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Sangría  作者: なすみ
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3話

「どうですか、何か心当たりがありますか?」

 穏やかに、椎名は目を細める。

 卯月はその言葉を受け、再び顔を俯かせ、記憶を探ろうとする。だが、いくら頭の中を探し回ったところで、それらしき記憶や、そのきっかけになるような出来事すら思い出せない。

 あんなに強烈な恐怖体験をしていたなら、そもそも忘れるはずがないのに。

 あるいは。

「……ショックで思い出さないように、記憶に蓋をしてしまう。なんてことがありえるんでしょうか」

 昔、本でそんな設定を見たことがある。ふとした思い付きで、特に深く考えることもせず、卯月は思わず問いかけた。

 しかし、心のどこかではそんな可能性を考えている自分に、恥じらいも感じていた。これはあくまで本の中で読んだ、設定の一つに過ぎない。あくまでフィクション。現実にそんな突拍子もないことが、それも自分に起きていると考えるなんて。

 顔が熱を持つのを感じ、慌てて目を逸らす。しかし椎名は、それも可能性の一つと捉えた。

「そうですね、無いとは言えません。人の記憶とは曖昧です。思い込みや勘違いも、いわば自分の記憶を無意識の内に書き換え、補完している様なものですからね」

 人は自らを守るため、記憶を無意識に歪めることがある。そう言った椎名の真摯な姿勢に、卯月はどこか救われた気がした。

 金曜日の度に同じ悪夢を見て、それが原因で眠れなくて。カウンセリングや心療内科、服薬治療もしていた事がある彼女にとって、自分自身を信じる、自分は正常だと認識する事はとても難しい。何度も、気のせいだ、そんな気がしているだけだと思い込み、ただの下らない妄想だと、自らを責めなかった日など無い。

 そんな卯月にとって、椎名の言葉は強く響いた。

「……やっぱり」

 自分の手を強く握り締めた。震えを抑える様に。

「思い出した方がいいんでしょうか」

 忘れている事。忘れようとしたこと。思い出したくない事。何が埋まっているか分からない記憶の土を掻き出し、それを暴くべきなのか。

 椎名はすぐには答えない。悩んだ後、慎重に口を開く。

「思い出すことが、卯月さんにとって本当に必要なら、自然とそうなるはずです。無理に思い出そうとする必要はないと考えます」

 ただ、夢はそれが近づいている証拠かもしれないと、椎名は締めくくった。

 診療所を出て駐車場に向かいながら、卯月は自動販売機で買ったペットボトルの水へ、静かに口を付ける。

 緊張からか、知らない内に喉は渇き切っていた。夢中で半分ほどを飲み、それから息を整える。無意識の内に吸入薬へ、カバンの上から手を触れた。

 土曜日の午後。太陽が燦燦と照り付け、世間は緩やかな夏の休日を過ごしているのに、わたしの頭の中だけが異常だ。

 運転席に座って、エンジンをかける。しかしすぐに車を走らせる気にもなれず、蒸し暑い車内を冷やしていくのを、少しの間待つことにした。

 ——でも、夢の中にいる彼女は、わたしじゃない気がする。

 それはカウンセリングの終わり際、椎名には言えないまま、しかしずっと考えていた一つの可能性だった。本来、こういった考えなどはカウンセラーに全て伝えるべきなのだろうが、あくまで夢の中での話。それも根拠だって薄い、あくまで想像の事。卯月は結局、最後までそれを言うことはなかったが、しかしずっと気になっている事でもあった。

 もう一度、気持ちを落ち着ける様にペットボトルへ手をかけ、水を含む。

 それは例えば目線の高さ。扉を開けるため、ドアノブに手をかけた時、気付いたことがあった。彼女もそれほど人と比べて身長が高いわけではない。精々平均か、あるいはそれよりも少し小さい程だ。だが、夢で男から逃げるため、扉に走った時のことを思い出す。

 ドアノブはもう少し低い位置にあった気がする。当然、家の作りによって多少は高さも変わるだろうが、しかしそれは無視出来ない、気のせいでは済ませられない違和感だった。

 それに、夢の中での自分の声。あんな事をされている最中や、起きてからはしばらくは、気にする余裕も無かったけれど、しかし自分の声はもう少し低い気がする。というより——。

 まるで子供の様に甲高い声だった。まるで、小学生か中学生の様な。

 夢の中で、そういった整合性が取られていない事へ目を向け、違和感を探す事こそ無駄かもしれない。だが、一度目を出した疑惑は、瞬く間に様々な証拠を連れて、無視出来ない存在へとなっていった。

 そして何より。

 自分が過去にあの出来事を経験しているなら、それを夢という形で追体験しているのだとしたら。

 どうして右耳が切り落とされていない?

 再び、何かを確かめる様に指で触れる。そこには縫い目も切った後もない、いつも通りの耳が存在していた。

 間接照明だけで落ち着いた雰囲気を保っていたカウンセリングルームに、椎名が照明スイッチを入れると、無機質な蛍光灯の白色光が部屋を照らした。

 精神科臨床において最も困難なのは、患者の語る物語に対して、過度に共鳴しないことである。椎名は自らの職業倫理として、常に患者との間に一線を引いていた。例え患者の訴えに自身の過去と重なる部分があったとしても、あるいは想像を絶するような過去を抱えていたとしても。

 彼女は、非言語的情報——眼球運動、身体の緊張、言葉の抑揚、沈黙——に注意を払いながら、認知の歪みや回避傾向を分析し、少しずつ治療的介入へと繋げていく。その過程において、情緒的巻き込まれは最大の障壁となることを知っていた。だからこそ、椎名は常に、卯月を含めた患者に対して、傾聴に徹しながら、精神的には『踏み込まない』ことを自らに課していた。

 彼女は、3年近く通院を継続している長期患者である。主訴は、決まって金曜日の就寝時に繰り返される悪夢。毎日それが起きている訳ではないが、金曜日に、必ずその悪夢は訪れるという。睡眠構造への影響は深刻である。初診時から椎名はPTSDの可能性を考え続けていたが、少なくとも彼女へのヒアリングではそういったことは無いと判断するしかなかった。

 一度、顔面にガーゼを貼った状態で来院した際には、思わず状況を直截的に尋ねてしまったことがあった事を思い出す。

 あの時は流石の椎名も動転し、思わず家庭内暴力、恋人や同居人からの暴力も疑った。患者というのは時に虚偽の申告を行う。信頼関係が築けていないと、こちらに初めは、重要な情報を開示しようとしないのだ。それ自体は医者の落ち度であると考える。しかし聞き出していくと、どうやら覚醒前後の譫妄様状態と、過換気症候群——過呼吸になった事で頬に痣が出来たのだと主張した。前後の慢心との整合性も取れており、おそらく真実だろう。

 ここ数か月はその頻度が増加し、夢の中に出てくるという男から逃げようとしてその際に家具や壁に衝突し、顔面、四肢、腹部の打撲痕までもを伴うことがあるという。薬物療法としては、現在のところサルブタモール——本来は喘息治療薬だが、彼女に対しては既往歴に軽い喘息と書いてあったこともあり、過呼吸時の呼吸苦軽減を目的として——を頓用しているのみで、抗不安薬や抗うつ薬、非定型抗精神病薬等の定期処方は敢えて行っていない。

 そもそも、サルブタモール自体、過換気症候群に対する効果は限定的であり、通常は喘息治療薬として使用されるものである。過呼吸による身体的苦痛を軽減する目的で、頓服として処方しているに過ぎない。

 投薬療法も椎名が考えなかったわけではない。しかし抗不安薬や抗鬱薬、非定型抗精神病薬などの定期的な処方は、彼女の症状を考慮して避けていた。これらの薬剤は、譫妄などの副作用が考えられるため、悪夢から覚醒した際に現れる一時的な錯乱状態を増悪してしまう可能性が考えられる。そのリスクを回避するため、あえて積極的に処方しない選択をしていた。

 ただし最近は、頓服の処方希望が月毎に増加傾向にあり、それに比例するように彼女の訴える悪夢の内容も変容している。

 どうするべきなのだろう。椎名は天井を仰ぎ、息を吐いた。心療内科医になって、悩める人を救いたい、一人でも多く、安心して夜を眠れるようにしてあげたいというのが、彼女の理念だった。かつて自分が、同じように悩んでいた時、たまたまクリニックで出会ったあの先生の様に。

 しかし今の患者も、このクリニックでは一番通院歴が長い。短ければいいというものでも無く、不審を抱かれて他のクリニックへ行く患者や、改善したと思って見送った患者が、また数か月後に通院を始めたりすることも少なくない。

 しかし長く通院しているというのは、その一時的な回復の兆しすらも見られないという事である。

 あの先生なら、どうするだろうか。

 彼女は仕事用のラップトップを引き出しから取り出し、カウンセリングの内容を書き留めていく。

 その名前が書かれたフォルダ名を見ながら、ふと椎名はキーボードを走る手を止め、口元に手を当てる。

 この患者が、何故かいつも保険証に記載されている名前と、全く違う名前を名乗っている事——椎名は初めてのカウンセリング時に名乗られた名前、卯月沙耶と呼び続けている。いろいろな事情があり、それを無闇に掻き回すべきではないと考えての行動であった。

 その事も、もしかしたら悪夢を見る原因になった何かと関係しているのだろうか。

 西日がゆっくりと差し込み始める頃、卯月は自宅に到着した。夕食の食材を買って帰ろうとしたが、よくよく考えたら昨日の材料が残っていることに気づき、薬局で適当な飲み物と日用品を数点だけ購入した。

 玄関にそのスーパーの袋を下ろし、一直線に洗面所へ向かう。来ていた服を手早く脱ぎ、洗濯機に放り込んでスイッチを入れると、そのまま急ぐようにシャワーを浴びた。

 卯月にとって、外出した後の身体で、そのまま家の中を歩き回るという行為がどうしても汚いものに思えた。それに、どちらにせよ手洗いはするのだから、だったらこの後外出する予定もないならシャワーも済ませた方が効率的。という行為が、いつの間にかルーティンの様になっていた。

 少し考えれば、店に陳列されていた食材や日用品、仕事にもっていっている鞄も同じようなものだが、不思議とそれは気にならなかった。

 あくまで清潔に保っておきたいのは、自らの身体。それと、手。卯月はいつも、自分を落ち着かせるためのグルーミングの様に手洗いをする癖があった。

 風呂から上がり、夕食を作りながらも、卯月はクリニックの駐車場で考えていたことを思い出す。

 わたしじゃない気がする。

 一度気付いてしまえば、むしろどうして今まで、この夢を見始めてからの約7年間、ただの一度も気づかなかったのだろう。と思えてしまう程、他にもいろいろな証拠があった。

 勿論、夢の内容なので記憶は曖昧で、前回の記憶だって一週間前を辿ることになるので、特に印象深いシーンを、記憶している限りで考えてみる事しか出来ないが、それでも。

 嫌に鮮明で、何故か地続きになっているあの夢の中、わたしは恐らく自分ではない。そして、あの家はもしかしたら、以前どこかで見たことがあるのかもしれない。という事も疑念として浮かんできた。

 二階建ての、大きな家。階段を上がって二階が夢の中でのわたし——あるいは別の誰かの部屋。玄関があって、廊下を左に向かうとリビング。そのままキッチン。

 しかし一方で、夢だからと言ってしまえばそれまでだが、あそこまで整合性の取れた夢であるのにも関わらず、一点だけ不可解な点もあった。

 フライパンの上で溶き卵が焼き固まるのを眺めながら、右耳に意識を向けた。

 何故かあの夢では、男に付けられた傷や痣が、一週間後の夢で消えていることがある。初めの内は、治癒したのかと、夢の中だというのに現実的なところを納得してしまっていたが、改めて考えると、矛盾する点がいくつかある。

 一週間後の夢で消える傷というのは、決まって大きな、およそ一週間では完治し得ない傷である。あの男が何も暴力を振るって来ない日や、多少の暴力を振るってくる日は、その次の夢でもそれらは引き続き存在している。以前、今と同じように卯月が食事を皿に盛りつけ、男の前に出した時、その肉が一部、黒く焦げていたという理由で、男はそれを手で薙ぎ払った。その時に割れてしまった皿の破片を踏んでしまい、踵に小指の爪程の切り傷が出来た事があった。その傷は次の夢でも、歩いた瞬間に痛みが走ったことで思い出し、すぐに一週間前、皿の破片で出来た傷だと直感したことがある。

 だが、別の時、同じように何らかの理由で男に顔を殴られた時、口の端がかなり深く切れたことがあった。しかしその傷は、次の夢の時に何故か完治していた。

 これが何かの手掛かりになるかは、卯月には分からない。しかし、その出来事が悪夢を退ける手掛かりになる事を、静かに願った。

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