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Sangría  作者: なすみ
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1話

 帰宅後、すぐにシャワーを浴びた卯月は、髪の毛をドライヤーで乾かしながら、ぼうっと鏡に映った自分を見つめていた。

 どんよりと濁って見える目。化粧で隠していた目の下の隈。胸元には寝ている間に掻き毟ったであろう爪痕が何本もある。覚醒後、錯乱して暴れた時に出来たであろう擦り傷や痣がようやく消えかかっていたが、それも今晩、新しく出来てしまう事を彼女は知っていた。

 九重商事株式会社、人事経理部、副部長。それが彼女の肩書きだった。僅か27歳という若さで、決して小さくない会社において、上から数えた方が早い立ち位置にまで上り詰めたのは、単に彼女の努力と才能。そして、適任といえる従業員がいなかったという、ある種の運も絡んでいた。

 部下からは朗らかで、しかし冷静な性格から信頼も厚く、上司からも頼りになる存在として認知されている。その彼女が、よもや週末の度に眠ることが出来ず、カウンセリングを受けなければならない程、精神を病んでいるなど夢にも思わない。

 ドライヤーを片付け、洗面所に落ちた抜け毛をティッシュで拾い、ごみ箱に捨てる。また手が汚れた気がして、反射的にハンドソープを手に取った。

 鏡に映る俯いた顔は不快そうに眉を顰めていた。激しく手のひらや指先を擦り合わせる。そうしてようやく気が落ち着いて、洗い流した手を新しいタオルで拭き取り、使い終わったバスタオルと一緒に洗濯機へ放り込んだ。

 廊下を通ってリビングへ向かうと、壁にかかっている時計へふと目をやる。いつもなら夕食を作り始める時間だったが、彼女は少し悩んで、冷蔵庫から食材の代わりに酒を取り出した。

 乾いた喉に流し込みながら、帰ってきて廊下に置きっぱなしのカバンを思い出したが、また手が汚れると思い、あのままでいいかと自分に言い聞かせる。ソファに腰かけ、冷房の風に当たりながら置いてあった一冊の本を手に取った。

 もう一口、缶に口を付けながら片手で栞の挟んである場所を開くと、読書を始める。

 20歳より前の記憶など、もうだいぶ薄れてきて、ほとんど思い出せない。しかし、それでも読書は好きだった。それは覚えている。悲しい時でも、本を読んでいると、その中の世界が自分の周りに広がって、本の中へ入りこめた。文字列がまるで五感を刺激し、そのすべてが鮮明に感じられるのが好きだった。

 しかし大人になったからだろうか。そういった感情はいつの間にか消えて、今では仕事以外で集中することも難しい。ソファで酒を飲んでいる自分の周りへ広がりかけていた世界は、しかしすぐに萎んでしまい、書いてある文字をただ目でなぞるだけの行為になってしまった。

 話が頭に入ってこない。それを無理矢理に読み解こうとしたところで、今度は理解出来ない。主人公の気持ち、その周りのキャラクターの言っていること。どういう話の運びで、今何が起こっているのか。ただつまらないという感情だけが段々と膨らんでいき、卯月は5分もしない内に再び本を閉じてしまった。

 まだこれが金曜日の晩でなければ、調子の良い日、そんなに疲れていない日なら楽しく読書が出来る。学生の頃程ではないかもしれないが。

 卯月は溜息を小さく吐いて、本の代わりに灰皿を引き寄せた。煙草に火が灯ると、静かな部屋の中、僅かにチリリと紙の燃える音が耳に届き、煙が筋となってまっすぐ立ち上っていく。

「読書が楽しくない、と書いていらっしゃいますね」

 先週の土曜日、昼過ぎに行ったクリニックで、カウンセラーはそう言った。

「昔は楽しかった……と思います。でも、最近思い出して本を買ったんですが、全然読み進められなくて。他の趣味とかも特にないですし」

 薄暗い部屋の中、橙色の照明が、カウンセラーのデスクを照らしている。その上に置かれた、奇妙な形のインテリアに視線をやりながら、卯月はゆっくりと気持ちを吐き出す。

 普段自分の気持ちをここ以外で言う習慣がなく、自分の弱さを誰かに喋るという、それ自体がストレスではあったが、こうすることで良くなる可能性があるというカウンセラーの言葉に従った。

「そうなんですね、他の趣味も無い、と。そしたら、ご自宅ではいつも何をされていますか?」

 自宅でしていること。ざっくりとした質問に、卯月が少し思考を巡らせると、カウンセラーはデスクの上に置かれていたアロマディフューザーのスイッチを入れた。白い煙がゆっくりと吹き上がり、遅れてオレンジの様な香りが微かに匂う。

「訊いておいてこんなことを言うのも何ですが……実を言うとわたしも趣味らしい趣味はないんです。だから、わたしはこうやってアロマを嗅ぎながら、無意識に手のひらをマッサージしていることが多いですね。手を動かしていると、心が少し落ち着く気がして。何かを手に取ることって、意外と気持ちが楽になるんですよ。卯月さんも、少しだけでも手を動かしてみると、気持ちが晴れるかもしれませんよ?」

 そういって、両手を組むようにして、指の付け根を揉む動作をしてみる。

「何もする事が無いと、つい嫌なことを考えてしまいますよね。それは生物として自然な反応ですし、無理に何かを見つけなきゃいけない訳じゃないんです。自分のペースで少しずつ、無理なく出来ることを見つけていければ、それが一番大切だと思いますよ。卯月さんにとって、ただ手を動かすことが心地よければ、それが正解かもしれませんね」

 卯月はソファに座りなおすと、その言葉を思い出し、半信半疑で親指の関節で手のひらを押してみる。アルコールによって、身体、肉体はリラックス出来ているが、このマッサージはどこか自分の精神をも揉み解してくれているような、そんな気持ちになる。

 そのまま、手のツボや腕のツボなどを調べて、暫くの間指圧を続けていた。しかしふとした瞬間に、この後のことが脳裏を過る。それまではまだ本を読むよりは楽しめていたマッサージも、一度心に不安の種が蒔かれたことで、途端に楽しさを失っていく。興味も消え、落ち着かない様子で再び時計を見た。

 時刻はまだ日付が変わるまでに余裕があったが、それでもいつかは眠らなければいけない。あの夢を見なければいけない。そう思うと、途端に不安が湧き上がってくる。

 手のひらを擦ったせいだろうか。血行が良くなり、手のひらに僅かではあるが汗をかいていることに気づいて、慌てて洗面所へ向かった。また同じように手を念入りに洗い、新しいタオルを使って洗濯機へ放り込む。

 それから鏡を見て、まるで自分の姿が見知らぬ誰かのように感じていた。

 髪の毛は乾ききっているのに、額にはじんわりと汗が滲んでいた。表情は強張り、唇を思わず強く噛み締めてしまう。その染み込むような痛みすら、恐怖を誤魔化してくれない。

 酒が足りないから。そう結論付けて、アルコールで無理矢理不安を搔き消そうとする。冷蔵庫からもう一本取り出して、一息に半分ほど飲み干す。それほど耐性がある訳でも無く、頭のどこかでは飲めないと分かって拒絶する喉へ、強引にそれを流し込む。

 煙草に火をつけて、動悸を落ち着けようとする。時計の針が動いて、夜が更ける程に指先は震え、火もうまく付けられない。

 またこうやって、その場しのぎの物に逃げて。浴びるように飲んで煙草を吸っても、悪夢を見なくなる訳ではないのに。

 心の中で、自嘲する声が聞こえる。

 やがて居ても立ってもいられなくなり、寝室のカーテンを開けて外を見る。いつの間にか小雨が降り始めていたのか、酒臭い自分の呼気に混ざって、アスファルトに雨が染みた匂いを感じる。時々車が水を切りながら走っていく音を聞き、カウンセラーに教わった呼吸法を思い出して試してみる。

 息を吸って、数える。

 止めて、数える。

 吐いて、また数える。

 意識をそれに向けることで、頭の中で何も考えないようにする。しかしそうしようと思えば思う程、考えたくないことがカサカサと、害虫のように蠢き始めた。

 ——今日、あの時にあんなことを言わなければ良かった。

 ——玄関の鍵は閉めた? ガスは? 照明は?

 ——頑張って起きていても、ふと眠ってしまったら?

 慌てて踵を返して、玄関の方へ向かいながら、喉の奥に小石が詰まったような息苦しさを感じる。胸が針金で締め付けられているように思えて、顔を顰める。

 心臓が早鐘を打つ度に、アルコールが全身に回る感覚が強くなっていく。顔が充血し、目の焦点が合わなくなる。鍵は閉まっていて、ガスも元栓から締めてある。電気も寝室以外は付いておらず、僅かに安堵するが、誰かに肩を左右に揺さぶられているような平衡感覚の喪失を覚え、思わずベッドへ倒れこむ。

 途端に体中へ倦怠感が這い登り、意識を奪おうとしてくるように思えた。

 眠りたくない。何度も頭の中でそう唱えたが、瞼はそんな自分の考えとは裏腹にゆっくりと降りてきて、まるで気絶するように眠ってしまって——。

 気が付くと、さっきまでの寝室からは程遠い、見慣れぬ部屋の中に立っていた。いや、あるいは見知った部屋、と言えるかもしれない。卯月は7年前から、同じような悪夢に苛まれ続けていたのだから。

「ッ——!」

 これが夢の中であり、毎週金曜日の晩になると決まって見ている悪夢だと認識すると同時に、鼻の奥へ火箸を押し込まれたような激痛と、息が出来ない感覚に襲われる。何がどうなっているのか全く理解できないまま、彼女は手足をでたらめに動かした。

 しかし声も出せず、呼吸も出来ない。そんな永遠にも思える10秒が経ったところで、ふいに自分の髪の毛を掴んで浴槽に押し込んでいた手が、卯月の顔を引き上げる。

「——ごっ、ごめんなさい! ごめんなさいっ!」

 口と鼻に入った湯を吐き出しながら、彼女は必死の思いで自分を仰向けの状態で浴槽に沈めていた主に謝る。何も分からないが、ただそうしないといけない事だけはあらかじめ理解していたかのように。

 その言葉に反応したのか、髪の毛を依然鷲掴みにしたまま、目の前の男は卯月の顔を鼻先へ近付けた。

「口答えするなって言っただろ」

 地の底から響くような声で、男は冷静に話す。卯月はいつものように、これが夢であると理解し、なんとか男の顔を認識しようと目を凝らす。だがいつもその顔は靄がかかったようにぼやけていた。現実と区別がつかない程の苦痛や恐怖の中、何故かいつも、この男の顔だけが認識できない。

 金曜日の度に、20歳の頃から何十回も、何百回も見ているはずなのに。

 ああ、きっと自分は何か男に口答えをしたのだろう。

 頭の片隅で状況を整理し、続いてまだ痛み鼻の奥に意識を向けた。これも現実に自分が感じている苦痛ではない。あくまで痛いような、苦しいような気がするだけだ。繰り返し唱え、何とか気持ちを落ち着けようとする。

 これは夢だから。これは夢だから。

「返事は?」

 そう聞こえた時には、再び身体がふわりと浮いたような感覚。そして頭の先から湯が首まで登ってきて、自分が再び、湯船に顔を沈められていることに気づく。

 慌てて鼻からゆっくりと息を吐き続け、中に湯が入ってこないようにしようとする。しかしいつまでも、息を吐き続けられる訳がない。すぐに呼吸が苦しくなり、やむを得ずそれを止めた瞬間、頭の中にごぼごぼと、水が入り込む音が聞こえた。

 夢の中だと自分に言い聞かせようとしたが、すぐに耐えがたい苦痛が脳を支配する。何も考えられらなくなり、さっきと同じように無我夢中で暴れ続けた。

 この人は誰。なぜこんなことに。

 頭の中に疑問が湧いて、息苦しさに書き換えられていく。

 夢だからだろうか。卯月はいつも、意識を手放してしまう事すら出来ない。次に目が覚めるまで、3時間か、6時間か。その時間分、ただこの男から殺されそうになり続けるのを、耐え続けなければいけなかった。

「来い」

 次に湯船から顔を引き上げられた時、男はそのまま卯月の髪の毛を引っ張って浴室を出ようとする。慌てて、頭皮に痛みを憶えながら後に続く。引きずられるように足をもつれさせながら、必死で震える唇を動かす。

「ごめんなさい、ごめんなさい、もうしません」

 自分が何をしたのか。それすら理解していないが、心のどこかでは、自分が何かこの男の指示を守らなかったか、それに反発したか。そういう記憶がまるで元からあったかのように存在している。これも夢だからこその、ありもしない記憶を無意識に作ってしまっているのか、あるいは。

 リビングに着いたところで、男は乱暴に卯月の髪から手を放す。髪の毛から雫がぼたぼたと滴り落ち、息も絶え絶えで逃げ道を目で探す。玄関に続く廊下の扉が近い。何度も悪夢にこの家が出てきたせいで、彼女はすっかりこの家の間取りを憶えてしまっていた。

 逃げたところでどうにもならないと分かっていながら、しかしこちらに背を向けて、何かを探しているような様子の男を一瞥し、彼女は膝を立てると、飛びつくようにその扉へ走った。

 右足のふくらはぎや太ももに激痛が走る。恐らく、この前に男から受けた暴力によって傷が出来ているのだろう。しかし今は、それすら無視してドアノブに縋りつく。

 その大きな音に振り向いた男は、振り返るなり苛立った様子でまっすぐ卯月の方へ歩みを進め、道中にあったペン立ての中身を引っ手繰る。アルミ製のそれが大きな音を立てて床へ転がるが、それには目もくれず、手にしたペンたちの中からカッターナイフを選び、残りは無造作に投げ捨てた。

 迫りくる男に怯えながらも、卯月は何とかドアノブを回し、奥に開いた扉と一緒に倒れこむ。冷えた廊下の床材に膝を打ったが、再び手を着き、数歩で届くであろう玄関に視線をやった。

 だがその時、後ろから大きな影が彼女を飲み込み、振り返って見上げるよりも早く、男が再び髪の毛を掴んで引き戻す。

 視界がぐるりと天井を映し、息すら忘れる程の緊張。卯月は、逃げようとした浅はかな自分の行動を悔やんだ。この男の性格は、既に十分過ぎる程理解していたつもりだった。どちらにせよ暴力は振るわれるかも知れない。しかし、こうやって逃げようとすると、火に油を注ぐ事になると、少し考えれば分かったはず。

 右耳の傍から聞こえる、カチカチカチというカッターナイフの刃がむき出しになる音を聞き、いよいよ奥歯が合わなくなった。

「お前、舐めた事してくれるな」

 再び、低く唸るような声が聞こえ、濡れた髪の毛越しにも分かる感触があった。右耳の上、付け根の部分に冷たい刃が、ぴたりと押し当てられた。

 卯月の不規則な呼吸だけが廊下に響く中、男は静かに続ける。

「言ったことは守らない。返事もしない。挙句の果てに俺から逃げようとする」

 そんな耳、要らないよな。その言葉を皮切りに、刃が圧力を増した。

「あ……その……」

 また怒らせた。違う。違う。

 私は怒らせるつもりなんてなかった。

 ただ、ほんの少し、逃げられるかもしれないと思っただけ。

 そんな希望を持ったわたしが、馬鹿だった。

 身じろぎ一つ出来ない。少しでも身体を動かせば、それを弾みに皮膚へ刃が入りそうな予感がして、呼吸すら細心の注意を払う。それに、抵抗したところで、それより早く耳を落とされる。そんな直感が働いた。この男は、多分、一切の躊躇なくわたしの耳を切り落とす。それだけが事実としてそこにあった。

 髪の毛を鷲掴みにされている状態では、どちらにせよ逃げられない。卯月は浅く息を吸いながら、どうにかこの状況を打破する一手を探した。

「す、すみませんでした。次からちゃんと」

「次だ?」

 言い終わらない内に男が遮る。胸に冷や水を流し込まれたような感覚を憶える。選択を間違ったかもしれない。

「次があるとしたら、それはもう片方の耳を失わずに済むかどうかって場面だろうが」

 ずる。

 耳の付け根に灼熱を感じた。それはすぐに痛みとなった。どこまで切られたか分からない。ただ、耳から汗か湯船の水が顎を伝って垂れたかと思った。しかしそれは赤々とした血であり、視線すら動かせない卯月の小さな顎を伝って、雫が一つ落ちた。

 目を見開いたまま、半端に開いた口からは、ただ浅く空気が漏れていく。酸素が上手に取り込めないのか、視界がでたらめに歪む。

「う、うう、うううう」

 ずるずると、前後に刃が動くのを感じ、身体が勝手に動こうとする。

 ぴたりと貼りついた刃の向こう側で、骨をすべるような微かな感覚。耳の奥で、何かがじゅっと焼けたような音がした。熱いものが勢いを増して、滴り落ちる。

 両腕で男の腕を掴み、抵抗することを考えた。しかしそれを止めようと、必死で我慢した。ここで抵抗すれば、次は左の耳へ刃が伸びる。

 本当に痛い時、人は甲高い悲鳴を上げられない。卯月はがちがちと震える奥歯を割れんばかりに食い縛り、これまでに感じた事の無い程の痛みを感じながら、身体の芯から冷たくなっていくのを感じた。

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