って言えます」
卯月はそれを聞いて、思わず胸の中に何か、言い難い物があることに気付く。
「じゃ、じゃあどうすれば……どうすればあの子を助けられますか?」
食い入るようにして問いかける。椎名はその姿に、思わず驚きを隠せなかった。彼女のこれまでの性格から、他人に迷惑をかけたくない、早く正解へ辿り着かないといけない。そう思う事は予想していた。しかし、自分が悪夢を見る。その問題の解決ではなく、夢の中に存在している少女を助けたい。そう言ってくることは、想定外だった。
これは進歩か、あるいは彼女が夢と現実の区別がつかなくなってきているのか。前者だとしたら、喜ばしいことだった。だが、後者だとしたら。
夢の中にいる少女の実在を信じて疑わない。現実検討能力の低下により、そんな状態にあるのだったら、その時こそ。
解決を急ぐべきかもしれない。