あんな夜やこんな夜のハードバップ
良いこともあれば悪いこともある。くそおもしろくもねえこった。
暇と金がおれのキャパシティを軽く超えてしまったので、諸星大二郎の描くところの、ン・バギを左ふくらはぎに刺青してもらった。入れる前から左ふくらはぎには確かに何かが宿っている存在感というものがあって、それが二十ウン年かぶりに刺青を入れた理由だ。かろうじて歩いてゆける近場にタトゥースタジオがあったのは幸いであった。律動する痛みに、なんとなく背筋が伸びた。彫り師が装着するラテックス手袋が黒い血しぶきをものともせず彫り進めてゆく様は非常に頼もしいものだった。灼熱の午後は幻のような質感でもって、あらゆる感覚をぼんやりと狂わせる。歩を進める姿は夢うつつさながら、左ふくらはぎでズクズク疼く痛みだけが現実感を携え、こうして地に足をつけ続けていられる指針と言うべきものだった。
それにしたって暑すぎる。暑すぎるじゃないか。檻の中のクマみたいに、あっちにこっちにウロウロしているうちに日は傾きつつあるが、それでもまだ暑さは暑さのまま、じっとここいらに留まったまま、まるで動いてくれやしない。冷たい飲み物をいくら流し込もうと無駄ってもんだ。乾ききったアスファルトのひび割れが情けなく、いまこの地点はここなんだってこと、肌にインクを強引に染みつけようが、ン・バギの圧倒的なパワーがおまえなどに宿るわけがないってこと、まったく暴力的な暑さの中でしばらく歩いてみて、おれはすっかり負け犬気分。麺をすする元気もない。酷いもんだ。あまりにも酷い。オーバーヒート気味の頭を片手で支えながら、気を抜けば右へ右へと流されてゆきそうな足取りを必死で制御しながら、幻めいた路地を辿る。
プシッ! っとプルタブを引き上げるとMonsterのケミカルな香りが鼻孔を突き上げた。
「Monster Energy®の世界を体感せよ! アメリカで生まれ、世界中で一大ブームを巻き起こしているエナジードリンク、Monster! 誰もがハマる爽快感とパンチのあるテイストです。日本のMonsterファンのために、独自のエナジーブレンドを実現、Monsterならではのゾクゾク感を体感ください!」
Monsterの能書きが、いつのまにか少し丁寧になっていた。以前はもっと乱暴な言葉遣いだった筈なのだが。だが冒頭ではちゃんと命令している。体感せよ! そのすぐ後には懇願だ。体感ください! ビックリマークがせめてもの矜恃なのだろうか。
きっと何かが起こった。たぶん何かが責め立てた。おそらく何かに蹴っ飛ばされて、それで少しだけ折れてしまった。何があったにせよだ。唐突なですます口調でエクストリームな雰囲気が台無しじゃないか。缶ジュースの能書きにまで気を遣わせるこの社会は異常だ。狂ってる。なんてこと、以前もどこかで書いた気がする。何ならMonsterを飲むたびに同じようなことを考えている。つまり、三日に一回くらいはMonsterの能書きに思いを馳せていると言うことだ。これは言い過ぎかもしれない。まあ、どっちでもいいことだ。
胸から喉にかけて何かがカーッとさかのぼってくる。これが胸やけってやつなのかもしれない。おれはどうすればいい。おれの身体が壊れてゆくよ。こんなことなら、さっさと脳みその血管でも詰まらせてコロッと逝っちまいたい。などと言っている場合ではない。世界がゆらいでも、わたしは生きる。微かに揺れて、転がり落ちる。謎めいている、いささか。事態があまりにも急速に流動しているせいだろう、落ち着かない伏し目をきょろきょろ動かしながら、指先でテーブルの表面をせっせと擦っている。不安に駆られた猫のグルーミングのようなものだ。我ながら情けない。どうしてこんなにおたついてしまうんだ。いくつもの潮流が同じ浜辺に同時に打ち寄せているような風景の中、おれはたったひとりで、どうしてこんなにおたついてしまうのか。考えてみてもさっぱりわからない。まるでかわいそうだ。この瞬間の惨めさというものは。
暗闇に浮かぶテレビの光。病人のように青白く、チカチカとうるさくてしょうがない。誰も観ていやしないのに、キチガイのようにじっとしていられず、瞬いている。木々の隙間から覗く赤い三日月に目を奪われ、テレビは形無しだ。何にせよパッとしない夜に、パッとしない男が、パッとしないものを書いている。飽きるくらい真夏日だった。とにかくしつこい熱帯夜だった。モノトーンのネオンテトラの群れがあぶくを吐いていた。どうしてこんなにおれはパッとしないのだろうか。そんなことを考えていた。おれの欲しいものってなんだろうか。そんな角度でも考えてみた。このままじゃパッとしないジジイになっちまう。それもまあしょうがない。まったく人生ってやつは気難しいもんだ。どうすれば喜ぶのやらさっぱりだ。おれなんかは簡単に嬉しくなっちまうってのに。
余分な突起物をぶら下げながら、時と場合によってはおっ立てながら、おれたち男どもは不様な行進を続ける運命だ。女たち? それはわからん。彼女らは永遠の謎だ。でもおれは大好き。賢くってかわいくって、はしこくって騒々しくって、うっとうしくって厭わしくって、そうとも、女がいるからおれは生きてゆける。女がいない世界を想像してごらん。あるいは、女だけが存在する世界を。それから何もない世界を。どんな世界でだって、おれは上手くやってゆけやしないだろう。もちろんこんな世界でだって。
こう暑いと熱いシャワーを浴びる気にもならず、設定温度は37度まで下がってしまった。おれにとっちゃほぼ水だ。だが、おれは真水のシャワーを浴び続けていた時期がある。ガスが止まっていたんだ。真水のシャワーほど冷たいものをおれは知らないよ。あれに比べりゃ、ナンパで声を掛けた女の子二人組のしらけた視線だって、ほんわか温かく感じるってもんだ。それでも、10月いっぱいまでは真水のシャワーで乗り切れた。11月に入った途端にギブアップだ。たまらずガス屋に駆け込んだ。そう、二十年くらい前はガスが止まったらガス屋に行ってお願いしなけりゃならなかったんだ。もう一度、ガスを通してくださいってね。で、ガスの再開には直接立ち会わなければいけないってルールもあった。野蛮な時代だった。2000年代にもなって、おれはいったい何に付き合わされているのか、そんな困惑があった。
いまはそんな面倒なことをしなくてもいい筈だ。最近はめっきりガスを止めていないから、詳しいことは知らないが、きっとそうでしょう。でもこの暑さなら12月くらいまではガスを止めっぱでイケそうだ。この二十年くらいで、夏が一か月くらい長くなった。そんな感触だ。季節感がこんな短期間でゴロッと変わるものかね。普通に考えてヤバいでしょ。地球温暖化などは嘘っぱちだって主張する連中はこの暑さを知覚できないのでしょうか。だってそれじゃあなた、まるで、まるで……幽霊じゃありませんか。
死人だらけの蒸した夜。ぬれ煎餅にでもなっちまいそうだった。赤い三日月はいつのまにか姿を消していて、かわりに青白い三日月が震えていた。きっとあっちは寒いんだ。あんなに痩せ細ってしまって、食い物も殆どないのだろう。かわいそうだ。とにかく誰もがかわいそうで、惨めで、パッとしない夜だった。そんなのいまに始まったことではないが、たまに強烈にそのことを意識をさせられる。おれは世界に同情するよ。いったいなんだってこんなんなんだ。途端に目が霞んできて、おれはその場でぶっ倒れた……。




