13話
「夢は、現実や感情の反映です。例え、それが自分のものでなかったとしても、あなたが見ている限り、それはあなたの一部なのかもしれません」
いつか言われた、椎名の言葉を思い出す。アクセルから僅かに力を抜き、出口へ向けてウィンカーを出した。
気が付くと、空に近かった灰皿には、吸い殻が満たされていた。開いた窓からは外の空気が入り込み、懐かしいような感情だけが湧き上がってくる。
だが、何にノスタルジーを感じているのか、それは卯月自身にも分からない。窓の外に映る家々も、都会では見かける機会のない、葉桜が植わっている土手も、全てが初めて目にする光景のはずだった。
何が、そう思わせるのだろう。
卯月は、日の暮れた道を通りながら、コンビニに車を停めた。
トイレを借り、コーヒーとサンドイッチ、チョコレートを買う。夕食と、疲労回復を期待しての糖分。
同じ姿勢で運転を続けていたためか、肩が重い。それに若干ではあるが、眠気も感じている。車のシートを少し倒すと、ゆったりとした姿勢でサンドイッチを頬張った。
そこでようやく、自分が仕事で来ているスーツのまま、来てしまったことに気付く。パンくずなどで汚さないように注意しながら、それ以上に、地元の中学校をじろじろと見つめるスーツ姿の女。という目の方を、注意しなければならないと思った。
私服だとしても、夜にそんなことをしている時点で怪しいことには変わりないのだが。
コーヒーを手に取り、キャップを開ける。サンドイッチの包装をゴミ箱に捨てると、深呼吸をした。
ナビは、ここから3km程先を指している。そこに、第三中学校がある。卯月は、妙な胸の高鳴りを感じた。
もしかしたら、ただの見間違えかもしれない。実際に見てみると、その中学校に見覚えなど無く、ただ夢の中で似たような場面が出てきたのを、混同しているだけかもしれない。
その可能性は、十分に考えられる。そもそも、中学校などどこも似たような見た目をしている。言われなければ、小学校か中学校か、それすらあやふやだ。
エンジンを再び始動し、ハンドルに右手を置く。
それでも、ここに来てからの既視感。風景や、空気。それらに感じる、どこかで見たことがあるという気持ちが、僅かではあるが希望を抱かせてくれていた。
中学校に着いた、その後のことは考えていない。敢えて考えないようにしている。家を見つけたから、少女を見かけたから、だから何だというのか。どうしようというのか。そんな事を考えてしまったら、来た道を引き返してしまいそうな気がした。
「……よし」
意を決して、シフトレバーを下げる。先ほどまで感じていた眠気は、もうどこにもない。
これまでの道のりに比べれば、コンビニから中学校まではあっという間だった。
それよりも、車を停める場所に困った。都心であれば、コンビニや、パーキングエリアがある。しかし、卯月の職場は元より、住んでいる場所と比べても、ここはそういった施設が見当たらない。ハザードランプを付けて路肩に寄せ、止められそうな場所を調べてみる。焦りで、指が上手く動かない。
すぐ横に見える、学校。それを目にした瞬間、まるでピンが外れたように、夢の中で見た記憶と重なる点がいくつも見つかったからである。
正門の色。そこから見える、学校の下駄箱。校舎の真ん中についている、大きな時計と校章。右手には花壇があり、反対側にはグラウンドへと続く道。
息が切れる。間違いなく、自分はここを知っている。それは、気のせいでも勘違いでもなかった。確信を持って、そう感じた。
やがて、近くに小さなものではあるが、パーキングエリアを見つける。卯月は慌ててハザードランプを切ると、そこに向けて車を走らせた。
探し求めていたものが、今すぐ近くにある。あの夢に出てくる少女が、きっとこの辺りにいる。
鼓動が五月蠅く鳴り、唾を飲む。
車を停めると、まるで飛び出す様に、鞄を引っ手繰って車から降りた。
鍵を閉める事すら忘れそうになり、慌ててドアノブに手をかける。そして、すぐに携帯で地図アプリを開いた。あの中学校を未だ案内し続けているそれは、道こそ細くぐねぐねと曲がった先にあるパーキングからの経路案内をしていたが、それほど距離が離れている訳では無い。
街灯が点々と続く住宅街を、卯月は疲れすらも忘れて、歩き出した。
ハイヒールの音が、夜の道路に反響する。
頭の中では、中学校が夢に出て来た時の事を思い出そうと、必死で記憶を掻き出していた。その時の記憶があれば、中学校の登下校のシーンが出てくれば、家の場所も分かるだろう。
最悪の場合、中学校を中心としてひたすら歩き回って探すか、親族の振りをして家の特徴を交番で訪ねるという選択肢も残されていた。だが、不審者として通報されるか、自分から不審者であると言っているようなその選択肢は、本当に最後の手段として考えていた。
この年でそんな事になるのは避けたい。
歩みを進めながら、怪しまれない程度に周囲を見渡し続ける。そもそも通行人の数自体が多くないため、自分を通報しかねない人間もいないわけだが、卯月はこの期に及んで、まだ他人の目を過度に意識してしまっていた。
やがて、特に有益な記憶を見つけられないまま、中学校の前に再び着いた。改めて見ても、この学校には覚えがある。所々が錆びた、緑色の金網。その傍に植え込みがあって、いろんな花が植えられていた。
せめて、どの方向に歩いて帰ったか、あるいはどの方向から歩いて登校していたか。卯月は恐る恐る、正門の前に立つ。しかし右と言われれば右に曲がって帰った気がするし、左と言われれば、同じく左に向かって帰っていた気もする。
当然と言えば当然だが、中学校の周りは住宅が立ち並んでいる。気温が高いのか、それとも緊張の為か。握りしめた手には、汗が滲んでいた。
しばらく悩んだ末、卯月は諦めて左へと足を向けた。理由はない。ただ、どれだけ悩んでも手掛かりらしきものが発見出来なかった。それだけだ。
だが、果たしてその選択は正しかったのかもしれない。歩き出すと、身体が勝手に憶えているように進む。視線が追い付くより先に、意識が次に現れる家を憶えていた。どこかで見た様な窓の形。塀の高さ。外壁の色、錆びた門扉。通り過ぎながら、所々に違和感が滲んでいる事に気付いた。だがそれも、こんな夜中に歩くことがないからと合点がいく。
そして、水路の上に掛けられた道路を渡った先。奥へと更に道は続いていたが、その手前に見える、大きな家。
レンガの塀で囲まれて、黒く手入れのされた門扉とポストが構える、それは豪邸と言って差し支えなかった。
西洋風の屋根が見え、他の家と比べてもある種の異質さを放っている。しかし、卯月が足を止めたのは、もっと別の理由だった。
初め、無意識に足が止まり、まるで根が生えたようにその場から動けなくなった。全身の毛が逆立ち、冷やりとしたものが首から下がっていく。息が出来なくなり、呼吸を止めていたことに気付く。
同じだった。
夢の中で、過ごしていた家と、今目の前にある家。全く同じものと、疑う余地すらなかった。
外観を詳しく見た訳では無い。学校から帰ってくる道すら覚えていなかった卯月にとって、記憶に残っているはずがない。
卯月は、手のひらに痛みを感じた。慌てて手を開くと、白くなった爪痕がくっきりと残っていた。
ここで、何があった?
何か見てはいけないものを見てしまったような気持ちになる。目を逸らしたいのに、それすら出来ない緊張感。足が進まない原因も、今ならわかる。
身体が、夢での恐怖を憶えているのだ。
右耳に手をやる。そんなことは無いと分かっていても、あの家にこれ以上近付けば、また同じように、あるいはもっと酷いことをされる。
夢の中ではなく、現実で。今ここにいる自分が。
血の気を失った顔で、卯月はどれほどそこに立っていたか、自分でも分からない。ただとても長い間、そこに立ち尽くして——。
それでも、足を一歩、踏み出した。
歩き方を忘れた様に、言う事を聞かない身体に鞭を打って、左足を更に前へ。ぎこちない動きで、しかし一歩ずつ、その家へ近付いた。
理性的に考えて、恐怖を押し殺した訳では無い。家へ近付くにつれ、それは今にも気を狂わせてしまいそうなほど、膨れ上がっていた。だがそれでも、卯月はここに来るよりずっと前から、既に決めていた。
あの少女を助ける。
今や、この家にいるかもわからない。何をしているかも、この家が本当に、夢に出てきた家なのか。その中で実際にそんなことが行われているのか。
何も分からない。それでも、無我夢中で身体を前にやる。
カーテンは閉ざされており、その中から橙色の明かりが漏れている。人の気配はしない。どころか、物音ひとつしない。
だが、門扉の隙間から伸びる石畳を目で追い、玄関が映った時。卯月は立っていられなくなって、その場に倒れそうになった。
——あの玄関、家を追い出されて、一夜を明かした。
それが夢の中の話かどうか、自分でも分からない。過去に見た景色か、あるいはあの少女がそれを経験していたのか。
もう、気のせいだとも、見間違いだとも思わなかった。この家を見たことがある。それが事実として、肩に圧し掛かってくる。
呼吸が苦しくなる。忘れていた様に、吐き気も襲ってくる。
顔を顰め、耐える様に背筋を伸ばす。思わず目を逸らして、ポストを見る。
そこにぶら下がっている表札。それを見た時、反射的に胃液が込み上げた。
須々木。
何故かその名前を、見てはいけない気がして——。
「何か御用ですか?」
頭の上から、低い声が降ってきた。
全身の筋肉が一斉に跳ね上がる。喉から声にならない声を漏らし、反射的に振り返った。
誰かが、ほんの数歩後ろに立っていた。その男の背後にある電灯によって、顔ははっきりと見えない。だが、その代わりに男が発する、敵意。全身に擦り傷を負ったように、ひりひりと痛んだ。
卯月は、言葉を絞り出せなかった。男の言葉より、誰かが自分を見ていたという事実に、全神経が揺さぶられていた。慌てて胸元の服を手繰り寄せる。シャツが皺になるのも構わず、布地を固く握りしめた。
男は自分の身長より、頭一つ大きい。肩幅も広く、自分の姿をすっぽりと包み隠してしまえるほどの体格差があった。
卯月は恐怖を覚える。まるで、夢の中で顔の見えない男に詰め寄られた時のような圧迫感を、感じていた。
男は、怪訝そうな口調で続ける。
「この家に、何か用事ですか?」
低く、乾いた声。自分と相手との力量を理解し、過度に威嚇することもなく、ただ圧倒的強者としてそこに存在している。そんな自然体の威圧感が、余計に彼女の恐怖を煽る。
きっと、この男が腕を一振りすれば。わたしのような存在は、すぐに殺されてしまう。
そんな考えたくないことが脳裏を掠める。
舌の根が震える。声を出さなければ、何か答えなければいけない。そう頭では分かっていても、この男に対して、怯え切ってしまっていた。足元が頼りなく震え、立っているだけで精いっぱいだった。
「迷って……ただ、み、道を」
喉が掠れる。怯えている所を悟らせたくない。などというプライドはもう機能していない。ただこの男に殺されないように。気が付けばそんなことだけを考えていた。
しかし男は、時間をかけて言葉を発した卯月に向かって、冷たい目を向ける。
「迷った? こんな時間にか」
含み笑うような語調。卯月は、夢の中ですら感じた事のないような感覚に、いっそのこと逃げ出してしまいたかった。
男が一歩、踏み出す。卯月は視点を上げる。いつの間にか、見上げる様な姿勢になった。
「俺の目には、目的地がこの家の様に見えたんだが……」
男が更に歩みを進めると、卯月は反射的に後ずさりした。しかしすぐ後ろにある、レンガで出来た塀。そこへ背中をぶつけて、逃げられないと悟る。
大声を出して助けを求めたところで、その瞬間に殴られるだろうか。そう思うと、指一本も動かせない。
胸元の生地を掴む手は痺れている。呼吸は浅くなり、今にも泣きだしてしまいそうになる中、震える唇を動かした。
「……ごめんなさい」
怯え切った小動物の様に、肩を丸め、息を切らす。今にも命が絶たれることを知っているかのように、その眼には恐怖と諦めが混在していた。
それを見た男は、驚いたように目を見開く。思わず足を後ろへ下げた。まるで、亡霊でも見たかのように。
その顔は相変わらず視認できない。卯月が恐怖で目を伏せてしまっていた。
「……いや、まさか。そんなはずはないか」
男が口の中で呟いて、再び元の調子に戻る。
「とにかく、人の家をじろじろと覗き見るなんて。いい大人が何を考えてるんだ?」
警戒心を緩めないまま、男は少し身体を右へ避けた。
「酔っ払いか何か知らないが、さっさと行け」
その言葉に、卯月は半狂乱になりながら逃げようとする。もう一秒だってここに居たくなかった。理性ではなく、本能がそう叫んでいた。
その腕を不意に掴んで引き戻した後、男は卯月に顔を近づけた。
力は万力のように強く、骨が軋む。夢で何度もされた、その動作。油断させて、腕を掴んで、その後は——。
卯月は言葉も出ないまま、息を呑んで男を見た。思考も回らないまま、恐怖だけを植え付けられる。
「それとも、痛い目に遭いたいか?」
低く唸るような、殺意を孕んだ声。スーツ越しに握られた細い腕は、今にも骨が折れてしまいそうなほどの痛みを発した。体重をかけて逃げようとするが、男は微動だにしない。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさい、もうしません、離して下さい」




