15話
縋るように、掛け布団を抱きしめて眠っていたせいだろう。痺れて感覚の無い左腕をぶら下げて、ベッドから這い出す。
頭の奥深くでは、まだ昨日のことを処理し切れていない。そんな感覚があった。今はそっとして置いてほしい。誰にも会いたくない。仕事なんて行きたくない。
悲鳴を上げるように、もう一人の自分が叫ぶ。卯月はその声に、一瞬。仕事を休んでしまおうか。そんな普段なら考える事すらしない事を思ってしまう。だが、その考えはすぐに捨て去った。
わたしは何を考えているんだ。
良い大人だ。甘えてはいけない。
ちゃんとしないと。
頭を振って、立ち上がる。ぐらりと足がもつれ、壁に手を着いてしまった。どうやらまだ、昨日の酒が残っているらしい。呼気はアルコールの匂いこそ発していなかったが、身体が疲れ切っているのは明白で。
まずはシャワーを浴びるため、壁に手を着きながら洗面所へと向かう。その間も、絶えず頭の中では弱音が、自分の背後から服を引く。
無理なんてしたくない。疲れた。休みたい。
部屋着に手をかけ、ゆっくりと腕を抜く。飲み過ぎたからか、筋肉痛か。関節が痛み、眉間に皺を寄せた。
そこで、ふと頬に違和感を憶えた。思わず鏡に目をやる。下着姿で映る自分の顔は、酒で浮腫んでいたが、それ以上に。
赤く泣き腫らした目。頬に伝う涙の乾いた痕。鼻水が鼻の下で乾いている。その様子を見て、ようやく、昨晩の事を少し思い出した。
「……はあ」
思わず、唇から溜息が漏れる。まるで他人事の様に、 情けない自分の姿に辟易した。
あんなみっともない女、自分じゃないみたい。
紛れもなく、自分は自分だと認識していた。しかし、子供の様にみっともなく、醜態を晒した自分を認めるのは、プライドが許さない。
目を逸らす様に鏡から離れ、浴室へ移動する。
熱いシャワーを頭から被り、汚れた身体を洗い流す。
湯気があっという間に浴室を満たし、冷房で冷え切った手足に、じんわりと体温を戻していく。蒸気をゆっくりと吸い込む様に、深く呼吸を繰り返す。その行動は、まるで自分を一つ一つ、取り戻していく作業の様だった。
気持ちを落ち着けて、自分という人間が、どういうものか。パーツを集め、卯月沙耶という大人を、再構築していく。
その内側に潜む、幼い自意識を覆い隠す——鎧の様に。
髪の毛にドライヤーを当て終わる頃には、すっかり顔は元の様子に戻っていた。目は鋭く開かれ、口は堅く結んでいる。顔色も戻り、その上から泣き腫らした目や、その下の隈。疲れの滲む表情を消し去るように化粧を施した。
仮面を一枚、被るように。
昨晩の事は、もう忘れないと。そう思って、寝室へ戻った。ベッドを整え、綺麗な状態に戻す。クローゼットからスーツを取り出し、一つずつ、身に纏っていく。
いつまでも、子供の様に泣き喚く訳には行かないのだから。
——子供の様に。
突然、顔に血が上るのを感じた。それと矛盾するように、頭から血の気が引く。
わたしは昨日、何をしていた? 何を口走り、どんな風に振舞った?
誰かに見られた訳では無かった。この家には自分一人で、窓もいつも通り閉めている。誰かが自分の姿を見ていたわけではない。
だが、隣人に聞こえただろうか。壁越しに、あんな恥ずかしい姿を悟らせただろうか。そう思うと、一文字に結ばれた唇が、途端に震え出した。
外見と同じように、整えていた自分の気持ちが、綻び始めるような気がした。
みっともない。
あんな風に、大声を出して。
昨日の自分を、誰も知らない世界があるなら、そこへ逃げてしまいたかった。
「おはようございます」
出社後のルーティンを終え、手をハンカチで拭きながら、卯月は部署の扉を開ける。部下たちが口々に挨拶を返す中、今日も一日が始まるのだと、自分を奮い立たせた。
誰も、昨日の自分を知らない。そう何度も心の中で言い聞かせながら、自分のデスクに歩を進める。しかし、まだ始業前で楽しそうに談笑をしているグループ。その笑い声が、まるで自分に向けられているような気がして。
職場ではこうやって大人ぶっているけど、家では。
そんな風に思われてる気がして、また顔が熱を持つ。恥ずかしい。消えてしまいたい。昨日の事を、すぐに忘れてしまいたい。
結局、午前の仕事は手に着かなかった。それでも処理速度を落とすことはなかったが、心はずっと、上の空だった。
色々なことが、頭の中を巡る。また夢を見るのか。あの家は何だったのか。あの男は、やはり夢に出てくる顔の見えない男、その人なのか。
少女は、どこで何をしているのか。
「副部長」
だから、隣のデスクに座る部下に声を掛けられた時も、卯月は初め、反応出来なかった。
考え事をしながら、それでも目と指は仕事を続ける。虚ろな目は、パソコンの光を反射するのみで、そこに生気は感じられない。
「……副部長?」
再び、不安げに声を掛けられた時、彼女は僅かに肩を跳ねさせた。
「ごめんなさい。……いえ、えっと、どうしたの?」
反射的に謝ってしまった。顔から火が出そうになるのを感じ、恥ずかしさを表に出さない様、振り返った。幸い、新入社員の部下、高村は特に疑問視することも無く、むしろ邪魔をしてしまったことを反省するように目を伏せている。
教育係として、卯月が担当している部下の一人だった。
「すみません、お忙しい所……少し、分からないところがあって」
その言葉を受け、卯月は入力中のデータを保存すると、椅子から立ち上がる。部下の彼に続いて、歩き出した。
スーツに包まれた、大きな背中。ここに来る前は、大学にスポーツ推薦で入ったと言っていた。広い肩幅と、そこから伸びる太い腕。性格こそ気弱ではあるが、その体格は小柄な卯月と比べると、まるで壁が歩いている様だった。
以前まで、特には何も思わなかった、高村の体躯。しかし今の彼女にとって、自分より背も体格も大きく、筋肉質な男性。それはあの家であった男を、嫌でも想起させる。
もし、彼が急に自分の腕を掴んだら。もし、拳を振り上げられたら。そう思うだけで、胸が苦しくなる。部屋の空気が薄いように感じられ、息が詰まる。
「どうぞ、使って下さい」
椅子の背もたれを掴み、高村は卯月を自分の椅子に案内する。
卯月は努めていつも通りに振舞おうと、ぎこちない笑みを浮かべて、デスクの前へ移動する。
心配はいらない。彼は高村くんであって、あの男とは関係がない。そう頭では理解しているはずなのに、身体は言う事を聞かない。
スカートの裾を気にして、そっと手を添えながら、ゆっくりと腰を落とす。
——つもりだった。けれど、その椅子は思っていた以上に低く、予想よりも腰が沈む。バランスを崩しかけた。
一瞬、身体がぐらりと後ろに揺れる。その動きに、彼は片手を背もたれ越しに添える。
彼にしてみれば、卯月の小柄な身体を支えるなど、造作もない。僅かに手のひらに重みが掛かったが、ゆっくりと卯月の姿勢が整うのを待つ。
「大丈夫ですか?」
低い声が、頭上から降ってくる。卯月は少し心拍がうるさくなったのを感じたが、平静を装う。
「大丈夫、大丈夫。椅子の高さが、思ってたより低くて」
そういって余裕のある笑みを浮かべる。つもりだったが、頬が引きつっているのを自分でも感じる。
改めて、視線をパソコンの画面に向ける。Excelが開かれており、取引先の管理ファイル。その今月分をまとめている所だった。
だが、どうも様子がおかしい。あちこちに虫食いの様に空欄があり、うまく情報を吸い取れていない様だった。
呼吸を落ち着かせ、説明を待つ。
「えっと、それでここの関数なんですけど……」
不安を滲ませた声が聞こえたかと思うと、卯月の視界の端から、高村の手が伸びてきた。モニタを指差そうとしたのだろう。
反射的に、卯月の肩が跳ねた。あの男にそうされた記憶が不意に顔を表し、身体を丸める。まるで触れられるのを避けるかのように。
顔には恐怖が滲み、視線すら動かせずにいた。
「——あっ……す、すみません」
彼もそれに気付き、慌てて手を引いた。反省の色が声に滲む。
卯月は気を持ち直し、誤魔化す様に笑みを浮かべるが、うまく笑えた自信はない。
「違うの、大丈夫。わたしが……少し、ぼーっとしてただけで」
机の下で、無意識に手を握る。落ち込んだ表情で、背を丸めた彼に、それでもなお、あの男が重なる。
そんな事を考えてはいけない。そう分かってはいても、思考は手を離れていく。
落ち着け。
自分に言い聞かせる。ここでもし、あの発作が出てしまったら。きっとみんな、自分に対する認識を改めるだろう。頼りがいのある上司になろうと、これまで積み上げてきた努力も何も、水泡に帰す。
そんなこと、わかってる。
周囲にそれが透けて見えない様、卯月は静かに、けれど必死で呼吸を落ち着けた。
「自分、身体が大きいから、圧があるっていうか……」
見た目に似合わず、意外と繊細な心をしている高村に、卯月は返した。
「そんな落ち込むことじゃないから、大丈夫。それより、どこが分からないか、教えてもらえる?」
そう伝えて、僅かに肩を引く。すると高村は、それでもなお遠慮しながら、おずおずと腕を出した。
自分の手より、一回り以上は大きいと感じさせるその手が伸び、今度こそモニタを指差す。卯月は、必死で身体の反応を抑え、恐怖をひた隠しにした。
果たして、原因は簡単なことだた。順序立てて説明すると、高村は合点がいった様子で、顔を明るくする。理解自体は早いことを卯月は知っている。きっと、説明を始めて、全体の4割まで伝えた段階で、彼は後を理解してしまうのだろう。顔に出やすい性格なのか、なるほどと言った様子で、返事の調子が変わる。しかし、それでも相手の話を遮ることなく、最後まで聞いた後、要約して返してくれる。自分の認識が間違っていないか、確認しているのだろう。
「やっぱり副部長は説明が分かりやすいです!」
昼食を済ませた後、喫煙所へ行こうとした時、たまたま鉢合わせした高村は、後を追いながらそんなことを言った。
卯月はどこか照れ臭さを感じて、目を逸らした。
「そんなことは無いと思うけど……。わたしなんて、部長に比べたらまだまだ」
「いえいえ、部長——も説明は分かりやすいですし、他の先輩方も、親切に教えてくれます。けど、副部長がぼくは一番好きです!」
スポーツ推薦を受けていただけの事はある。良く通る声で、はきはきと刃が浮くようなことを言われた。
卯月は思わず、天井を見上げていた目を下ろし、辺りを見渡した。幸い、誰も今の発言を聞いてはいない。
最近の子はみんなこうなんだろうか。卯月はどう返したものか、自分の半歩後ろを付いてくる彼の気配を感じながら、調子が狂うのを感じた。
——部長の時に間が空いたのは、彼がPCを触れないからだろう。
「副部長はこの後、煙草ですか?」
斜め後ろ辺りを維持したままの彼が、横並びにならないのは、きっと先程の反省を生かしての事だろう。彼から見ても、卯月は自分と頭一つ分以上、身長に差がある。おまけに、相手は女性だ。自分の様な朴念仁には、スポーツの事以外は分からないからこそ、気を付けなければ。そう心に念じた。
「そう、ご飯食べた後だし、することもないから喫煙所で過ごそうと思って。……高村くんは、入ってきちゃ駄目だからね」
一応、釘を刺す。人懐っこい彼の事だ。こちらから言わなければ、非喫煙者であるにも関わらず、あんな身体に悪い場所へも入って来かねない。
きっと今でもトレーニングなどで、身体を維持しているのだろう。そんな彼に悪い影響は、与えたくなかった。
しかし彼は、何故か自慢げに言う。
「ふっ、心配しないで下さい。副部長と部長の影響で、ぼくも煙草、吸い始めたんです」
だからそんな言葉が聞こえて来た時、卯月は思わず言葉を失った。
冗談として言っただけなのか、それとも本当なのか。
けれど、後ろを付いてくる高村は、離れようとしない。
廊下の蛍光灯が、窓から差し込む陽光と混ざり、廊下を照らす。その間にある、路地裏の様にぼんやりと暗くなった場所を曲がった。スライドドア越しに、誰もいないことが見て取れる。各階に喫煙所が設置されており、昨今の喫煙者への風当たりの強さも相まって、閑散としていた。
喫煙所のドアに手をかける前、卯月は振り返って言った。
「……部長が聞いたら、怒ると思うよ」
「えー、そうですか? でもちょっとくらい……いいかなって」
彼の口から発せられる言葉はいつも無邪気で、無防備で。それが卯月の胸へ、余計に波紋を残す。
違うと理解している。彼はただ、本当に自分の事も慕ってくれていて、近づこうとしているだけ。
それを拒む理由も、煙草が身体に害であるという点以外は無いはずなのに、自分の何かが、それを警戒してしまっていた。
ドアを開けると、静かにファンの回る音が響く。黒い壁紙と、横長のスタンディングチェア、それから灰皿が置いてある。きっと、この会社が出来て初めの頃は、もっと利用者も多かったのだろう。そう思わせる広さに、卯月は隣に座る大柄な高村をもってしてもなお、空間を持て余している様に感じる。




