どうしょうもない初期衝動
語ろうとしたってきりがない。そんなことは最初からわかっていた。語るに及ばないこと、語る価値の少ないこと、すべてを語ろうとしたって、きりがない、きりがない。
もし、おれに明確な語るべきことがあったのなら、こんなことを語らなくたって済んだはずなんだ。語り出す前に、語ることを見つけることが先決なのか? だとしたら、おれは死ぬまで黙ったままでいなければならない。おれが黙ったままでいられるわけがない……。
口を閉じていたって、言葉がぐるぐると回りだす。ひとつの言葉を繰り返していることもあれば、それはまさに、文章と呼ぶべき形をとっていることもある。ちょうど、こんなような感じの文章だ。おれの身体がどう動いていたか、おれの視線がなにを捉えていたか、そんなことにはあまり興味がない。ぐるぐると回る言葉、それは、はっきりと言葉として、なによりもまず言葉として、おれの中をぐるぐると回っているのだった。そいつを吐き出す。おれは唐突に語り出す。物語の形に必死でなろうとしている、問わず語り。
おれはこいつを加工することができない。衝動のまま、手を動かし、頭を動かす。オルガスムスのないマスタベーション。書けば書くほど、語れば語るほど、色をなくし、勢いをなくし、掠れてゆく……。
それでも、悪い気分じゃない。良い気分と言うわけでもないが、まったく悪い気分ではない。まるで老人の書く文章。ボケ老人の長語り。それでも、おれでさえ気づかないくらいの微妙なニュアンスの変化を遂げながら、おれの言葉はとても良い方向に培われている。そんな気がする。勘違いかもしれない。そんな気もしてきた。
この自己言及はどの自己を投影して行われているのだろうか。書いているおれか。語っているおれか。それとも、フィクションのキャラクターとしてのおれか。はたまた、この文章を読んでいるおれなのか。おれとは誰か。小説の語りは誰が語っているのか。なぜそいつは語るのか。語りはなにかを伝えようとしている? おれは語りから、なにを受け取った? 物語はなにをもたらした? ああ、わかっている。なにもかも、きりがない。少なくとも、おれの手に負える問題じゃない。考えているようで、考えていない。おれは深く考えることなど、人生で一度たりとも経験したことがない。すべてが上っ面で上滑りしてゆくだけだ。衝動のみ。衝動文学。衝動文学ってどうよ? どうよ、と言われてもね。どうしょうもないよ。
日焼けした学生風の吉野家の店員はとにかく会計を急ぐやつらしく、おれが牛丼を食っている間、二人連続で「ちょっと待って」と言われていた。そのやり取りを、見るでもなしに見ていたので、おれは「ちょっと待って」と言わずに済んだ。すべてはつつがなく進み、スムーズに会計が行われた。
これが人間ってやつだ。前例に学ぶ。おれは牛丼をかきこみながら、鵜の目鷹の目で店内の様子を観察していた。これが人間ってやつだ。複数のことを同時に行える。しかし、見るでもなしに見ていたのに、鵜の目鷹の目で観察って、矛楯が発生していませんか。
していないのです。ひとつの行動にふたつの言葉を両立させることができる。それが人間ってやつだ。だから、きりがないんだ。とにかく、きりがない。ああ、きりがない、きりがない。
肝心なことはケリをつけることだ。切りのいいところで、見切りをつけるんだ。そうすることで、真実や大事なことから遠ざかってしまうかもしれない。それはそうかもしれないが、だからと言って、他にどうすることもできない。なにもかも全てを語ることなど、できやしないんだ。たった一瞬の間のことを語ろうとするだけでも、途方もない時間が掛かると言うのに。
語りほど不正確で不誠実なものはない。だが、語りほど語るものも他にない。それが語りの弱点であり、同時に語りの魅力でもある。つまりは玩具としての語り、その遊びの幅の広さ。どのような形にしたっていい。語りは自由だ。限界はもちろんあるが、個人でその限界まで到達できる者は、そうそういない。
だが、どんな領域でも超人はいるものだ。おれが思いつくだけで、語りの限界を破ろうとしていたのは、ジョイス、ウルフ、ベケット……たぶんもっといると思う。世界中にたくさんいると思う。なんとなくヨーロッパに多い気がする。皆さん、わけのわからないものを書いている。
おれは単純な人間だ。およそ文学的な人間ではない。学校にも行っていない。
おれはそういう文学作品、そのわけのわからなさを、わけのわからないものとして楽しんでいる。わけのわからないものがすごく魅力的に思える。おれは分析をしない。評論もしない。凄い、ヤバい、カッコいい、そう思うだけだ。セックス・ピストルズを聴いて、パンクに目覚めるようなものだ。そして、夜な夜なガレージに籠もって、聴くに堪えない音をかき鳴らすようなものだ。衝動文学。どうよ?
クラッシュシンバルが弾けた。なにかが始まる気がした。なんかテンション上がってきた。身体は労働で疲れ切った中年男性のそれだが、やっぱりおれはパンクなんだ。そう思った。思うだけなら勝手だ。ファッションとしてのパンクには興味がない。アティチュードとしてのパンクだ。そいつがおれを熱くさせるんだ。すぐに中指を立てちゃう。顔を歪めて舌を出しちゃう。まるで馬鹿のひとつ覚えだ。そのうっとうしさ、ガキ臭さ、いたたまれなさ……他人にどう見られるのか、理解していないわけじゃない。それでも、やってしまうんだ。もちろん、ワザとだ。作為的な行動。でも、まるっきり嘘ってわけじゃない。歪めた仮面の下の顔も、きちんと歪ませているってわけだ。
本当は今日は、酒を飲みに行こうと考えていた。働き始めた途端にこれだ。でも、なんとなくここに帰ってきた。晩メシも適当に吉野家なんかで済ませてしまって……。そんな日だって、当たり前のようにある。これからだってあるかもしれない。これからのことを考えるのは好きじゃない。
もし、おれがなにも書こうとしない人間だったとしたら、今日はとことんまで打ちのめされてしまっていたかもしれない。もっけの幸い、おれはなにかを書こうとする人間だった。アルコールを入れなくても、馬鹿騒ぎをしなくても、おれは書くことで、語ることで、自分自身を救い出すことができる。惨めな気分にならなくて済む。当然、書くこと、語ることによって、惨めな気分になってしまうこともあるが、その頻度は目に見えて少なくなってきている。
その理由が、おれの書くものが良い方向に向かってきている証拠なのか、おれが年相応のふてぶてしさを身につけつつあるのか、それは自分にはわかりやしないが、おれならもちろん、より自分が満足できるように考えるだろう。それくらいはいいじゃないか。すこしは自分に優しくしなくちゃね。
なにしろ人生の本筋なんてものはない。脱線に次ぐ脱線。気づけば、ろくでもない場所に連れて来られてしまっている。良く言うのなら、思えば遠くに来たものだ。でも、そんな言葉にはなんの感慨もない。そんなのは当たり前の話だ。生きている。強くそう思わなければ、思い込まなければ、生きていけない人間がいる。ナチュラルにプレーンで生き続けるなんてできるわけがない。生きるって、そこまで良いものじゃない。ろくでもないことばかりが起きる。おれだって、ろくでもない人間だ。でも、ただのろくでなしってわけでもないということは、ちゃんとわかっている。
おれには何かがあった。それが何であれ、そこに何かがあるのは確実だった。でないと、ここまで生き続けているわけがない。さっさと見切りをつけていたに決まっている。おれがおれをこの世に縛りつける。まったく。いい迷惑だ。