12話
わたしは、この中学校を知っている。
根拠より先に、直感が割り込んだ。
記憶の再生を、卯月自身も止められない。ただ頭の中に流れ続ける景色。それを夢で見たのか、あるいは現実で見たのか。
坂道を登って、一人で登校して、授業や休み時間の間が、数少ない癒しの時間になっていた。あの少女は、その学校で優等生で、勉強だけが取り柄だった。逃げ場は勉強、それだけで。いつも、卯月と同じように傷跡を隠して、他の生徒や教師に感付かれない様、気をつけて。昼休みは図書室で過ごして、仲の良い先生がいて。
卯月の視線は、デスクに座ったまま、時が止まったかのようにその風景へ注ぎ込まれる。隣のデスクに座っていた部下は、その様子を少し心配そうに一瞥したが、すぐに仕事へと戻る。
あくまで、動揺は顔に現れないように。卯月は思わず叫び出しそうになるほどの衝撃を堪え、冷静に在ろうとした。
手が震える。喉の奥から、また何かが込み上げてくる。
それは、まるで記憶に手がかかる度、自分の心がそれを止めようとしているかのような吐き気で。
しかし、卯月は足を止めない。
口元に手を当てると、思わず席を立つ。周囲の人間に悟られない様、落ち着いた様子で部署を後にする。
大丈夫。大丈夫。
自分に言い聞かせ、何度も胃がひっくり返りそうになるのを、必死で抑え込む。鼻から大きく息を吸い込んで、不快感を取り除こうとした。
微かに嗚咽が漏れた。
口の中に、唾液が溢れる。どこから出て来たのかと思う程、それは一気に押し寄せ、いよいよ我慢も長く持たないことを察した。
トイレの洗面所で、静かに口を揺すぎながら、卯月は赤くなった目を鏡越しに見る。誰が見ても、何かあったと察してしまうような、眼球の充血。口の端に着いた水滴を手の甲で優しく拭い、少し荒れた呼吸を整えた。
きっと、初めてあの資料を見た時は、何も思い出せなかった。確かに既視感は感じたかもしれない。だが、それに通じる記憶が何もない。ただ、何故か見覚えのある学校、としか映らなかった。
だが今は違う。
椎名によって、記憶の扉がゆっくりと開かれ、帰ってきてからも自ら、更に開け放ってしまった。それによって、あの学校と自分の記憶とを結びつける思い出が、次々と頭の中に見つかった。
段々と、身体がこのストレスに慣れているのだろう。思っていたよりも早く収まった、吐き気と手の震え。卯月は軽く息を吐くと、鏡の前から立ち去った。
デスクへ戻って、改めて写真を見る。そこに映っている学校は、やはり、夢の中で見た——恐らくだが——あの学校と酷似している。
きっと、この学校が、あの家を探す手掛かりとなる。それは強い確信と、僅かな焦りを産み落とした。
ゆっくりと、全文に目を通す。住所が書いているかもしれない。そう思ってみていると、以外にもそれはあっさりと見つかった。
千葉県春見市、桜木台3丁目18番。千葉県春見第三中学校。
どうやら、この中学校はそこに存在しているらしい。聞き覚えの無い住所だったが、どうも自宅からすぐに迎える様な距離ではない。
昼休み、食堂でその住所をナビに入力したところ、車で凡そ一時間。それも高速道路を使った場合での時間だった。距離にして40kmを越える道のり。
卯月は余計に頭が混乱した。
千葉県の、おまけに都心とはお世辞にも言い難い場所。マップを見てみると、住宅街を少し抜けるだけで山林や農地が広がっている。どれほど自分のことと照らし合わせて見たところで、何の関連する記憶もなかった。
いっそ、あの中学校がただの、そんな気がするだけの学校。と言われた方が、まだ腑に落ちる程である。
辺りが騒がしくなっていく中、卯月は携帯を置いて、味噌汁を飲み干す。静かに手を合わせると、食器を返却口に返した。
場所を移そうと、喫煙所へ向かう。昼休みが終わるまで、まだ少し時間があった。
一体、どうしてこんな場所の、恐らく縁も所縁もない学校に、自分が既視感を感じたのか。何故、直感的にあの学校が自分の謎を解く手掛かりに思えたのか。
思考を巡らせるが、その答えは出て来ない。
トイレで手を洗った後、鞄から煙草を取り出しつつ、スライドドアを開ける。いつも見かける部長の姿はまだない。一人でじっくり考え事をするには、丁度良い。
煙草の先に火を移し、ゆっくりと肺に煙を落とす。不安や、恐怖を感じていない訳では無い。
調べるだけでは駄目だ。それは分かっている。だが、もしもこれで本当に、あの家を見つけてしまったら。
あの少女を、見てしまったら。
卯月は、また自分の中に弱い心が芽を出していることに気付く。
そもそも、わたしは一体、いつ彼女の姿を見たのだろう。
そんな矛盾に、ふと目が行った。
仮に、夢の中で見ているあの少女が中学1年生で、あの学校、春見第三中学校に通っているとして。
——それは、一体いつの記憶なのか。
卯月は、唇に挟んだ煙草を見つめながら、ぼんやりと考えた。
一筋の煙が登り、天井のファンにゆっくりと吸い込まれていくのを眺める。何か、大切なことを見落としているような。得も言われぬ不安感が胸を突く。
もし、あの夢が椎名の言う通り、過去の記憶。その断片だとしたら。
あの少女は、もうすっかり大人になっているはずで。
仮に悪夢を見始めた、7年前。その辺りで彼女を見かけていたとしても、あの少女が中学生なら、今は——。
そう思った瞬間、鉛を飲んだ様に身体が重くなる。
わたしは、一体誰を救おうとしているのだろうか。
あの少女は、過去の誰か。どこかで出会った、かつての存在だというのなら、夢に出てきて助けを求めている存在は、どこにいるのだろうか。
自分が見ているはずの悪夢。しかし、他人の身体を預かっているような感覚。借り物の記憶、経験、習慣。
もしかしたら、彼女はもう、あの地獄から抜け出しているのでは。
そして代わりというように、わたしだけが、あの少女を見捨てた償いとして、悪夢にいつまでも捕らえられているのでは。
これまで、悪夢を何とかしたい。そう思っていた気持ちは、彼女を救いたい。というものへと変わっていった。
そこには明確なゴールが存在していて、そこに向かって走っていれば良かった。だが今は違う。
違和感。
あの少女の事を知れば知るほど。その存在に近づけば近づくほど。
卯月は目の前にあった道が崩れていくような気持ちになる。
気が付くと、就業時間は終わっていた。辺りが一気に騒がしくなり、デスクの上を片付ける音や、部下たちの話し声。その喧騒に気付いて、卯月もゆっくりと肩を回して、パソコンの電源を落とした。
目頭をつまみ、顔を上に向ける。今日はいつもより疲れている気がして、肩を軽く回した。
27歳。年齢的にも、体力が衰え始めているのだろうか。そんな考えたくないことをつい考えてしまう。
それに、あの少女も、もし自分が同じ、中学生の頃に目にしていたなら——きっと、同じ年齢で、どこかで今日も働いていたのだろうか。
そんな事をまた考えてしまい、慌てて振り払う。これ以上考えてしまうと、解決に踏み出す勇気まで失ってしまいそうで。
少し躊躇った後、周りの目を少し気にしながら、中学校の写真が載った資料をカバンの中に忍ばせる。職場の資料を持って帰るというのは、卯月にとって紛失のリスクを考えて、普段なら絶対にしない行動であったが、やむを得ない。
鞄を肩にかけ、椅子を引いて立ち上がる。この後の事を考えると気乗りしないからか、いつもよりも長い時間をかけて、片付けを行っていた。先ほどまで賑やかだった部署内は、いつの間にか数名が残っているのみになっていた。
その内の一人、千久間も今しがた、ビジネスバッグを手に退室しようとしていた。
「お疲れ様です、部長」
千久間は眠たげな眼を細めてあくびをすると、手をひらひらと振って、扉の向こうへ消えていった。
時刻は17時。日が落ちるのも遅くなって、外はまだ西日が差し込み続けていた。
正面玄関を出て、駐車場へ向かう。その間に、携帯を取り出して、地図アプリを起動した。
経路案内を起動し、目的地をあの中学校にする。きっと、これを後回しにしてしまったら、どんどん勇気が削がれていく。そんな気がして、仕事終わりに車を走らせることにした。
片道、約1時間。向こうでも辺りを見てみようと考えているので、実際は更に帰宅が遅くなるだろう。明日も仕事が早いから、早く家で休みたい。そう思わない訳では無かったが、この気持ち悪さ、記憶の矛盾点を抱えたまま、眠る気にもなれなかった。
手掛かりが掴めるとも限らない。
徒労に終わるかもしれない。
それでも、何もしないよりは良い気がして、鞄の上から吸入薬に手をかけた。
準備は出来ている。
車の扉に手をかけると、電子音の後に鍵が開く。
——もう逃げたくない。
心の中で自らに言い聞かせ、車をゆっくりと動かす。西日が照らす町並みを背に、車は静かな振動を車内に届けながら、走り出した。
仕事が終わり、家に帰る車たちの流れで、途中までは道が混雑していた。しかし、それを抜けて都市部を離れると、交通量は一気に減少する。東京と言えど、少し大通りを離れれば何のことはない。
高速道路の案内板が見える頃には、空はすっかり夕暮れに染まり、東の空は墨が滲む様に青く染まりつつあった。
料金所を抜け、スロープを昇っていく。パワー不足を感じさせることもなく、僅かに卯月の身体をシートへ沈み込ませる。そのまま車は、真っすぐ続く道路を軽快に進んだ。
夕焼けがフロントガラスに差し込み、視界の端に赤くにじむ。家の方向とは殆ど反対に過ぎていく景色をミラー越しに見ながら、卯月はハンドルを握る手に力を込めた。
車内は静かだった。いつもはオーディオを流しているのだが、今日はそんな気持ちにもなれなかった。タイヤがアスファルトを擦る音が微かに聞こえる中、視線は前を見たまま、ドリンクホルダーに差した灰皿に手を伸ばす。
窓を僅かに開けると、夕暮れの匂いが車内に入って、抜けていく。片手で器用に煙草を咥え、火を付ける。気を落ち着ける様に煙を吐くが、胸のざらつきはいくらも良くならない。
助手席の鞄に入った、あの資料。卯月は改めて、自分らしくない行動だと溜息を吐いた。
思い付きで行動する様な人間ではない。冷静に、落ち着いて物事を考える。意識して、そうあろうとしていたはずなのに。
思わず口元が自嘲的に歪む。だが声は出なかった。




