6話
一体いつまで夢の中でいて、いつ現実に戻ってきたのか。卯月にとって、その境界はいつも曖昧だった。
アラームを止め、掛け布団を足元にやる。カーテンの向こうでは朝日が燦々と輝いて、空調の効いた部屋からでも、熱がここまで染みてくるようだった。
だが、全身にびっしょりとかいた寝汗は、その為ばかりではない。卯月は胸に手を当て、今もなお荒く脈打つ心臓を押さえつける。
まるであの家では、呼吸すらあの男に許可を求めなければいけないような。
そんな窮屈さがあった。
夢の中での記憶は、こうして目が覚めた瞬間から砂を手で掬ったかのように、指の間から零れ落ちていく。留めておこうとしても、もう細部を思い出す事が出来ない。何をされたのか。何を言われたのか。海に絵の具を一滴垂らしたように、瞬く間に薄らいで、消えていく。
残っているのは、あの家で自分は見知らぬ少女の身体を乗っ取った意識であり、顔の見えない男から、恐らく毎日のように奴隷のような扱いを受けているという事実。言動に一喜一憂して、その日の機嫌によって自分の命すら脅かされかねないという恐怖。
そして、そんな現状を、もう被害者として享受してはいけないという決意だった。
無意識的に呼吸を止めていたことに気付き、慌てて息を深く吸う。数秒溜めて、ゆっくりと吐き出した。こめかみから汗が一つ流れ、顎を伝って太ももに落ちた。
少女を救う。今の彼女にとって、その記憶を憶えていればそれで良かった。
シャワーを浴び、髪の毛を乾かしながら、卯月は改めて鏡を見る。
そこに見える姿はいつもと変わらない自分の姿。幸い、昨日はこれまでの金曜日と比べてよく眠れた方だった為、目の下の隈も薄くなっている。
疲れが残っていない訳では無いが、化粧で十分に隠せるものだった。
そんな自分に、夢の中で見た少女が重なる。
あの少女は、もっと疲弊した顔をしていた。毎日の苦労に押し潰されそうになり、それを顔に出すまいと必死で平静を装っている。そんな姿。例え男が近くに居なくとも、そうすることが癖になってしまっているのだろう。
無意識の内に固く結んでしまっていた口元に気付き、卯月は思わず鏡から目を逸らした。
あの子は、いったいどれくらいの期間、あの生活を続けているのだろうか。自分は7日に1度、長くても6時間程で目が覚める。それでもこうして精神を病み、カウンセリングを受け、生活にも支障を来たしている。
それを彼女は、恐らく何年も。年齢だって、中学生程度だろう。
抱える苦痛は、計り知れない。
化粧を済ませ、時刻を確認する。朝食を摂る余裕があることを確認して、台所に立った。
フライパンに油を垂らし、コンロで温めている間に冷蔵庫の中を覗き込んだ。卵を手に取り、戸棚にパンがあったかと考えながら、昨日部長の千久間に貰って、飲み切れずに入れておいた水を取り出す。雑菌が湧くから、早く飲んでしまわないと。
冷蔵庫を閉め、それらをキッチンに置いた後、背伸びをして上の戸棚に手をかける。食パンが袋に入っていたので、それを指先に引っ搔けて、そのまま落とす。
しかし受け止めようとしたそれは、たまたま卯月の手を離れてしまう。
ポスン、と軽い音を立てて、床に落ちる。ただそれだけのことだった。
「ご、ごめんなさい!」
卯月は慌ててそれを拾い上げると、咄嗟に部屋中を見渡した。食パンを胸の前で抱え、しゃがみ込んだまま、とてつもない恐怖に胸が張り裂けそうになった。呼吸が一瞬にして乱れ、吸っているのか吐いているのかさえ分からなくなる。
そのまま少しの間、次に起きる事を危惧して動けずにいたが、やがて、自分はどうして謝ったのか、何に怯えているのかという疑問へと変わる。何に対して? 誰に対して?
——あの男だ。
物を落とした時の、あの冷たい視線。まるでこちらを軽蔑するように見下す、あの目。
夢の中で卯月が体験した、自分の出す音や行為が全て、あの男にとっては侮辱だと言わんばかりに怒鳴られ、殴られた記憶。
彼女は静かに顔を伏せ、服の胸元を掴んだ。手の熱が身体に伝わるその感覚が、彼女にとっては現実に自分の意識を留めておくための錨だった。
あの男はいない。現実だ。怒鳴られたくない。殴られたくない。大丈夫、大丈夫、大丈夫。
気持ちが落ち着くまでに、何秒もの時間が必要だった。
それでも、少しづつ落ち着きを取り戻した卯月は、やがてゆっくりと立ち上がると、恐る恐る、もう一度部屋の中を見渡した。リビング、キッチン、いつも使っているソファ、机、煙草、灰皿、携帯。
ここは自分の家で、誰もいない。恐ろしい目に遭うこともない。安心できる空間だ。そう自分に言い聞かせ、ゆっくりと食パンをシンクに置く。
卵をフライパンに割り入れ、油の匂いが漂い始める。卯月はテーブルから煙草と灰皿を持ってきて、卵が焼けるまでの間に吸いだした。白い煙が薄く開いた唇から漏れ、換気扇へと吸い込まれていく。
こんな状態で、あの子を救うことが出来るのだろうか。そんな不安が胸を突く。
わたしはきっと、あの子より弱い。
わたしなら、あんな生活耐えられない。
そんな考えが、つい先ほどまでの決意を、早くも突き崩そうとしていた。
フライパンから焼けた卵を、パンの上に移す。トーストにする余裕も最早無く、焼いてもそのままでも、栄養価に変わりはないだろうとかじりつく。
朝食を楽しむ余裕もなく、ただ唾液の代わりに水を含み、パンを喉に流し込んでいく。味わうことなど出来ず、心の中は不安で溢れんばかりだった。
眉を潜め、辛そうに一人で朝食を済ませる背中は、彼女を救いたいという気持ちと、自分にそれが出来るのかという不安が綯交ぜになって、小さく震えていた。
洗面所で歯を磨いた後も、鞄に持ち物を詰め込んでいる間も、どこか肩が重く、上の空だった。
自分でも気付かぬ内に、何度も溜息を吐く。助けたいという気持ちばかりが先行していたが、よくよく考えてみれば、どうやって助けたらいいのか、それも分からない。あの子が何者なのか、自分の記憶の中に残っている存在なのか、或いは今もどこかで苦しい生活を送っているのか。何一つ分からない。せめて今どうしているのか、それだけでも知ることが出来たら。
「何とかしてあげたいな……」
思わず声に出ていた。無計画に決意だけを固めた自分が、愚かに思える。喉が震え、思わず涙が込み上げそうになるのを必死で抑えた。
わたしの方がずっと大人で、ずっと自由で、好きに逃げられるのに。夜が来るだけで怯えて、夢を見ただけでパニックになる。どれだけ情けないんだろう。椎名先生に話を聞いてもらって、常に誰かの助けを受けているのに。
卯月はそんな自分が、とても惨めに思えてならなかった。
もう、動けなくなってしまいそうな気がして、鞄を肩にかけた。忘れ物がないか振り返る。殺風景な部屋を見渡して、自分がなりたかったのは、こんな大人じゃないと思ってしまう。
あんな目に遭っている子供一人、すぐに助けられない大人にはなりたくなかった。
今度こそ涙が足元に落ち、ハンカチで軽く目を抑える。向こうで化粧を直そう。そう思いながら、逃げる様に玄関の扉を開けた。
道中の記憶はない。気が付くと、駐車場に車を停めていた。
助手席に置いた鞄を持ち、重い腰を上げる。冷房の効いていた車内とは違い、青天井の駐車場は夏の日差しを、容赦無く注ぎ込む。まだ夏の始まりだというのに異様な暑さで、通行人は日傘を差していた。
卯月は鞄を肩にかけ、車の扉を閉める。いつもこのクリニックに入るとき、若干の恥ずかしさを憶える。ああ、あの人は精神を病んでいるんだ。病気なんだ。そう思われている気がしてならない。実際、他人がそれほど自分の事を見ているわけがないだろうというのは分かっているつもりだが、それでもふとした時に思ってしまう事がある。
こんな所に通わないといけない程、わたしは普通とは違うんだ。
重い肩へ鞄をかけ、卯月は何かから隠れるようにして、足早に階段を昇った。
「すみません、予約していた卯月です」
保険証を出しながら受付に伝える。言った後で、ふと顔を見ると、受付の女性が初対面だと気付く。
どうやら新しく入ったばかりらしい。奥で座って別のことをしている見慣れた受付の女性に教わるようにして、ぎこちない動きで彼女の保険証を持ち、パソコンの画面を見つめる。
待合室には誰もいない。彼女も急ぐ訳ではないので、ゆっくりとやってくれたらいい。そう思って、待っていると。
「あの、卯月様、でお間違えございませんか?」
その新人らしき彼女が、恐る恐るといった様子で訪ねてきた。
名前を聞き取れなかったのだろうか。そう思い、改めて伝える。
「はい、卯月沙耶です。卯の花の卯に、三日月の月で……」
言い終わらない内に、奥の見慣れた受付の女性、安井と書かれた名札を付けた女性が駆け寄ってくる。
新人らしき彼女、原は、それに気付かず眉を潜めた。
「あの、保険証には須々木——」
「すみません卯月さん、お待たせしております。もう少しお待ちいただいてよろしいですか? 先生はただいま、席を外しておりまして。もうすぐ戻ると思いますので」
手で制すようにして、安井が言葉を被せる。その何か慌ただしい対応に、卯月は少し呆気にとられたが、しかし愛想を浮かべた。
「はい、わかりました。待たせていただきますね」
彼女自身、職場で新人の世話をすることは良くある。きっと他の患者と間違えたのだろう。
予約が取れていないかと少し焦ったらしく、自分でも驚くほど心臓が跳ねるような感覚になったが、その程度、何のことはない。
待合室の椅子に腰を下ろしながら、でもひょっとしたら精神的に不安定な方は、そういったことがトリガーとなって怒ったりするのだろうか。そんなことを考えて、携帯をポケットから取り出す。
カーテン越しに待合室を照らす光が暖かい。かなり古いものだろうか。壁に掛けられた振り子時計が、のんびりと時を刻んでいる。
それらを感じながら、画面に指を滑らせていると、ふと最近の検索履歴が目に入った。
カウンセラーの手法や、テクニック、心理的効果。そんな言葉が並んでいる。
椎名の言葉や表情が、時折、不思議な位にすとんと胸に落ちることがある。それが何故なのか以前から気にはなっていた。しかしこの間、夢の中で耳を落とされた後だっただろうか。良くない事と知りながら、つい調べてしまった。
ミラーリングやリフレクション、傾聴といった用語。そして——自己開示。
そういう技法が、ちゃんとあるのだと知ってしまった。
この間、椎名先生が話してくれた、前日に自分も飲み過ぎたという何気ない話——あれも、考えられた上での自己開示だったのだろうか。
そんなことを思って、一瞬。背中がひやりとした。
嘘を吐いているとは思わない。ただ、もし彼女がわたしの反応を導くために、わたしの内心を暴くためにそれを選んだのだとしたら。そう思うと、何とも言えない気持ちにさせられる。
わたしは、ただ話を聞いてもらっていたのか。
それとも、すべて椎名先生の計算された応答の中で、自分という存在を少しずつ紐解かれていたのか。
調べればこうなると、どこかで分かっていたはずなのに。それでも調べたのは、他でもないわたし自身なのだが。
程なくして、先ほどの原と書かれた名札を付けた、新人の受付スタッフが呼びに来た。
「すみません、卯月様。お待たせしました。こちらへどうぞ」
そう言われて、卯月は返事をしながら荷物を持ち、立ち上がる。扉を開けて中に入ると、椎名はこちらを見て優しく目を細めた。
「こんにちは。先週と比べて、今日は少し穏やかな顔になっていますね」
彼女はそう言って、椅子を手で示した。
「良ければどうぞ」
この、あくまで強要せず、良ければと遠回しに言う言葉にも、患者の扱いとして良いとされている効果があるのだろうか。そんなことを考えながら、卯月はカバンを置いて椅子に座る。
彼女を敵だとは思わない。しかし、今の卯月にはまるでマジックの種が分かってしまったかのような、ある種冷めた視点が備わってしまっていた。
以前なら心を動かされ、気持ちが楽になったかもしれない言葉も、今はどこか、人工物の様な冷たさを感じる。
そして何より恐ろしいのは。
自分の心を誰かに見られる。それは卯月にとって、一時的にであっても、制御を失うように思えてならなかった。
自分の手を離れて、誰かによって、繊細なものが汚されていく感覚。
「卯月さん?」
椎名の呼びかけに、卯月は慌てて顔を上げる。
「大丈夫ですか? お気持ちが優れないようでしたら……」
そういってこちらの顔を覗き込む椎名に、卯月は肩を強張らせたまま、慎重に言葉を選ぶ。
内心を悟られないように。
見せたくないものを、見せないように。
「いえ、大丈夫です。少し考え事をしていました」
以前まで、カウンセリングを受けているときの彼女は、仕事場とはまるで別人の様だった。自分を強く見せることもせず、ただ悪夢に悩まされ、それを助けてもらうためにここへ来る。そんな存在だった。
だが今は、その弱みすら見せるわけにはいかない。心のどこかでそんな防衛機構が働いたかのように、椎名の前ですら仮面を仮面を被ってしまっていた。
それが椎名に伝わらない筈もない。
彼女はカウンセラーとして、心の中で、どんな心境の変化があったのか、どういうアプローチが正しいのか。無数の手段を頭の中で講じる。
何か変化があったはずなのだ。
何か。