11話
月曜日。
足に残る疲労を感じながら、ゆっくりとアクセルを緩めて駐車場へ車を停める。シフトをパーキングに入れると、そのままシートを倒して今すぐ横になりたい。そんな気持ちになった。
昨日、ほとんど一日をかけて、あの家について調べていた。それが響いているのだろう。
朝から地図アプリや、ストリートビュー、様々な検索ワードを使って、膨大なネットの海を探して。
分かっている情報など、あの家がある場所は、恐らく日本のどこか。その程度しかない。自分のかつて住んでいた場所すら覚えていない事に気付いたのは、その調べ物をしている最中だった。
思い返してみれば、自分が生まれた場所を知らない。通っていた学校を知らない。いつの間にか大人になっていて、そして、悪夢を見て。
それに気付いた時、まるでさっきまで何の変哲もないと思っていた地面が、途端に頼りないものに思える様な。足を取られ、沈み込んでいくような感覚を抱いた。
これも、もしかしたら病気の一つかもしれない。卯月はそう思いながら、それでも何とかあの家、それに繋がる、どんな些細なものでもいい。何か手掛かりを。と思って指を携帯に走らせ続けた。
だが、結局。日曜日は徒労に終わった。
いつ寝ていたのかも分からない。気が付くと、アラームが大音量で鳴り響いており、跳ねる様に飛び起きて、今に至る。
腕時計を見る。副部長へと昇進した際、千久間部長から頂いた物だった。ピンクゴールドの細身のフレームに、艶を抑えたアイボリーの文字盤。華美ではないが、確かな存在感がある。
頂いた箱を開けた時の、彼のはにかむ様な表情を今でも憶えている。
——へそくりで買ったから、大事にしてね。
曰く、妻に財布の紐を握られているらしく、これはこっそりと買ったものらしい。その言葉に、理屈ではなく胸の奥が暖かくなったのを今でも思い出す。
その瞬間だけ、ほんの少しだけ、あまつさえ困ったことに。
——この人の事をちょっと気に入ってしまったのかもしれない。
そう思った。勿論、次の瞬間には理性が否定した。気の迷い、寝不足、そういう一過性の物。
それでもあの時、認めてもらいたい人に、認められた。その事を嬉しく思った。
時刻はいつも通り、就業開始の30分前。卯月は仮眠を諦める様に溜息を吐くと、エンジンを切って車を降りた。頭の重心が傾いているかの様な疲労感を感じつつ、ヒールを鳴らして正面玄関へと向かう。
鞄からチップの埋め込まれた社員証を取り出すと、ゲートへかざす。音もなく、改札のようなそれが開き、受付に会釈をして通り過ぎる。
エレベータを待っている間に、手鏡を取り出した。自分の顔をもう一度確認して、髪型や着衣に乱れたところがないか、確認する。
目的の階へ着くと、自分の部署、ではなくトイレへと向かった。
いつもの様にハンドソープを取り出して、手を洗う。まるでそれが就業へ通じる儀式かの様に、念入りに。爪の間まで泡を付け、念入りに。
そうして椅子へ座る頃には、丁度15分前。卯月が扉を開けた時、元気良く挨拶をしてくれた部下たちは、また真剣な面持ちでパソコンへと向かっていたり、慌ただしく動いたりしている。卯月は椅子に掛けると、パソコンの電源を立ち上げた。そしてその間に、必要なものを取り出す。
フラッシュメモリ、筆箱、メモ帳、付箋に飲み物として、ミネラルウォーター。いくらデジタルが主流な現代といえど、結局は紙の媒体、アナログなそれが必要になる場面はいくらでもある。主に、千久間のような人間に対して、ではあるが。
それらをデスクの端へ、いつもの配置通りに整えていると、不意に後ろから声が掛かった。
「卯月くん」
ややあって振り返ると、そこには部長が立っていた。
いつも通り、白髪交じりの黒髪をまとめ、綺麗に結ばれたネクタイに、皺ひとつないジャケット。スラックスや靴には一切の汚れもついていない。
部長として、それは当然の行いかもしれない。風紀を乱さず、皆の規範になる様に。しかし、卯月すらも彼のそんなお手本染みた、一糸乱れぬ外観に、いつも背筋が伸びる思いだった。
そんな千久間は、しかし卯月が振り返るや否や、顔の前で手を合わせた。申し訳なさそうに顔に皺を寄せ、困り眉を潜める。
「……ごめん、朝から」
「何がですか?」
卯月は怪訝な声を返す。だが、既に察しは付いている。千久間がこの調子で声をかけてくる。それは大抵、パソコンのトラブルだ。
あるいは、それ以前のトラブルだった。
「この前伝えた、地方の学校との提携、あったでしょ? あれの資料をデータで送れって言われたんだけど……」
思わず、天井を見上げる。蛍光灯が白い光を部署内に届けている。
溜息を飲んで、ゆっくりと顔を千久間へ向けた。
「送れなかったんですか?」
「うん……いや……。デスクトップ? にあるのは分かるんだけど、何故か書き込めなくて……」
恐らくPDF形式だからだろう。卯月はトラブルの原因を断定した。
ExcelやWordと違い、直接文字を入力するには——部長に対しては——難易度が高い。
卯月はどう説明したものか、僅かに悩む。口に手を当て、深く息を吐く。
「だったら、手書きしてください。それをプリンターに読ませて、部長のPCに飛ばしてください。それを送付すれば完了です」
我ながら、分かりやすい説明だと思った。
だがそれは、あくまPCについて、多少の知識がある人にとっては、だった。
千久間は困った様に頭を掻く。それは大抵、彼が解決できない問題を抱えている時に出る癖であると、卯月は知っていた。
「……それって、プリンターのボタンの、どれを押せばいいかな?」
卯月は、思わず口を開いた。唖然として、言葉が出て来ない。
ややあって、ようやく言葉を絞り出した。
「部長、まさかとは思いますが……スキャンの仕方もご存じ無いんですか?」「失敬な、スキャン位は分かるよ。昔、うちにもFAX電話があってね。受話器の下にスキャナがくっついていてね。有線だったけど、あれで書類をシュッとなぞったら、FAXが送れてね」
懐かしむような発言に、卯月は思わず眉を潜める。
代わりに返事をしたのは、近くのデスクで仕事をしていた年配の従業員達だった。
「部長、懐かしいですね。自分も子供の頃、親に教わってやらせてもらいましたよ。でもなぞる時、まっすぐに降ろさないと字が潰れて、FAX先から解読不能って電話がかかってくるんですよね」
また別の従業員が答える。
「そうそう、ちょっとでも斜めになると、ひらがななんか読めたもんじゃなくて。あと、原稿が何枚もあると腕が攣りそうになるし」
「そもそも、なぞる手の速度が遅いと、黒く塗りつぶされたみたいになりましたよね。あたし、前の会社でやっちゃって怒られたんですよね」
口々に発せられる、昔を懐かしむやり取り。卯月を含めた若い従業員は、ポカンとした様子で話を聞いている。
千久間が思い返す様に目を細めていた。
「でも、なんだかんだで、今のより手軽だった気がするんだよな。操作が単純というか、ボタンが少なくて。今のプリンターは全部液晶をタッチして操作するから……」
「いえ、今の複合機の方が遥かに便利です」
卯月がきっぱりと断じると、千久間は笑って肩を竦めた。同じように、近くにいた年配の従業員達も、小さく笑った。
「時代が変わると、常識も変わるってね。じゃ、頼れる卯月副部長のレクチャーを受けながら、現代のシュッを体験しようか」
「……その言い方、止めて下さい。仕事がアナログに感じてきます」
千久間の後を追いながら、卯月はこの間のように、千久間のデスクへと移動する。その上に広げられている、様々な書類。各々が好き勝手な向きで散らばっている中、彼は角がホッチキスで止められた書類を手に取る。
「これこれ。記入は済ませて、印鑑も押してあるから、後は送るだけなんだけど……」
手渡されたその書類に、卯月はパラパラと捲りながら目を通す。そして、おもむろに卓上へ置いてあったホッチキスのリムーバーで、針を外した。
「え、何か不備でもあった?」
慌てて聞く千久間に、卯月は書類の角を改めて整えながら言った。
「いえ、問題無いと思われます。ただ、まとまっているとスキャンに時間がかかりますから」
針を折りたたんで、ごみ箱へ入れる。千久間は顎をさすりながら、感心したように言った。
「なるほど?」
「……多分分かっていらっしゃらない様なので大丈夫です」
卯月は部屋の真ん中にあるコピー機へと向かった。トレイを持ち上げ、書類をそこへ挿入する。
手際よく液晶へ指を滑らせると、すぐに静かな唸りを発して、初めの紙が吸い込まれた。
送信先は、千久間のPCに設定してある。スキャン中の文字が表示され、すぐに次の書類を読み込み始めた。
「あとは少し待てば、PCに全て送信されます。それをメール添付で送るだけです」
「へえ、意外と楽なんだね。てっきりもっと複雑だと思ってた」
すっかり元の調子を取り戻した部署へ、小さな駆動音が響く。卯月は特に相槌も打たず、液晶パネルにスキャン完了と表示されるのを待った。
「……出来ました。PCに届いたはずです。確認して、送信して頂ければ大丈夫かと思われます」
「ああ、うん……。……出来るかな」
こちらまで不安になる一言を残して、千久間はデスクへと戻る。
卯月はその背を見送ってから、ゆっくりと息を吐いた。書類をただ読み取って、どこかへ送る。そんな単純極まる作業に、これほどまでに神経をすり減らすのは、きっと彼が普通の上司過ぎるからだ。冗談も、仕事への姿勢も、嘘のないまっすぐな性格も。
だからこそ、卯月は自分の輪郭を保とうとする。彼の様に、いつの間にか人の内側へ踏み込んで、恨もうにも恨めない、そんな善人への対策として。
彼女は再び、自室へと戻る。手に持っている、スキャン元の書類。確か以前、CSR活動の一環として、地方自治体との提携を本社が検討しており、部長に意見を求めた時の書類だったはずだ。
概要などが書かれていて、ミスプリントがないか、目を通した記憶がある。卯月はそんなことを思いながら、ページの順番が間違っていないか、目を通す。
それからホッチキスをしよう。そう考えて、特に意味もなくページに目を通していると、思わず手が止まった。
そのページは、以前既視感を憶えて、同じように手を止めてしまったところだった。
大通りを避ける様にして建てられた、古い中学校。満開の桜と、楽しそうに笑う生徒。坂道、雑木林、白い平屋の校舎。右奥には、小さなグラウンド。
またこの既視感だ。
卯月は冷静に、それを眺めた。何か頭の中がむず痒いような、もう少しで思い出せそうな感覚へ陥る。
閃きは、唐突だった。
——知っている。
夢の中で、少女が見ていた家。それと関係する建物だと、卯月は瞬時に理解した。




