スパイ
紫のフェルト帽を被り、銀色のタイトなジャンプスーツを着た男が、ショッピングモールを歩いていた。彼の名はゼルキン。アール星から地球に派遣されたスパイだった。アール星人は地球侵略の手始めとして彼を送り込んで来たのだった。彼の使命は地球人になりすまし、その正確な情報を入手することだった。
「さてはお前、宇宙人だな?」
ゼルキンが店舗に並んだ商品を物色しているとそこに黒服の男が現れ、いきなり図星を突いてきた。
「どうしてわかった?」
根が正直者のゼルキンは即座に宇宙人であることを認めてしまった。
「地球人はプライベートでそんな派手な服を着たりはしない。そんな変な帽子を被ったりはしない。そんな変な歩き方はしない」
ゼルキンは気を付けていたつもりだが、ガニ股で歩いていたようだった。アール星人はたいていそうやって歩くものなのだ。
「さては地球を侵略するつもりだな? そしてお前は事前に情報収集するために派遣されて来たのだろう?」
黒服の男は言った。
「そうか。バレてしまったら、仕方がない。貴様には消えてもらおう」
ゼルキンはそう言って懐から光線銃を取り出した。おもちゃのように見えるが本物だった。
「まあ待て。俺は別にお前らの邪魔をするつもりはない。実は俺はこの星には以前から深い恨みを抱いている。別にお前らに侵略されても何とも思わない。だから協力してやろう」
黒服の男は言った。こうしてゼルキンは黒服の男から洗練された地球人になりすますための手ほどきを受けることになった。
黒服の男はとても厳しかった。日常会話から服装からテーブルマナーまで、厳しい指導が続いた。ゼルキンが何か間違えると、何やってんだこの間抜け、といった罵詈雑言が飛んできた。なんとなくそうするのではなく、その時々の文化的背景と経済状況と政治環境をきちんと理解した上で行動することが大切だと彼は言った。上っ面だけではなく、それぞれの民族に脈々と引き継がれる精神を身に着けておかなければ、地球人になりすますことはできないということだった。
「ダメだ。ダメだ。欲しいガジェットがあったら、すぐに買った方がいい。極上のユーザーエクスペリエンスを体感するのは今しかない。そこで購入をためらうようでは本当の地球人とは言えない」
「ダメだ。ダメだ。ゲームをする時はプレイを最優先しなければならない。食事を抜くとか、睡眠を削るくらいでないと本当の地球人とは言えない」
「ダメだ。ダメだ。そこで狼狽売りをするようでは地球人とは言えない。暴落した時、含み損にぐっとこらえて買い増しするくらいでないと本当の地球人とは言えない」
黒服の男の厳しい指導は続いた。ゼルキンは必死に耐え、少しずつ地球人らしさを身に着けていった。
「君はもう誰が見ても立派な地球人だ。もう君に教えることは何もない。着実に任務を遂行してくれたまえ」
ある日、黒服の男は言った。彼の目の前には著しい成長を遂げたゼルキンの姿があった。今までの努力を評価されて目頭に熱いものがこみ上げて来たゼルキンは、黒服の男と共に歩んだ厳しい修行の日々を思い起こしていた。
「応答願います。ゼルキン。いったいどうしたのですか?」
母船からひっきりなしに通信が入っていた。連絡が途絶えてからもう何か月も立っていた。その頃、ゼルキンは縦縞のユニホームを着て、とある野球のチームを応援していた。九回裏ツーアウトランナーなしの絶望的な状況となってもゼルキンは動じることなくありったけの声援を送っていた。彼はすっかり地球人になりきって人生を謳歌していた。