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Sangría  作者: なすみ
4/11

4話

 卯月にとっては当たり前の出来事だが、土曜日の晩は悪夢に魘されることはなかった。むしろ、金曜日の睡眠時間が足りていなかった上、カウンセリングにも足を運んだためか、嫌に疲弊して、倒れる様に眠った。

 上体を起こしてベッドに座ったまま、やはり金曜日の夜以外はあの夢を見ない。その事への違和感を覚えていた。

 なぜ決まって金曜日なのか。

 どうしていつも、同じ場所なのか。

 顔の見えない男は誰なのか。

 土曜日の晩を経て、日曜日にこういう事を考えるのが、卯月にとってはもはや習慣化していた。しかしいくら考えても結果は出ず、新しい発見も無い。ひとつだけあるとするならば、夢の中に出てきている存在が自分ではないという疑念。しかしそれも、あくまで夢の話。不条理が常である。結局は卯月の脳内で作り出しただけの場所に過ぎないかもしれないと思うと、また振り出しに戻ったような気がした。いや、振り出しから動けてすらいないのかもしれない。

「……はあ」

 思わず大きなため息が漏れる。こんな生活は、いつまでも続けていたい物ではない。週末の度に魘されて、身体のあちこちに痣や切り傷を作って。実際、この夢のせいでこれまでに何度か恋人とも別れている。曰く、金曜日の晩という、お互いに一番時間を確保しやすい日に限って、卯月の元気が無く、家に泊まったり、どこかホテルで一夜を過ごす事もしてくれないというのが、不信感を抱かせてしまうらしい。

 しかし卯月自身、こんな症状を誰にどう説明すべきか、見当もつかなかった。それに、自分のこんなおかしな一面を見せることに対して、恐怖と羞恥を感じていた。

 自分が魘されている姿。あんなものを見せて、冷めた目を向けられるのはもう嫌だった。

 嫌な事を思い出した。卯月は誤魔化す様にリビングへ行き、煙草に火を付ける。それで嫌なことを忘れられるわけではないが、何かが有耶無耶になる気がして。

 深く煙を吸い込んで、ゆっくりと吐き出す。

 悪夢を見始めたのは煙草を吸い始めた時からだった。

 20歳になって間もなく、以前別れた恋人の影響で煙草を始めた。かつてよく目にしていたそれが、コンビニの棚に並べられているのを見て、ふと買ってしまった。

 当然美味しさなど微塵も感じられず、おまけにその日の晩、金曜日に嫌な夢まで見てしまった。煙草のせいで嫌な記憶が呼び起こされたと考えて、すぐに吸わなくなった。だがそれでも、悪夢は変わらずに週末になると訪れた。それでも一年近くは煙草を吸わずにいたが、今ではストレスを少しの間でも誤魔化すため、再び吸い始めている。

 偶然が重なっただけなのだろう。——未だにあの失恋を引きずっているせいだと、自分でも分かっていた。

 そういえば初めの頃は、今程悲惨な内容でもなかった様に思う。居心地の悪い家で、思えばその時から顔の見えない男に嫌味を言われたり、邪魔者の様な扱いを受けたり。その程度の悪夢で、初めの内は特に何も思わなかった。

 だがその内容が週を跨ぐ毎に攻撃的なものへと変わっていった。今では、夢の中で暴力を振るわれない日など殆ど無い。あの夢に潜っても、常にどこかを怪我していたり、青痣が出来ていたり。暴れてしまうから現実でも似たような所に痣が出来て、外を半袖で歩く事など出来なくなってしまった。

 頼る相手も居ない。両親とは疎遠で、今は何をしているか、どこにいるかも知らない。仲が悪い訳では無い、というより、卯月は両親の事を憶えていない。きっと両親も、そんな卯月に対して同じように思っていると考えてしまい、余計に打ち明ける事も出来ない。職場でもプライベートの悩みを打ち明けられる程の友人がいるわけでもなく、恋人はすぐに離れていく。学生時代からの友人なども当然、いるはずがなかった。

「卯月くん」

 デスクに座って卯月が仕事をしていると、いつの間にか後ろへ来ていた部長が、パソコンを覗き込むようにして呼びかけて来た。

 しかし卯月は、それに気付かず仕事を続ける。

「卯月くん?」

 もう一度、部長がやや遠慮気味に声をかけたところで、卯月はぴたりと手を止め、慌てて振り返る。

「あ、部長。すみません」

「いや、いいんだよ」

 そういって穏やかにほほ笑む。白髪交じりの短髪を軽くワックスで固め、いつもアイロンのかかっている綺麗なスーツを纏った千久間は、申し訳なさそうに続けた。

「ごめんね、仕事中。……ちょっと助けて欲しくて……」

 いつも部下とばかり会話——といっても仕事に関する指示やフィードバックだが——をしている卯月にとって、自分の事を名前で呼ぶ相手は部長以外にいない。部下は自分の事を副部長と呼称するためである。後は名前で呼ぶといえば、専務と社長くらいだろうか。会う機会があれば、だが。

 卯月は入力中の情報を保存し、デスク周りを手早く纏める。常にその時使うものだけが出ていないと落ち着かない性格の為、彼女のデスクは整理されている。

 を通り越して、使われている気配すら感じられない。

「お待たせしました、部長。何かトラブルですか?」

 助けてくれ。と言われたことで一気に緊張の糸を張り詰めさせた卯月に、しかし千久間は慌てて手を振る。

「いやいや、違うんだ。ただ、ちょっとパソコンの使い方を教えて欲しくて……」

 その言葉に卯月は一瞬固まり、驚いた様に目を見開く。

 そして呆れたように言った。

「部長、またですか?」

 その言葉に、パソコンのタイピング音だけが鳴り響いていた部署へ、一瞬にして緊張が走る。確かに部長がパソコンを使えないというのは、部署内の共通認識であった。しかしそれをこうもはっきりと言うのは、卯月を置いて他に居ないからである。

 部下には優しい反面、上司には思ったことを遠慮しない。というのが、部下から見た卯月の短所であった。

 部長は、そんな卯月に対して、しかし怒るでもなく、照れたように笑う。

「いやあ、申し訳ない。前に教えてもらった内容なんだけど……」

 そういって部長のデスクへ移動した卯月は、パソコンの画面を見るなりすぐに椅子を引いて、遠慮無く千久間の席に着いた。

 傍らで彼は顎に手を当て、興味深そうに画面を覗き込んでいる。

「総務から回ってきた書類なんだけど。来季のCSR活動について、何か意見はあるかって聞かれたんだよね。ただ、地方案件らしくて……。まあ、とりあえず印刷したいんだけど出来なくて」

 説明が終わる前には、卯月は既に問題の所在に気付いていた。

 送信先のプリンターが、下の階にある事務室側のものへ切り替わっている。メーカーが同じものを使っていて、気付きにくいトラブルだったが、対処は簡単だ。

「事務室の方にデータが飛んでいますね。ただ、あのプリンターはもう使われていません。紙は無駄になっていないかと思います」

 その時、部署の中央に置かれているプリンターが音を立てて、ゆっくりと印刷された資料を吐き出し始めた。それを見た千久間は、感嘆の声を漏らす。

「凄いね、卯月くん。助かるよほんと」

 まるで大きな案件を片付けたかのような感激ぶりに、卯月は悪い気はしなかった。しかしすぐに表情を平静に保つ。

「では、資料を取ってきます」

 そういって立ち上がり、印刷機へ向かう。プリンターから出力された十数枚の用紙を手に取り、念のために内容を確認しながらデスクへ戻った。

 しかし、何気なくページを捲っていた指が、不意に止まる。

 目の前に映っていたのは、郊外に建つ古びた中学校の写真だった。満開の桜を背に、生徒たちが楽しそうに並んでいる。やや傾斜のある坂道、雑木林と白い平屋の校舎、そしてその右奥に小さなグラウンドが見える。

 ——どこかで、見たことがある。

 指先がぴたりと静止し、数秒、写真から目を離せなくなる。

「ん、どうかした? ミスプリでも混ざってた?」

 椅子に戻った千久間が不思議そうに声をかける。その声で卯月は我に返った。小さく首を振りながら、写真が印刷されたページをそっと重ね直した。

「いえ。問題ありません。こちらが、総務部からの資料ですね」

 何気ない振りをして、デスクの端で角を揃えると、千久間に渡した。彼も少しの間不思議そうにしていたが、やがて納得したように口を開く。

 卯月が写真に既視感を覚えたその姿が、この案件に引っ掛かりを覚えたように見えたらしい。

「やっぱり地域との繋がりとはいっても、流石にここからじゃちょっと遠いし……。電設部の支部があるにはあるけど」

 その言葉に、卯月は慌てて自分の意見を述べながら、しかし頭の中はあの校舎で頭が埋め尽くされていた。

 どこかで見た事のある校舎。坂道も、雑木林も、薄っすらと、しかし確実に憶えている。しかし、あの辺りには縁も所縁も無い。それが余計に、記憶の片隅を刺激されるような気がして、妙な居心地の悪さを感じさせた。

 もし仮に自分の母校だとしたら、それを憶えていないわけもないし。

 どこで見たのだろう。

 卯月は嫌な胸騒ぎを感じた。

「では、わたしは戻ります」

 しかし、その違和感もあくまで一過性の物。自分のデスクに戻る頃には、既に自分の抱えている仕事へ追われ始めていた。

 それから午後の休憩時間になり、周囲の部下がぞろぞろと部屋を後にする中。

 卯月はカバンから煙草と化粧ポーチを取り出し、トイレへ向かった。

 中から携帯用のハンドソープを取り出し、念入りに手を洗う。そして、その足で喫煙所へ向かった。

「お疲れ様です」

 スライドドアを開けて中へ入ると、疲れた様子で伸びをしている千久間と再び会う。彼は大きなあくびをした後、涙をスーツの袖で拭きながらこちらを見た。

「さっきはありがとうね。やっぱりおじさんになると、パソコンも出来なくなっちゃうんだなあ」

 そういって恥ずかしそうに笑う千久間に、卯月は少し考えてから口を開く。

「……いえ、別に部長は以前からこうでしたよ?」

 その言葉に、千久間は大きな肩を揺らし、豪快に笑う。

「言われちゃったなぁ。そうだ、さっきのお礼に飲み物でも奢るよ。何がいい?」

 そういって外の自動販売機を指す。卯月は丁寧に辞退したが、それでも勧めてくるので、これ以上断るのも失礼と判断した。

「では、頂きます」

「もちろん、遠慮なんかしなくていいよ。今後も、またトラブルが起きたら助けてもらわないといけないからね」

「だったらそのトラブルを無くして下さい」

 左上のミネラルウォーターを選びながら、卯月は淡々と返す。対照的に千久間は、楽しそうに笑った。

 喫煙所に戻って、卯月は改めて煙草を吸い始める。千久間も腕時計をちらりと見て、再びポケットから煙草を取り出した。

「そういえば」

 千久間は以前から気になっていたことを尋ねる良い機会だと思い、口を開く。

「副部長に押し上げたぼくがこんなことを言うのも変だけど……大変じゃない? なかなかそういうのって、忙しくて聞けていなかったけどさ。……その、大丈夫?」

 もうすぐ五十の大台に乗る千久間にとって、卯月は丁度自分の娘と同じ位の年齢である。つい彼女のスキルを評価するあまり、経験を積ませてあげたいという思いから仕事を多く振ってしまうが、それが彼女の負担になっていないか。そういう心配からつい口を突いて出た言葉だった。

 言った後で、娘にこういう事を言ったら確実に煙たがられると思い、反省する。

 卯月はその言葉を受け、問題ありませんと短く返した為、千久間は苦笑いを浮かべて煙を吐く。

 余計なお世話だったかもしれない。そう思う彼の胸中とは裏腹に、彼女もまた、思うところがあった。

 この部長はパソコンも満足に触れないし、未だに紙媒体に資料を印刷して、そこに手書きでメモを残す。その方が彼や、部下とはいえわたしより年上の方たちにとっては分かりやすいのかもしれない。だがわたしや同じくらいの年代にしてみれば、非効率的にしか見えない。それに紛失のリスクを抱えた方法は恐ろしくて真似出来ない。

 しかし、そんな古臭い部長だがこうやって常に部下の事を気に掛ける性分で、いつも自分が一番多くの仕事を日々こなしていることを、副部長である卯月は誰よりも知っている。それに家庭を持ち、自分より少し年下ではあるが娘もいるという。

 自分にもこんな父親がいたら、悩み事もすぐに相談できるのだろうか。ふとそんなことを考えた。

 金曜日の度に、悪夢に魘されるのが怖いと。

 助けて欲しいと。

 カウンセラーの椎名に不満がある訳では無い。しかし、彼女に話をしているのは、そういった身近な存在、頼れる存在がいないからで。

 ——いや、考えても仕方がない。

 卯月は煙草を灰皿に押し付け、買ってもらった水を口に含んだ。

「まあ、明日から休みだからさ。そんなに気負わず、頑張ってね」

 最後にそう締めくくって、千久間は喫煙所を後にする。その言葉にどきりとして、慌てて携帯のカレンダーを開く。

 ついこの間、月曜日が始まったと思っていたのに。

 気がつけばもう、金曜日の夜が背後に立っていた。

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