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Sangría  作者: なすみ
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5話

 夕方。

 キッチンで味噌汁の味を確かめていると、不意に玄関の扉が開く気配がした。

 その瞬間、卯月の肩がびくりと跳ねる。小皿を持った手が震え、呼吸が浅く、不規則に乱れ始める。

 慌てて火を止めて、鍋に蓋をする。スリッパの音を響かせながら、足早に玄関へ向かった。

 リビングと廊下とを隔てる扉のすりガラス越しに、男の影が見える。その影が濃くなったかと思うと、ドアノブが音を立て、こちらへ開く。慌てて場所を開けると、背の高い男が入ってきた。

 見上げる程の体格。すぐ近くに立ってしまうと、肩までしか届かない自分の視線。あまりの身長差に一瞬、意識が遠のくような感覚を憶えた。

 そしてようやく、自分が今、夢の中に。

 あの男の家にいるのだと気が付いた。

「お、おかえりなさい」

 こちらには目もくれない男に、卯月は努めて明るく、声を絞り出す。そうしなければならない気がして。

 今日は機嫌が良くないのかも知れない。せめて自分だけでも明るく振る舞わないと。という考えが浮かんですぐ、何故そんなことを自分が思うのか、という違和感に変容する。

 夢の中で、卯月は度々こういった感覚に襲われる。まるで自分の知らない記憶があって、無意識の内にそれを気にしたり、知らないはずの事柄を何故か記憶していたり。

 まるでこの身体に、自分以外の誰かがいるような、そんな感覚——それこそが、自分以外の誰かこそが、この身体の持ち主ではないか。そんな疑惑と、恐らく借り物の記憶に対しての気持ち悪さを抱えていた。

「あの、鞄、お預かりします」

「ああ」

 男は小さく呟くと、手に持っていたカバンを差し出す。卯月は慌ててそれを受け取ると、自分の胸の前で抱えた。今こうして鞄を預かろうとした行為すら、卯月自身がこの男の機嫌を損ねないようにという意志から来たのか。

 それともこの身体の持ち主——と断定するが、彼女の普段からしている行為の記憶なのか。

 卯月は違和感に眉を潜めながら、男の後ろ姿を眺める。相変わらず顔だけが認識出来ないが、今日は機嫌が悪い訳ではなさそうだった。

 男はネクタイを緩めながら冷蔵庫へ向かい、ビールを取り出す。

 太い喉が動き、酒を喉へ流し込みながらリビングの方へ戻ってくると、ソファへ向かった。

 その足が卯月の前を通り過ぎる時、目だけがこちらを向いた——様な気がした。

「……何だ」

 じろじろと見ている事に気づいたらしく、男は不快そうにこちらを見る。

 卯月はその一言で、膝から力が抜けた。まるで見えない手で喉を締められたように、呼吸が止まる。唇を震わせながら、必死で眩暈に耐えた。

「い、いえ、何でもないです」

 また殴られる。怒鳴られる。そんな思いが、頭の奥から濁流の様に噴き出す。思い出すのは、これまでこの男にされた数々の仕打ち。

 その言葉に永遠とも思える一瞬。男は怪訝そうな態度を取ったが、すぐに卯月の前から離れた。

「……まあいい」

 興味が失せたのだろうか。こちらに背を向けて離れる男を見送りながら、ふと気づくと、手にはじっとりと汗が滲んでいた。

 鞄をいつもの棚の上へ置き、まだ緊張が収まらないまま、台所へと向かう。

 命拾いした。そんな感覚が一番正しかった。

「すみません、お待たせしました」

 味噌汁、白米、鮭の切り身におから、豆腐に沢庵、それらを並べ終わったところで、彼女は恐る恐る、男を呼んだ。

 その声に、男は重そうにソファから腰を上げた。ゆっくりとした足取りで食卓へ近付き、椅子を引いて座った。

 口に合うだろうか。

 以前、一口食べて気に食わなかったのか、皿ごと料理を全て床に落とされたことを思い出す。その記憶が以前見た夢なのか、この身体の記憶なのかは分からない。ただ、一生懸命作った料理をそんな風に、粗末にされたくはなかった。

 静かな部屋の中、男が付けたテレビから、バラエティ番組の音だけがやけにうるさく響く。

 静かに味噌汁を持ち上げた男は、ゆっくりと口に付ける。

 一口。二口。僅かに音を立てて啜るその様子を、卯月はキッチンで洗い物をしながら、緊張の面持ちで眺めていた。

 次に鮭の身を割る。焼き加減は問題ないと思うが、いざ男がそれを口に運ぶ段になって、不安が押し寄せた。

 また視線を向けすぎて、男に不審がられないように、卯月は視点を時々、手元のスポンジとフライパンから上げて、不安そうに男の様子を見た。

「ふん」

 男が小さく唸る。その声に、卯月の手が一瞬で静止する。慌てて目を伏せ、怒られないようにと心の中で何度も唱えた。胸が苦しい。息が出来ない。無意識に濡れた手で自分の胸元を掴む。

 味付けが悪かっただろうか。美味しく作れなかっただろうか。不安が一気に押し寄せてきて、命に刃がかかっている様な心持ちの中、次の行動を待った。

 男はゆっくりと箸置きを使い、椅子を引いて立ち上がる。その音に、卯月は一層、服を掴む手に力を込めた。喉が苦しい。胸が痛い。全身が自分の物で無いかの様に震え、次にどうすべきか、あれこれと考えても答えが出て来ない。

 静かな足音が、顔を上げずとも自分と男の距離が近づいていることを知らせる。

 きっと殴られる。逃げ場もない。恐怖で何も考えられなかった。

「おい」

 低い声が、耳元に刺さる。卯月は咄嗟にすみませんと謝った。何が悪いかは分からない。ただ、そういう以外に選択肢が無いように思えた。

「水。使わないなら止めろ。勿体ない」

 そういって後ろを通った男は、冷蔵庫の扉へ手をかける。どうやら次のビールを取りに来ただけらしい。卯月はまだ警戒したまま、もう一度謝りながら水道を止めた。

 それから、思い立って男に言った。

「あ、あの、わたしに言ってもらえれば取りますから……」

 損ねてしまった機嫌を少しでも直すため、卯月は男に言う。

「言ってください、ね」

 上手に笑えた自信は無い。頬が引き攣っていたかもしれない。声は震えていたし、胸を掴む手もそのままだった。

 男は、そんな卯月の言葉に興味なさげに返事をすると、再び後ろを通って席に戻ろうとする。

 一先ずは、殴られずに済んだ。

 そう思って、僅かに肩の力を抜いた瞬間。

 男を避けるため、キッチンから右に逸れていた卯月の肩越しに、男が手を伸ばす。

 その太い腕が視界の端から伸びて来た時、彼女は咄嗟に喉の奥で悲鳴を上げた。

 反射的に身を屈める。腕から逃げようとし、足がもつれ、転げそうになる。だが男は、そんな卯月には目もくれず、彼女の離れた先にあった食卓塩を手に取り、無言で席に戻っていった。

 心臓の音が外に漏れてしまいそうな程、激しく脈打つ。シンクの冷たさが手を伝わって、背中を汗が一筋、伝っていく。

 恐怖で震える膝を何とか立たせ、卯月がキッチンに戻る頃、男は鮭に少し塩を振ってから、再び食事を始めていた。

 殴られるかと思った。

 そばを離れたことで、ようやく気持ちが落ち着く。緊張で舌の奥が渇き、思わず唾を飲む。

 大丈夫。大丈夫。

 心の中で何度も唱え、震える手で再び水を出す。早く洗い物を済ませなければ。まだまだ自分の仕事は山の様に残っているのだから。

 洗い物を終えた後、卯月は次に洗面所へと向かった。洗濯機のスイッチを入れ、洗剤を投入する。そのまま浴室へと向かい、風呂の栓をしてから給湯ボタンを押す。そこでふと、気になることが一つあった。

 洗面所にある、鏡。これまでどうして気付かなかったのか。そこに映る自分を見てしまえば、今こうして夢の中で動かしている身体が誰の物か、判明すると考えた。

 湯気を立ち込めながらゆっくりと浴槽を満たしていく湯を見送り、卯月は後ろを振り返る。動き始めた洗濯機を通り過ぎ、鏡の前へと立った。

 そこに映っていたのは、予想通りというべきか。

 やはり、自分ではなかった。

 無論、中学生であった頃の自分。その容姿を完全に記憶している訳では無い。しかし、顔立ちなどは似ても似つかない。そんな印象を受けた。

 幼さを残す、大きな目。血色の悪さすら思わせる程の白い肌。口紅では表現しえない、薄い桜色の唇。そして、小さな両耳も、変わらずそこにあった。

 その顔は、どれほど見たとしてもどこか自分と似ても似つかず、あまつさえ記憶を探ったとしても、このような中学生との面識もない。中学生当時の友人でならあるいは、と考えた。だがそもそも当時からあまり人付き合いの得意な方ではなかった。どちらかと言えば、教師と話した記憶ばかり存在している。

 次に、卯月は視線を下へ向けた。

 鏡に映った少女と同じ制服。中学校のものだろう。カッターシャツと、胸元には暗い赤色のリボン。紺色のスカート。そのどれもが皺だらけで、お世辞にも清潔な印象は与えない。洗濯はしているのだろうが、アイロンを当てていないのだろうか。

 そして袖を捲り上げてみると、そこにはやはり、痣や瘡蓋になった傷跡が、あちこちに存在していた。卯月はスカートに手をかける。

 足も同様、靴下と長いスカートで隠されてはいたが、痛々しい紫色がそこかしこに出来ている。

 思わず、顔を顰めた。

 痛みに、ではない。こんな風に自分を、そしてこの少女を虐げているあの男が、許せなかった。

 見ず知らずの少女。しかし、卯月も7年余り、その一部を追体験してきた。あの男を前にした時に感じる恐怖は、自分だけの物とは思えない。きっと、この身体の持ち主である少女のものも、きっとそこには混ざっていると直感した。

 どうやって助けたらいいのか、それをすることによって悪夢が改善するのか、或いは更に悪くなるのか。卯月には何も分からない。

 それでも——助けたい。と思ってしまった。

 どこかで、これは自分の夢だからと、諦めていた節があった。わたし一人が我慢すれば、別に誰が困る訳でも無いと。わたしがおかしいだけだから、わたしの問題だからと。でも違った。こんな風に年端もいかない子が震えながら家事をして、一緒に暮らしているであろう男の動きに一喜一憂して、それでも歯を食い縛って生きてきたこの子を、もう放っておけなかった。

 この子は私自身だった。

 悪夢に対して怯え、それでも耐えてきたわたしの様に、あるいはそれ以上に、この子は辛い現実に怯え、耐えてきたのだ。

 わたしがどうにか出来るなら。

 卯月はそっと、鏡の前で自分の手を握った。恐怖に震えていた指先が、少しだけ力を取り戻す。

 もう、ただの傍観者、被害者でいるつもりはなかった。

 

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