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Sangría  作者: なすみ
12/16

12話

 わたしは、この中学校を知っている。

 根拠より先に、直感が割り込んだ。

 記憶の再生を、卯月自身も止められない。ただ頭の中に流れ続ける景色。それを夢で見たのか、あるいは現実で見たのか。

 坂道を登って、一人で登校して、授業や休み時間の間が、数少ない癒しの時間になっていた。あの少女は、その学校で優等生で、勉強だけが取り柄だった。逃げ場は勉強、それだけで。いつも、卯月と同じように傷跡を隠して、他の生徒や教師に感付かれない様、気をつけて。昼休みは図書室で過ごして、仲の良い先生がいて。

 卯月の視線は、デスクに座ったまま、時が止まったかのようにその風景へ注ぎ込まれる。隣のデスクに座っていた部下は、その様子を少し心配そうに一瞥したが、すぐに仕事へと戻る。

 あくまで、動揺は顔に現れないように。卯月は思わず叫び出しそうになるほどの衝撃を堪え、冷静に在ろうとした。

 手が震える。喉の奥から、また何かが込み上げてくる。

 それは、まるで記憶に手がかかる度、自分の心がそれを止めようとしているかのような吐き気で。

 しかし、卯月は足を止めない。

 口元に手を当てると、思わず席を立つ。周囲の人間に悟られない様、落ち着いた様子で部署を後にする。

 大丈夫。大丈夫。

 自分に言い聞かせ、何度も胃がひっくり返りそうになるのを、必死で抑え込む。鼻から大きく息を吸い込んで、不快感を取り除こうとした。

 微かに嗚咽が漏れた。

 口の中に、唾液が溢れる。どこから出て来たのかと思う程、それは一気に押し寄せ、いよいよ我慢も長く持たないことを察した。

 トイレの洗面所で、静かに口を揺すぎながら、卯月は赤くなった目を鏡越しに見る。誰が見ても、何かあったと察してしまうような、眼球の充血。口の端に着いた水滴を手の甲で優しく拭い、少し荒れた呼吸を整えた。

 きっと、初めてあの資料を見た時は、何も思い出せなかった。確かに既視感は感じたかもしれない。だが、それに通じる記憶が何もない。ただ、何故か見覚えのある学校、としか映らなかった。

 だが今は違う。

 椎名によって、記憶の扉がゆっくりと開かれ、帰ってきてからも自ら、更に開け放ってしまった。それによって、あの学校と自分の記憶とを結びつける思い出が、次々と頭の中に見つかった。

 段々と、身体がこのストレスに慣れているのだろう。思っていたよりも早く収まった、吐き気と手の震え。卯月は軽く息を吐くと、鏡の前から立ち去った。

 デスクへ戻って、改めて写真を見る。そこに映っている学校は、やはり、夢の中で見た——恐らくだが——あの学校と酷似している。

 きっと、この学校が、あの家を探す手掛かりとなる。それは強い確信と、僅かな焦りを産み落とした。

 ゆっくりと、全文に目を通す。住所が書いているかもしれない。そう思ってみていると、以外にもそれはあっさりと見つかった。

 千葉県春見市、桜木台3丁目18番。千葉県春見第三中学校。

 どうやら、この中学校はそこに存在しているらしい。聞き覚えの無い住所だったが、どうも自宅からすぐに迎える様な距離ではない。

 昼休み、食堂でその住所をナビに入力したところ、車で凡そ一時間。それも高速道路を使った場合での時間だった。距離にして40kmを越える道のり。

 卯月は余計に頭が混乱した。

 千葉県の、おまけに都心とはお世辞にも言い難い場所。マップを見てみると、住宅街を少し抜けるだけで山林や農地が広がっている。どれほど自分のことと照らし合わせて見たところで、何の関連する記憶もなかった。

 いっそ、あの中学校がただの、そんな気がするだけの学校。と言われた方が、まだ腑に落ちる程である。

 辺りが騒がしくなっていく中、卯月は携帯を置いて、味噌汁を飲み干す。静かに手を合わせると、食器を返却口に返した。

 場所を移そうと、喫煙所へ向かう。昼休みが終わるまで、まだ少し時間があった。

 一体、どうしてこんな場所の、恐らく縁も所縁もない学校に、自分が既視感を感じたのか。何故、直感的にあの学校が自分の謎を解く手掛かりに思えたのか。

 思考を巡らせるが、その答えは出て来ない。

 トイレで手を洗った後、鞄から煙草を取り出しつつ、スライドドアを開ける。いつも見かける部長の姿はまだない。一人でじっくり考え事をするには、丁度良い。

 煙草の先に火を移し、ゆっくりと肺に煙を落とす。不安や、恐怖を感じていない訳では無い。

 調べるだけでは駄目だ。それは分かっている。だが、もしもこれで本当に、あの家を見つけてしまったら。

 あの少女を、見てしまったら。

 卯月は、また自分の中に弱い心が芽を出していることに気付く。

 そもそも、わたしは一体、いつ彼女の姿を見たのだろう。

 そんな矛盾に、ふと目が行った。

 仮に、夢の中で見ているあの少女が中学1年生で、あの学校、春見第三中学校に通っているとして。

 ——それは、一体いつの記憶なのか。

 卯月は、唇に挟んだ煙草を見つめながら、ぼんやりと考えた。

 一筋の煙が登り、天井のファンにゆっくりと吸い込まれていくのを眺める。何か、大切なことを見落としているような。得も言われぬ不安感が胸を突く。

 もし、あの夢が椎名の言う通り、過去の記憶。その断片だとしたら。

 あの少女は、もうすっかり大人になっているはずで。

 仮に悪夢を見始めた、7年前。その辺りで彼女を見かけていたとしても、あの少女が中学生なら、今は——。

 そう思った瞬間、鉛を飲んだ様に身体が重くなる。

 わたしは、一体誰を救おうとしているのだろうか。

 あの少女は、過去の誰か。どこかで出会った、かつての存在だというのなら、夢に出てきて助けを求めている存在は、どこにいるのだろうか。

 自分が見ているはずの悪夢。しかし、他人の身体を預かっているような感覚。借り物の記憶、経験、習慣。

 もしかしたら、彼女はもう、あの地獄から抜け出しているのでは。

 そして代わりというように、わたしだけが、あの少女を見捨てた償いとして、悪夢にいつまでも捕らえられているのでは。

 これまで、悪夢を何とかしたい。そう思っていた気持ちは、彼女を救いたい。というものへと変わっていった。

 そこには明確なゴールが存在していて、そこに向かって走っていれば良かった。だが今は違う。

 違和感。

 あの少女の事を知れば知るほど。その存在に近づけば近づくほど。

 卯月は目の前にあった道が崩れていくような気持ちになる。

 気が付くと、就業時間は終わっていた。辺りが一気に騒がしくなり、デスクの上を片付ける音や、部下たちの話し声。その喧騒に気付いて、卯月もゆっくりと肩を回して、パソコンの電源を落とした。

 目頭をつまみ、顔を上に向ける。今日はいつもより疲れている気がして、肩を軽く回した。

 27歳。年齢的にも、体力が衰え始めているのだろうか。そんな考えたくないことをつい考えてしまう。

 それに、あの少女も、もし自分が同じ、中学生の頃に目にしていたなら——きっと、同じ年齢で、どこかで今日も働いていたのだろうか。

 そんな事をまた考えてしまい、慌てて振り払う。これ以上考えてしまうと、解決に踏み出す勇気まで失ってしまいそうで。

 少し躊躇った後、周りの目を少し気にしながら、中学校の写真が載った資料をカバンの中に忍ばせる。職場の資料を持って帰るというのは、卯月にとって紛失のリスクを考えて、普段なら絶対にしない行動であったが、やむを得ない。

 鞄を肩にかけ、椅子を引いて立ち上がる。この後の事を考えると気乗りしないからか、いつもよりも長い時間をかけて、片付けを行っていた。先ほどまで賑やかだった部署内は、いつの間にか数名が残っているのみになっていた。

 その内の一人、千久間も今しがた、ビジネスバッグを手に退室しようとしていた。

「お疲れ様です、部長」

 千久間は眠たげな眼を細めてあくびをすると、手をひらひらと振って、扉の向こうへ消えていった。

 時刻は17時。日が落ちるのも遅くなって、外はまだ西日が差し込み続けていた。

 正面玄関を出て、駐車場へ向かう。その間に、携帯を取り出して、地図アプリを起動した。

 経路案内を起動し、目的地をあの中学校にする。きっと、これを後回しにしてしまったら、どんどん勇気が削がれていく。そんな気がして、仕事終わりに車を走らせることにした。

 片道、約1時間。向こうでも辺りを見てみようと考えているので、実際は更に帰宅が遅くなるだろう。明日も仕事が早いから、早く家で休みたい。そう思わない訳では無かったが、この気持ち悪さ、記憶の矛盾点を抱えたまま、眠る気にもなれなかった。

 手掛かりが掴めるとも限らない。

 徒労に終わるかもしれない。

 それでも、何もしないよりは良い気がして、鞄の上から吸入薬に手をかけた。

 準備は出来ている。

 車の扉に手をかけると、電子音の後に鍵が開く。

 ——もう逃げたくない。

 心の中で自らに言い聞かせ、車をゆっくりと動かす。西日が照らす町並みを背に、車は静かな振動を車内に届けながら、走り出した。

 仕事が終わり、家に帰る車たちの流れで、途中までは道が混雑していた。しかし、それを抜けて都市部を離れると、交通量は一気に減少する。東京と言えど、少し大通りを離れれば何のことはない。

 高速道路の案内板が見える頃には、空はすっかり夕暮れに染まり、東の空は墨が滲む様に青く染まりつつあった。

 料金所を抜け、スロープを昇っていく。パワー不足を感じさせることもなく、僅かに卯月の身体をシートへ沈み込ませる。そのまま車は、真っすぐ続く道路を軽快に進んだ。

 夕焼けがフロントガラスに差し込み、視界の端に赤くにじむ。家の方向とは殆ど反対に過ぎていく景色をミラー越しに見ながら、卯月はハンドルを握る手に力を込めた。

 車内は静かだった。いつもはオーディオを流しているのだが、今日はそんな気持ちにもなれなかった。タイヤがアスファルトを擦る音が微かに聞こえる中、視線は前を見たまま、ドリンクホルダーに差した灰皿に手を伸ばす。

 窓を僅かに開けると、夕暮れの匂いが車内に入って、抜けていく。片手で器用に煙草を咥え、火を付ける。気を落ち着ける様に煙を吐くが、胸のざらつきはいくらも良くならない。

 助手席の鞄に入った、あの資料。卯月は改めて、自分らしくない行動だと溜息を吐いた。

 思い付きで行動する様な人間ではない。冷静に、落ち着いて物事を考える。意識して、そうあろうとしていたはずなのに。

 思わず口元が自嘲的に歪む。だが声は出なかった。


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