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Sangría  作者: なすみ
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2話

 緩んだ蛇口のように、右耳のあった場所からとめどなく血が溢れ出してくるのを感じ、卯月は無我夢中で手をそこに伸ばした。

「痛い、痛いい、いっ、うううう……」

 感情の奔流。自分が何を感じて泣いているのかすら分からない。考えることが多すぎる。血を止めなければいけないし、切り落とされた耳がまた生えてくる訳がない。取り返しのつかない事をされたという事だけを理解する。男に対する恐怖も感じる。耳はおろか、右の頬まで痛むほどの激痛に、起き上がることも出来ない。

 気がつく頃には、男の姿はもうない。リビングか、あるいは奥の部屋に戻ったのだろうか。

 傷口を押さえても押さえても、次から次へと血が溢れ出る。手首を伝って、肘からぽたぽたと垂れていく。

 そんな夢と現実の境界が曖昧な状態から、ゆっくりと意識が覚醒していくにつれ、卯月は真っ暗なリビングで一人、泣いてしまっている自分に気付いた。

 もう既にあの家も、顔の見えない男も、感じていた痛みすら幻のように目の前から消えている。残っているのは、次にまた似た夢を見るかもしれないという恐怖、そして、あの男がこの家のどこかにいるかもしれない。と思わせる曖昧な不安だった

 落ち着かない様子で何度か深呼吸を繰り返す。息を大きく吸って、ゆっくり吐く。そんな単純な動作すら今は出来ず、喉は震え、乾いた唇から微かな息が漏れるばかりだった

 落ち着かないと。

 そう自身に言い聞かせる。心臓を鷲掴みにされているような緊張と恐怖、まだ痛むような右耳。指先はがたがたと震えて、他人の手に思えた。息が浅くなっているのが自分でも理解出来る。早く落ち着かないと。

 また過呼吸を起こす——そう分かっているのに、不安は膨らむばかりだった。

 ガタン。

 そんな物音が、壁越しに響いた。

 恐らく隣人が何か物を落としたのだろう。あるいは、卯月が夜中に騒いでいるのを聞いたのかもしれない。ほんの小さな物音。それだけだった。

 それでも、その音は彼女にとってあの男を十分過ぎる程に思い出させる。

「っ、ごめんなさい! ごめんなさい! もうやだ、やだやだぁ!」

 落ち着き始めていた気持ちが、再び狂い始める。振り返る事すら恐ろしく、両手で髪の毛を掻き乱したかと思うと、駄々を捏ねる子供の様に泣き喚いて蹲った。

 あれは夢だ。そう理解しているつもりでも、物音が聞こえるとこの家にもあの男がいるのではないか。今度こそ耳を切り落とされるのではないか。色々な考えが一瞬にして脳内を駆け巡る。

 真っ暗な部屋の中だというのに、視界が明滅する。それが過呼吸による酸欠だと気づく余裕もなく、ただ怯えて丸くなるしかできなかった

「こ、殺される……殺される……っ。やだ、死にたくない死にたくない死にたくない」

 浅く短い呼吸の隙間で、譫言の様に呟く。

 指先が段々と痺れ始め、呼吸が更に浅くなる。首を絞められている訳でも無いのに、まるで頭からビニール袋を被せられている様な息苦しさ。どうにかしようと空気を吸い込んでも、喉の浅いところまでしか届かない。すぐに吐き出して、また苦しくなる。

 はっ、はっ、はっ、はっ。

 呼吸とも言えない呼気が漏れ出る中、本能的にリビングの机へ手を伸ばす。

 端を掴んだ、と思った瞬間、力が入らず崩れ落ちた。それでも一心不乱に手を伸ばし、やがて机に這いつくばるようにしながら、空き缶や書類を薙ぎ倒し、ようやく薬を掴んだ。

 おもむろに吸入器のキャップを取り外すと、机の上に置こうとした。しかし手が上手く動かず、どこかへ飛んでいってしまった。

 以前、カウンセラーから処方された、過呼吸時に使うための吸入薬だった。何度も、こういう発作を起こしている自分の為に、常にすぐ手に取れる場所に置いていた。

 そうしている間にも、限界は刻一刻と近付いている。足にも力が入らなくなり、再び床へ崩れ落ちる。どこをどう打ったのかも分からない。ただ、痛みすらも酸欠で鈍く感じる。

 握りしめた吸入薬を口に押し込み、ガタガタと震える両手で必死に抑え付ける。カートリッジを押し込むと、ガスが噴き出す音とともに薬が喉に流れ込む。

 過呼吸はまだ収まっていない。それでも、恐怖に怯え、涙を流しながら、何度も何度も、肺の奥へ息を送り込もうとする——。

 数分が経ち、ようやく薬が効き始めた。ゆるやかに、呼吸が楽になる。未だ手足の痺れは残っているし、顔は涙で濡れて気持ち悪い。しかし、あの恐ろしい窒息の予感は遠のいていく。

 頭にかかっていた靄の様な感覚が晴れる頃には、少しだけ落ち着きを取り戻していた。

 正常な呼吸に戻るにつれ、床に寝そべっている身体のあちこちから痛みを感じ始めた。暴れているときにぶつけたのか、魘されている間に引っ搔いたのか。しかし、それ以上の疲労を感じ、動く気力など微塵も湧かなかった。

 そのまま吸入薬を傍に置くと、頭を床につける。汗ばんだ身体に、フローリングの冷たさが心地良い。その冷たさで少しの間、気持ちが晴れたような気になっていたが、すぐにまた思い出した様に、慌てて右耳を触る。

 耳元で響いたカッターナイフの音、軟骨を滑る刃の音。それらがフラッシュバックして、また背筋からあの恐怖が湧き上がる。

 ひんやりとした手の温度が、熱を持った右耳に触れる。何度も震える指先で付け根や耳たぶを確かめながら、どこも切れていない事を認識する。そうすることで少し気が紛れるかのように。

 卯月はそのまま、手を伸ばして両耳に触れた——左耳も心配になった訳ではない。手のひらを押し当て、力強く両耳から入ってくる、今もどこからか聞こえる声を遮断しようとしていた。

 低く唸る様な、あの男の声だった。

「そんなんだからお前は「役立たずが「殺すぞ「お前の飯なんか無い「黙れ「こっち来い「口答えするな「死ね「お前なんか居てもいなくても「死ね「死ね「死ね」

 幻聴だと、頭では理解している。

 この家に男はいない。

 分かっているはずなのに、声がどこからか聞こえる。かつて夢で言われた言葉か、言われそうな言葉か。それすらも分からない。ただ、その言葉一つ一つが卯月の心にとっては、何故か無視できないものの様に感じられた。

「ごめんなさい、ごめんなさい」

 両耳を強く押さえ、身体を丸めて床に頭を擦り付ける。ぶつけたらしいあばらが酷く痛んだ。鼻の奥が熱くなり、訳も分からないまま涙が再び溢れ出した。卯月は何に謝っているのかも分からず、ただ何度もその言葉を、幻聴が聞こえなくなるまで、明け方になるまで繰り返し続けた。

「こんにちは、卯月さん。昨晩はこれまでより眠れなかったようですね」

 卯月が扉を開けて会釈をするなり、カウンセラー、椎名はそう言った。その言葉に、メイクで隈を隠せていないかと、少し心配になった。

 いつものように、薄暗い部屋の中、椅子に浅く腰掛ける。椎名はその様子を横目で見ながら、卯月の速度に合わせてゆっくりとペンを取り出した。

 そういえば、椎名先生がいつもペンとノートを用意して話を聞いてくれるけど、メモを取っているところを見たことがない。そんな事を思いつつ、卯月は次の言葉を待つ。

 椎名もまた、その雰囲気を汲み、穏やかに口を開いた。

「わたしも昨日は、お恥ずかしい話ですが少し飲み過ぎてしまいまして。卯月さんもお酒は良く嗜まれるんでしたよね?」

「……はい。普段は飲まないんですが、金曜日の夜は……その、気持ちを誤魔化すために」

 そう言いながら、弱みとも言える部分をこうして、吐露することに未だ慣れていない自分を感じた。こんなことを言ったら、情けないと思われるかもしれない。そんな考えが、つい頭を過る。

 仕事場での彼女と違い、ここではどうしても言葉が出て来ない。この問い掛けも、何かわたしの内に抱えた問題を暴くための糸口か、それとも単なるアイスブレイクか。そんなことをつい考えてしまう。

 椎名はその言葉を静かに聞き、ふと視線をデスクに落とす。ノートの上にペンを転がし、僅かに奥へ寄せた。

 それを目で追いながら、卯月は眠りから覚めた後、切れてしまっていた下唇を口の中へ小さく含む。

「そうですか、やっぱり嫌な事が待っていると思うと、寝るのも気が重いですよね。……昨日の晩も、あの夢は出てきましたか?」

 その問いに、卯月は言葉を発せず、小さくうなずいた。悪夢に対して言語化すること自体に強い抵抗を感じている事は、これまでのカウンセリングから感じ取っている。しかし今日は、その拒絶がいつものそれより強く感じられた。

 膝の上で握られた手は、その問い掛けを皮切りに小刻みに震え、それを押さえつける様に太ももへ押し付けられている。

「どうやら、昨日は特に辛かったようですね。もし言いたくないことがあれば、無理に言おうとしなくて大丈夫ですよ。わたしも、それ以上は聞こうとしません」

 椎名は身体ごと卯月の方を向き、目を見て言った。彼女はその様子に一瞬、肩を硬直させたが、すぐに合わせていた視線を逸らし、再び小さく頷く。

 その様子を見て、言いたくないが聞いて欲しくないわけではない。という、矛盾を孕んだ気持ちを抱えていると感じ取り、椎名は再び身体を戻した。

「では、以前と同じような場面でしたか? それとも、何か変化が?」

「同じ……です。でも、いつもより怖かったです。音とか痛みとか、これまでよりも現実味があった……というか」

「現実味があった、というのは」

 そこで少し間を開け、椎名は少し天井を見上げる。そして続けた。

「顔が分からないけど、卯月さんが怖いと感じている男性に、暴力を振るわれたり暴言を吐かれる、という夢を見るんですよね? その音とか痛みが、これまでよりも鮮烈に感じられたという事ですか? だとしたら、どんな音や痛みが印象に残っていますか?」

 卯月はその問いに対して、思わず言葉が詰まった。口を開いたまま、目を逸らし、ゆっくりと唇を閉じる。落ち着かない様子で唇を噛み、指を組んだ。

「大丈夫ですよ。もし言葉に出来そうなら、教えてください。それとも印象が薄かったりしますか?」

「い、いえ、大丈夫です」

 待たせてはいけない。そんな気持ちが湧いて、卯月はまた口を開く。だが相変わらず、言葉にしようとすると右耳が痛むような気がして、顔をわずかに顰めた。だが、それでも何とか、印象に残っている音を伝える。

「その……耳を、カッターナイフで切り落とされる音が」

 その言葉を受けた椎名の顔に一瞬、静かな驚きの色が差した。しかしすぐに戻ると、会話を続けた。

「なるほど。その時の音や、痛みも記憶に深く残っている、ということですね」

 卯月は無意識の内に手で耳を押さえながら、椎名の静かで穏やかな言葉を聞いていた。

 その声に交じって、再びあの痛みと音が聞こえてきたから。

「夢というのは、基本的に起きてしばらくすれば、どれだけ衝撃的なものでも何故か記憶から抜け落ちてしまうものですからね。その中で鮮明に覚えている、というのは、それ程に卯月さんの感情を揺さぶったんだと思います」

 椎名の視線は、卯月の手元に落ちている。いつのまにか指先が白くなる程、強く握りこまれて震えていた。

「決まって金曜日の夜に、その悪夢を見るんですよね」

 はい。と答えたつもりだったが、その声は自分のものと思えない程、小さく掠れていた。

「なぜ金曜日なんでしょうね」

 椎名はそう言うと、背筋を伸ばして息を吸う。

「例えば、仕事の区切りが影響している可能性も考えられます。卯月さんは人事経理部、副部長でしたよね? その立場故、緊張状態が月曜日からずっと続いている中で、金曜日の夜に少し気が緩む」

 意外と、ストレスを受けている時よりも、それが解放された瞬間にそれが顔を出すこともある。そう言われて、卯月は思い当たる節があった。

 仕事が嫌いな訳ではない。ただ、休みの日の方が楽に決まっている。ストレスがない仕事でも、役職でもないから。

「ただ……毎週、一度も忘れずに夢を見るなんて、少し規則的過ぎるとも思いませんか?」

 表情を変えずに言う椎名に、卯月は小さく息を呑んだ。

「身体には記憶の周期というものがあります。例えば、朝ご飯を食べていない人が食べ始めると、以前よりも朝に空腹を感じやすくなる。毎晩の飲酒が習慣化している人は、少々体調が優れなくても、依存症で無くても夜になると飲みたくなる」

 過去に特定の曜日や時間に起きた出来事を、脳が無意識に記憶していることがある。良い体験をしたから、もう一度それを得ようとする事だったり、嫌なことを経験したから、それを忘れないように思い出しておくことだったり。

 椎名はつい自分ばかり話し続けていることに気付き、卯月の表情をちらりと見た。

 その眼は、何か思い当たる節を探るかのように宙を泳いでいる。

「つまり——卯月さんの身体が、夢を通じて何か思い出す時間を決めているのかもしれません」

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