7話
「……また、夢を見ました」
卯月は悩んだ。椎名に対して抱いている感覚。自分の心をいとも容易く開け放ち、自分ですら良く知らない気持ちや、思いを丁寧に読み解かれる感覚。それはお世辞にも気持ちの良いものではない。そのテクニックが分かった今、それははっきりとした不快感へと変わっていた。
だが同時に、そうやって自分の事を知ろうとし、泥沼に足を取られている自分を引きずり上げようとしてくれている事も知っていた。現状からの脱却を望む気持ちと、それに対する恐怖とが、目の前のカウンセラーに、どう接するべきか分からなくしていた。
悩んだ末、出た言葉がそれだった。
椎名は目を伏せ、何かを明らかに隠そうとしている卯月を見る。
視線回避。
応答の遅れ。
表情の強張り。
それらは明確な拒絶反応として表れていた。
彼女の視線はカーペットの一点に注がれる。
「でも、その話をするべきか、分からないんです」
卯月は言いながら、この言葉は果たして自分の意思で言った言葉なのか。それとも、これすらも椎名に誘導されて言わされている本心なのか。そんなことを考えてしまう。
話を聞いて欲しいとも思う。誰かに、夢の中で酷い目に遭っている少女を助けたいと思う気持ちを。だが、それを伝える相手として、椎名は妥当だろうか。
椎名は口元に手を当て、何か考えるように目をデスクの上へやる。それから、慎重に言葉を選んだ。
「そう感じた事、こうして言葉にしてくれて嬉しいです。……分からない時って、多分……。話したい気持ちと、話したくない気持ちの両方があるんですよね?」
その一言に、卯月は下唇を噛む。
やっぱり。
わたしの思考を見透かして、肯定も否定もしない。発言を迂遠に繰り返して、ただ聴こうとする姿勢。
調べた通りの技法だ。
リフレクション、傾聴、受容と共感の姿勢——。
頭の中へ、見覚えのある単語が浮かぶ。だがそれを考えている自分すら、とても浅ましいものに思えた。
卯月はそんな風に、人の行動を素直に受け取れない自分を嫌悪した。
「……何だか、全部お見通しって感じですね」
言って、落ち着かない様子で髪を耳に掛けなおした。
自分の言葉が、まるでへそを曲げた子供の様に思え、恥ずかしさを憶える。
「……なんというか、少し……斜に構えてしまっているんです。最近、カウンセリングの技法とか、調べてしまって」
この先生には、どんな隠し事も無意味だ。そう思えて、正直に言う事にした。あるいは、投げやりに、自分の本音も何も透けて見えるのなら、洗いざらい言ってしまえというような、そんな自棄にも似た感情の動きだった。
「先生のやっていることって、全部わたしの考えていることを引き出すための、技法なんですよね? だから本心を喋ってしまうって、気付いてしまって」
どうせこういっても、あなたなら。
カウンセラーとして、のらりくらりと、やり過ごすんだ。
そう心の中で呟いて、ふと沈黙が場を制していることに気付く。
思わず顔を上げる。
椎名はまるで呆気に取られたように、これまで見た事のない表情でそこに座っていた。
一瞬、何かを言い返そうとしたのだろう。眉を潜めて口を開いた後、思い直すように閉じた。その目はどこか迷っていて、ただカウンセラーとしてではない、人間としての彼女がそこにいた様に見えた。
呼吸すら忘れていたのか、椎名は目線を僅かに椎名から逸らし、口で小さく息を吸う。
それは分かりやすい程の動揺だった。
「あ……えっと……そう、なんですね」
言葉が、喉に引っかかる。
普段の落ち着いた様子はどこにも認めようがない。困ったような、悲しいような表情で、何かを言おうとして、また口を噤む。
卯月はそこで、傷つけてしまった事に今更ながら気づく。
椎名は椅子に座り直し、膝の上で手を組もうとするが、途中で指が絡まってやり直す。
「えっと、それって……どこまで、調べられたんでしょう?」
努めて明るく振舞うが、冗談めかすには声が固い。
空気が重く感じられ、お互いに自分がここにいてはいけない存在の様な、居心地の悪さを感じる。
とても長く感じられる沈黙の後、椎名は思い切って口を開く。
それはいつもの様に、患者の気持ちを引き出そうとするような働きではない。そうしようとしても、脳が働かない。結果、アドリブの様に言葉を紡いだ。
「……ごめんなさい。あの、わたし……いつもそうやって、小手先のテクニックであなたと接している様に、見えるのかな……って」
卯月はただ、大きな後悔に圧し潰されながら、唇を結ぶ。
こんな風になるなんて思っても見なかった。
そんなことはない。
そんな風には思っていない。
そう言った方がいいとは分かっている。でも、嘘になる気がして。
どう伝えるべきか、自分でも分からなくなる。
水を打ったように静まり返った部屋の中、二人の息遣いだけが響く。お互いに思うところがあり、どう切り出すべきなのか、次に何を言うべきなのか。ただ重苦しい沈黙が、空間を支配した。
暖かな間接照明すら、今は生ぬるい薄暗さしか感じられない。
やがて卯月が、視線を泳がせながらゆっくりと答えた。
「さっきのは、その……全部に対してそう思っている訳じゃないんです。わたし自身、詳しく知っている訳じゃないし……全部が全部、椎名先生の思っていない言葉とは思っていなくて」
言いながら、何を伝えたいのか、自分でも良く分からなくなる。それでも、このまま気不味い沈黙を続けるよりは気が楽だった。
椎名はそんな卯月の絞り出した言葉に、ただ目を伏せて耳を傾けていた。そこにあったのは、もうカウンセラーとしての、精神科医としての彼女ではなくなっていた。それは職業柄、褒められたことではないのだろう。だが、卯月にそれが伝わったとき、彼女もまた、少しの安堵を憶えた。
ああ、この先生もちゃんと人間だったんだ。
そんな当たり前のことが、今の卯月のには嬉しかった。
「……少し、わたしがこの仕事についた経緯の話を、してもいいですか?」
卯月はそんな言葉に、驚いて顔を上げる。
カウンセラーの側から、自己開示を越えてそんな言葉を聞くとは思ってもみなかった。
職業柄、自己防衛として偽名を名乗ったり、必要以上に自分の事を語ることが御法度とされている業界というのは、彼女は知ってしまっていた。逆恨みや、過度な好意を寄せられて、被害に遭う事を防ぐための防御策。それを知っていたからこそ、その言葉は卯月にとって、衝撃だった。
卯月は、静かに頷いた。
今度の沈黙は、それほど居心地の悪いものではなかった。
ややあって、椎名はゆっくりと唇を開く。
初めに、こんなこと言っていたなんて、誰にも言わないで。そう前置きをして。
「わたし、中学生くらいの時に、心療内科に通っていたことがあるんです。特に何かきっかけがあった訳じゃない。と、自分では思っていました。ただちょっと家庭環境が複雑で、ちょっと親が家にいないことが多かったんです。それでも学校にはしっかり通えていたんですけど。そこでもちょっとしたいじめはありました。けど、そんなの誰もが抱える悩みじゃないですか。わたしより辛い人だって、周りを見れば沢山いて、わたしなんてまだ全然マシな方だなって思ってたんです」
何があったのか、卯月は敢えて聞かない。
椎名はふと視線を落とす。わずかに躊躇った後、おもむろに左の袖を捲る。そして、その細く白い手首を見せた。
そこに刻まれた、無数の切り傷。まるで無数の細いミミズが這い登っているかのような光景に、驚きを隠しきれなかった。卯月は思わず目を背けてしまいそうになる。
「でもこんなことをしたせいで、両親にそれが見つかってしまって。世間体だけは気にする父でしたから、学校に掛け合う事より先に、わたしをメンタルクリニックに連れて行きました」
こんなこと。
リストカットをそう表現するなんて、精神科医としてあるまじき発言である。
言葉を選ぶ素振りは、もう見えない。椎名は、ただ伝えたいことを喋り続ける。
「丁度ご飯の味も分からなくなっていて、学校にも行けなくなっていたわたしは、半ば強引に連れていかれていました」
椎名はそこで、遠い目をした。まるで何かを思い出すように、懐かしむように言葉を区切る。そして、不意に微笑んだ。
「小細工は、今はやめましょうか」
そう言って引き出しを開ける。中から照明のリモコンを取り出すと、それを操作した。
先ほどまでの薄暗い、橙色の間接照明が淡く照らした室内に、蛍光灯の白い光が差し込まれる。
代わりに間接照明を切った後、椎名は再び席に座りなおした。
「こういう雰囲気の演出が、効果的に働く患者さんもいるんです。でも、卯月さんはそうではなさそうなので。そんなことをするより、きっと本音で話した方が良さそうですし」
わたしもその方が楽です。そういって屈託のない笑みを浮かべる。
「すみません、話の腰を折りました。そう、その先生が本当に不思議な人で」
椎名は口元に手を添え、懐かしむように笑う。
「最初の頃は本当に、ただ事務的に頷くだけの人でした。こっちが何を言っても、それでいいんですよとか、無理に言葉にしなくても大丈夫って。それが中学生のわたしにとっては、腹が立ったんですよね。きっと。わたしは無理に連れて来られた、けど、あなたは仕事なんだからって。……ほんと、生意気な子供に見えたと思います。でも、その時はそれまでに受けたどんな仕打ちよりも腹が立って。実際、わたし、何度かカウンセリング中に飛び出して帰ったこともあるんですよ」
卯月はそんな彼女の過去を、ただ聴いていた。肯定するでも、否定するでもなく。ただ、耳を傾ける。
この人も、かつては逃げる側にいた。それが、自分とどこか重なる気がして、暖かいものが胸に広がる。
「でも、そうやって失礼な態度を取るわたしに対しても、その先生は、次の週には同じように、椅子に座って待ってくれている。前回の事を責めるでもなく、親にこんなことがありました、と報告するでもなく。ただそこにいて、わたしの話をただ聞いてくれる。それがいつからか、わたしにとって、救いのようなものに変わっていきました」
椎名はその先生の話をする時、まるで冗談でも言うように笑いながら話す。
「本当、今考えたらあの先生は名医で、わたしの悩みを打ち崩してくれた——とはごめんなさい、正直思えません。こんなことを言うと怒られちゃうかもしれないけど、結局わたしは転校して、あの先生とも途中で疎遠になりました。いじめも解決しなかったし、心の傷も、中途半端にしか癒えなかった。あの先生に話をもっと聞いて欲しかったし、後になってわたしも今の職を目指すために勉強していると、あの先生のテクニックを知る機会もありました。ああ、あの先生もこうやってわたしの内心を暴いていたのかな、と思うこともありました。……まあそれ以上に、あの先生、どれだけわたしのカウンセリング、適当にやってたんだって怒りの方が大きかったですけどね」
しかしそんな恨み節を言う彼女は、何故か楽しそうだった。まるで、そのいい加減さの奥に、何か手放しがたい物を見つけたかのように。
「でも、結局わたしは、それがきっかけになったんです」
穏やかな表情で、昔を懐かしむように目を細める。
「勉強すればするほど、あの人は何もしていなかった。思い立ったように、自分の話をし始めたかと思えば、カウンセリング中なのに煙草を吸い始めたり——未成年の前ですよ? 時代が時代だったとはいえ、駄目でしょう? 信頼関係の形成なんて知った事かというように、わたしが悲しい話をしていても、頬杖をついて興味なさげに聞いてたりして。クライエント中心療法なんて概念、きっと記憶にすらなかったんじゃないかと思います」
寝癖は酷いし、化粧もしていないような顔で、興味の無い事をわたしが話せば本当につまらなさそうにする。そういって、椎名は笑う。
言葉だけを拾えば、全否定にも、恨み辛みにも思える。だがそう話す椎名の声は、どこか懐かしさと、呆れながらも救われたことによる敬意が含まれていた。
「でもあの人、わたしがどんな悩みを言っても笑わなかったし、否定だけはしなかったんです。——好意的に受け取るならですよ? ……きっと言葉の意味じゃなくて、その温度のようなものを見ていたんだと思います。今思えば……あれは技術とか、技法じゃなかったんでしょうね。ただ、人柄だったんだと思います」