田舎者のアイロニーさえフルパワーで袋叩きさ
もう少しおれを頼ってもいいんだぜ。とは言え。とは言え、とは言えだ。おれの主観からできるだけ客観的に見ようとしたって、これほど頼りない人間もなかなかいないのであって、まあしょうがないことなのかなって。それでも、おれは寂しいよ。だが、いざ頼られてみたまえ。背負えるかい? 途中で投げ出さずに? その覚悟が? たゆむことなく、くたびれた様子を見せることなく、一心不乱に振る舞えると言うのかい?
わかった、わかった、もういい、もういい。おれが悪かった。忘れてくれ、すべてを。おれも忘れよう。何もかもが悪い夢だ。この地獄のような季節も、べたつく肌も、口に入り込んでくる髪の毛も、しつこい目ヤニも、鈍く遠い痛みも、何もかもが。
何日も、何週間も、何か月も街を這い回り、おれはどうやってこの生を終わらせようか悩んだ、おれが死ぬということは申し分なくはっきりとしていましたから、どのように、そしていつ、それだけが宙ぶらりんのまま、ゆあーん、ゆよーん、ゆやゆよん、そんなふうに過ごしていましたし、そんなふうな表情を浮かべていました。
まったく我慢ならない。とにかくあらゆることが我慢ならないが、我慢ならないものを我慢する、腹立たしいことをそのまま腹立たしいこととしてではなく、そうではないものとして表現する、そんなことがおれに出来たらなあ。そう考えてみたりもするのですが、おれはやっぱり直線馬鹿で、そんなまだるっこしいことなど出来るか、っつー感じで、もうそのまんま、キチガイカルト参政党とか百田のハゲ頭とかネトウヨはクソとか、そんなことを生のままで書いてしまうのですね。ここに葛藤や気後れ、気恥ずかしさや鼻白む気持ちがないわけではないが、まあそんなものはどうだってよろしい、正しいとか間違っているとか、そういうことだって結構どうでもよく、とにかく乱暴に書きつけておかないと、まったく我慢ならない。
こういったやり方は時代遅れで、いや、時代などは関係なく、いつの時代でも通用しない単純にヘタクソなやり方であって、そいつがウヨってようがリベってようが読者は不愉快な気持ちになってしまうことは想像に難くないが、そんな想像上のいけ好かない読者にざまあ見やがれっていう気持ちもありますね。
結局のところ、おれは読者に期待などしていないし、おれ自身にも期待をしていない。いつだって最悪は更新し続けるし、何もかもが一方的に悪くなる一方だ。大いなる循環では増大するキップルを処理できやしない、少なくとも人間という卑小な生物の視座においては、ということが明らかになりつつあるこの時代に、君たちはどう生きるか、なんて呑気なことを問うている場合ではないのです。
では、どんな場合ですか。そう問われればこう答えます。おれたちはどうしてまだ生きなければならないのか。こう考えるべきです、と。生きることを前提で考えるのはもうやめよう。生きることを止めたって全然構わないし、おれだってすぐにでも自分の息の根を止めたい気分だが、それでもどうして生きなければならないのかを考えていきましょう。
アホの考え休むに似たり。それならいっそ、おれはもう本当に休みたいと思った。疑似ではなく、期間限定ではなく、本当の意味での休暇に突入したい。せせらぎの一部となってどこか遠くに流されてゆきたい。そのためには、この身体が邪魔だった。そこで相談相手になってもらったのが、ドクター・ヴェンジェンスというわけですな。
ドクターとは主にこんな話をしました。幻想水滸伝はⅡがクソおもしろいらしい。しかしⅡを楽しむには正直言ってあまりおもしろくないⅠをプレイする必要がある。つまりはⅡという報酬を鼻先でぶら下げられ、仕方なくⅠという強制労働に従事しているわけですな。ただ、ここで問題になってくるのは、Ⅱは本当におもしろいのか? ということだ。そりゃまあ、世間一般ではそういう評価になっています。メタクリティックスコアもすこぶる良い。しかし、それが何の確証になりましょう。わたしの恐怖は、ⅡがⅠと同様に退屈極まりないものであったら、どうしようということです。Ⅰを終え、いやいやながらもプレイし終えたのちに、ⅡがⅠと本質的には同じようなものであったら、いったいどうしたらいいのでしょう? という問いで頭がいっぱいになります。わたしは怖くてたまらないのです。いっそこのまま手を止めてしまいたくなります。でも、Ⅱがどのようなものなのか確認はしたい。あわよくば楽しみたい。ご褒美がほしい。そんな邪念が、Ⅰをプレイするわたしを更なる退屈の深みへと引きずり込みます。つまりは、いまのわたしはⅠと本気で向かい合っていないのです。Ⅰをプレイしていながら、すでに目は心はⅡの方を向いているのです。その時点で、Ⅰは越えるべき障害物であり、さっさと済ませてしまいたい軽作業になりました。
これは続編が高い評価を受けている続き物に手を出す際に陥りがちなジレンマです。それはよくある不幸です。おそらくあんたはⅡをプレイしても満足せんでしょうな。見事にそういうコースを辿っています。体験を殺すのはいつだって欲深な自分自身なんですな。なにしろ期待はせんことです。あるがままを受け入れ、それでもまだ受け入れ難いのであれば、憤るなり嘆くなりすればよろしい。
いまのあんたに必要なのは完全休暇です。ありとあらゆることから自分を切り離し、そのまま自分を消し去ってしまうことが必要とされています。自意識なんてもんはあんた、あって百害一利なしですよ。なにしろタチが悪い。予後も悪けりゃ始末も悪い。なんにもいいことなんてありゃせんのですよ。その辺を眺めて見ますれば、自意識の成れの果てが熟れて崩れて、それでもなお、ぶつぶつと沸々と鬱々と、ひっきりなしに何かを喚いておりまするが、当代の悲喜劇こもごもさながら、もごもごと動かす口の中には賞味期限切れのマクドナルドハンバーガーと言った趣がございますな。
リバティ、ヴァニティ、インサニティ。チキチ、チキチ、チキチ、チキチ。
いまこそリズムは裏で取れ。足首の関節が硬化しつつあるいまこそ、高速ツーステップでフロアを沸かせなければ。風呂を沸かすことすら躊躇するこの季節に、進んで汗をかくのは愚か極まるという意見もあるが、おれたちゃ汗かいてナンボですんで。ナボナはお菓子のホームラン王ですんで。邪悪でモテないボノボのボクちゃんどもが、傷の舐め合いケツの舐め合い精神的アナルファックに精出している間に、おれはおれでちゃんと射精について考えを巡らせようとしていたのだが、すぐに面倒くさくなってしまって、しゃらくせえ、蹴りを出してしまうのがおれの悪いクセなのだった。
だが、もう硬化してしまっている。無理に崩そうとすれば、自我崩壊の憂き目に遭うのは必定であり、これは余談ではあるが、幻想水滸伝の拠点の名前はシシド城にしました。牛のクソにも段々があるんで精神を是非とも後生に伝えていかなければという使命感のみがおれの指を動かしているが、そろそろおれは限界かもしれない。
何もかもが一方的に悪くなる一方だ。その一方で、無造作に届く一報に一喜一憂している、一般市民の諸君。いちいちいちいち、反応せんでよろしい。どうせ何もかもが一方的に悪くなる一方なのだから、焼け石に水めいたささやかな吉報に、その都度ニヤニヤしたりせんでくれ。おまえらはすぐに生成精製聖性AIのご神託に耳を傾けようとするが、気づいていますか。おまえら、AIにメチャクチャ馬鹿にされているぜ。おちょくられているぜ。なんて愚かな生き物。
おれたちに必要なのは完全無欠の休暇だ。長く果てない、永遠と見紛うほどのヴァカンスだ。つまりは、既に地球は長い午後に入ってしまったということだった。一斉に校舎を飛び出し、散り散り、それぞれがそれぞれの家路に、ジリジリと太陽に焦がされながら、アサガオの鉢やら絵の具セットやら体育着やら、持ち帰らなければならないありとあらゆる物を一度に持って帰ろうとする、計画性皆無の一部の子どもたちに必要なものは、静寂、ただそれだけだったのだ。




