10話
朝、いつものようにアラームへ手をかける。首の座らない赤ん坊の様に、ぐらぐらと重心を失った頭をなんとか保持し、手を着いて起き上がる。
スイッチを切り替える様に、大きく息を吸いこむ。起きる事を拒む瞼を擦り上げ、あくびをしながら腕を伸ばす。
昨夜も、よく眠れなかった。
いったいいつ寝たのか、その記憶すら曖昧である。ただ憶えているのは、またアルコールに頼ってしまった、ということだけ。
何をしていても、その全てがあの家での記憶と重なってしまう気がして、起きながらに悪夢を見させられている様だった。
食事も、入浴も、読書も、ただぼうっと煙草を吹かしている間すら。どこか自分の見えない場所で、あの男が立っているような。少しでも気を抜けば、あの記憶を想起させようとしてくるような、そんな恐怖。
それから逃れるためには、アルコールで脳を麻痺させ、無理矢理に就寝するしかなかった。それで一時的にすら忘れられた訳では無かったが、素面でいると、狂ってしまいそうだったから。
恐怖に圧し潰され、正気ではいられそうもなかったから。
氷をいっぱいに入れたコップへ水道水を注ぎ、一息に飲み干す。乾燥しきった喉へ、冷気が流れ込むのを感じて、ようやく少し意識が明瞭になった。
未だ喉に残る、胃液の名残を感じて、そういえば昨日は何も食べていなかったことに気付く。
熱いシャワーでも浴びよう。そう思い、ふらつく足と疲れの取れていない身体を引きずって、洗面所へ向かった。またあくびを吐き、目尻に涙が浮かぶ。手の甲で擦ると、ぴりりと僅かに痛んだ。
洗濯機に手をかけ、脱いだ服をゆっくりと放り込む。身体が汗でべたついて気持ち悪い。自分がとても不潔な状態に思えて、早く湯で洗い流したい。
そんなことを考えながら、ふと、鏡に目が映る。
「……」
沈黙の中、その中に映った姿を見る。それは紛れもなく自分で、あの少女の姿は見えない。自分は幻覚を見てしまうほど精神的に追い込まれている訳では無いらしい。そう思うと少しの安堵が湧いてくる。だが同時に、また夢の中での一場面がフラッシュバックした。
青白い肌。中学生としても細すぎる四肢。手足の先端や、首、顔に出来た痣。疲弊して、寝不足の顔。怯えた表情。何かに耐えるよう、固く結ばれた唇。
そして、傷の消えた右耳。
そんなあの少女の姿が、どこか今の自分にも重なる気がして、鏡から暫く目を離せずにいた。
ずっと日差しと人の目を避けている、青白い皮膚。不健康に細い手足。服を脱いだことで露わになった、染みのようにあちこちへ出来た打撲痕に、擦過創。実年齢よりも老けて見える、目の下を占拠する隈。恐怖の染み付いた顔に、それをずっと黙って耐えてきた唇。
思わず、右耳に手を伸ばす。その指先は震えながら、まるで傷口に触れるかのようにゆっくりと、触った。
当然、そこに傷はない。だが、あの時感じた痛みだけは、鮮明な記憶として呼び起こされていた。
皮に刃が通り、火傷をしたかと思った次には、痛みとして脳を駆け巡る。軟骨を、刃が滑る、形容しがたい音。意識を手放しそうになる痛み。
卯月は目を見開いたかと思うと、洗面所に顔を伏せた。込み上げてくるものを必死で抑え込み、何度もその細い背中が跳ねる中、気が付けば代わりに涙がこぼれていた。
朝の光がカーテンに遮られた、薄暗い家の中。彼女の嗚咽だけが反響する。きっと、これまでの卯月なら。そんな自分を襲う苦痛に耐えかね、カウンセリングの時に抱いた決意も何も、気の迷いと思っただろう。
記憶を思い起こすだけで、これ程の苦しさ。実際にあの家について深く考えれば、それ以上の副作用が訪れる事は、考えずとも理解出来た。
だが、彼女は変わった。
口の端から涎を垂らし、顔は涙と鼻水で汚れている。思わず鏡に映った姿を見て、みっともないな。と、嫌に冷静に捉える自分もいた。
けれど、彼女をきっと、過去そうしたように。また見て見ぬ振りをするのは、それ以上にみっともない。
悪夢とこれからも付き合っていくのかもしれないし、受け入れてしまえば何のことはないのかもしれない。ひょっとしたら、あの悪夢自体を見なくなるかもしれない。
夢の中で、顔の見えない男に媚び、諂い、奴隷として、夢として、割り切ってしまえば、悪い風にはされないかもしれない。
けれど。
そんな風に、見て見ぬ振りをして、惨めな気持ちになるのは、もう嫌だ。
「うう……」
呻き声を上げて、洗面所の縁に手を着く。ゆっくりと、悲鳴を上げる身体に鞭を打ち、鏡を睨みつけた。
そこに映った、かつてあの少女をどこかで目にし、そして、その場から逃げた弱い自分を、断ち切るかのように。
恐怖がない訳では無い。むしろ、少しでも気を緩めると、それが足元から這い登ってくるような感覚を憶えていた。
怖い。逃げたい。見なかったことにしたい。助けて欲しい。
いろんな感情が堰を切った様に溢れ出る。
何でわたしだけ。しんどい。辛い。苦しい。それでも。
——それでも、卯月はただ、弱い自分を睨んだ。
ここで逃げたら、わたしは一生後悔する。
倒れこむようにして、洗面所を離れる。足はもつれ、喉の奥が熱を持つ。吐き気は相変わらず、彼女の胃をひっくり返さんと責め立てる。呼吸がそれに乗じたように、乱れ始める。
なんとか廊下へ達する頃には、この間のように、吸入薬を手に取っていた。それを肺の奥へ流し込む。舌の奥から薬の味が登ってくる。呼吸がこれで少し楽になっているのか、あるいは効果がないのか。今の彼女には、それすらどうでもよかった。
震える手で、鞄の中からメモ帳とペンを掴む。廊下に這いつくばったまま、何度も胃液を傍へ垂らしながら、ひたすらそこへ書き殴る。
玄関をくぐり、左に廊下。突き当りを更に曲がると左へトイレがあって、右にはリビングとを隔てる扉。くぐると大きなリビングとダイニングがあって、左奥が和室。奥にはキッチン。右奥に洗面所と浴室。その右隣には階段。折り返して上る。
ページを乱暴に捲った。
二階へ上がってすぐ、左後ろにトイレ。観葉植物と洗面所があって、突き当たりには自室。その隣には、顔の見えない男の部屋。
もう一度、ページを次へと捲る。端が破れて、音を出す。
この行為が、果たして何の意味を持っているか。あの少女を助ける手掛かりになるのか。卯月自身も分からない。
ただ、直感に従っていた。
記憶の海底から引き揚げた、忘れようとしていたこと。それらをただ、思いつくままに書き連ねる。線は乱れ、文字は卯月以外が判読出来ないような乱雑さ。まるで幼稚園児がクレヨンで書いたような。
それすら、今は気にしている余裕もない。既に頭の中には、その家から見える景色や細部の記憶が、勝手に湧き上がってきていたのだ。
玄関の横にあった、やけに小さな窓。細長いガラスが何枚も重なって、ハンドルを回すと外気を取りこめた。そこから見える景色に、赤茶けたトタンの塀が見えた。
庭は広く、玄関を出ると飛び石が埋められていた。それらを歩いていくと、背の高いレンガで出来た塀に、門扉があった。インターホンが外に向いていて、ポストはモダンなデザイン。よく夕刊を取ってから、家に帰っていた。
ポストの横に、注意書きのステッカーが貼ってあった。色褪せていたが、それがあったという事は覚えていた。
——猛犬注意だった気がする。
キッチンの換気扇は新しく、灰色のフードに着いた煙草の脂を落とすのが大変だった。捨てる予定の雑巾で拭くと、ねばついた脂と、料理で飛んだ油とが、引っかかる手の感覚を憶えていた。
そして何よりも、卯月の手が止まったのは——思い出した自室の様子だった。
勉強机と、ベッド。ゴミ箱に、大きなクローゼット。その空間を持て余す、僅かな枚数の服。
衣装ケースには使わなくなって久しい毛布が、大きすぎる容器に入れられていた。
三段あるチェストの内、一番上の段しか使っていなかった。下着や肌着、靴下を入れていた。
一番下の段は亀裂が入っていて、手を切りそうで使っていなかった。
勉強机はあちこちに傷があり、その上へ置かれたアルミのペン立ても同様だった。蛍光灯はずっとフィラメントが切れている。買い替えたくても、それを許されなかった。
ベッドは古くなったスプリングがマットレスの中から響き、身を横たえると音を立てた。掛け布団は綿が寄れて潰れており、冬場は寒い思いをした。
ゴミ箱は割れたものを丁寧にテープで接着して、何とか使っていた。それでも蹴り飛ばされる度、どこかしらが割れて、途中から使わなくなった。
そこまで書いて、ようやく我に返る。気付けば廊下へ突っ伏して、床に置いたノートになにやら訳の分からないことを書き続けている自分に気付く。
一瞬、自分はとうとう気が触れた、とすら思った。
元々、悪夢を決まった日に見て、夢に出てきた少女を助けたい等と願い、カウンセラーに毎週土曜日、診療を受けている時点で、いずれ来ると覚悟はしていた。
だが、改めて自分が先ほどまで書き続けていたノート、その内容を目にした時、思わず背筋に寒気が走った。
気が触れているにしては。夢だけの記憶にしては。
あまりにも細かすぎる。
しかもこの特徴は、これまで夢で何度も出てきてはいた。が、今まで意識したことはなかった。
それなのに、こうしてペンを持つと、身体が、脳が、腕が、勝手に記録しようとする。
まるで、これはわたしの知っている場所なのだと言わんばかりに。
薬で落ち着けられているはずの呼吸が、再び乱れ始める。ノートを見つめながら、卯月はゆっくりと呼吸をする。その事に神経を集中させた。
文字の向こうに浮かぶのは、あまりにも細部に満ちた、かつて見たことがある景色の情報だった。
これは、ただの妄想ではない。
そんな、突拍子も無いと思われる結論が、今や一切の抵抗無く、胸の中に染み込んだ。
ただの妄想なら、ここまで明確に思い出せるはずがない。夢の中で知らないはずの、あの少女の部屋。それは、実際に自分が見ていなければ説明がつかなかった。
鏡の前で、あの少女に自分の姿を重ねた瞬間。あれは感傷などではない。今や、確信へと変わっていた。
あの家を——わたしは知っている。
あの景色を、見たことがある。
ページのあちこちに、手の汗で滲んだ跡があった。
思わず、携帯を取り出す。未だ震えの収まらない手で、検索を始める。
赤茶けたトタンの塀。
飛び石。
モダンなポスト。
その特徴をひとつずつ、まるで古い錠前を解読するかのように、絞り込んでいく。
——あの家は、きっとある。
そして、その中で、あの少女が捕らえられている。誰にも助けを求められないまま、一人で苦しんでいる。
その時、卯月の中で何かが切れた。
恐怖も、吐き気も、ずっと感じている耳の痛みも、全て押し退けて。
それは、どこかでずっと思い続けていた可能性。それを否定する理性の外れる音だった。
わたしは、行かなければならない。
あの時、逃げた自分——その失敗を、また繰り返さないように。