埼玉県ソドム市ゴモラ区
やりたいやつはやりたいやつだけで勝手にやっていればいい。勘違いしてもらいたくはない。そりゃ、やりたいやつは掃いて捨てるほどいるだろうが、絶対にやりたくないやつだって確実に存在しているってことだ。勘違いはしてほしくない。おまえがおまえであることに異論はないが、おまえはおれでは決してない。決して。吹き上がるのは結構だが、勘違いをするな。いや、やはり吹き上がるのも止してくれ。一番良いのは今すぐ呼吸を止めてくれることだが、そんなことを望むだけ無駄なので、おれの呼吸を止めてしまう方が手っ取り早いという結論になった。
ほぼ無風の状態で、万事が穏やか。と言うには少々暑すぎるか。狂った季節。指先から落ちる滴。ここからどう続ければいいのか全然わからなかった。この行為の目的は、なにかを書くことではなく、まだ書くことができるということを自分にわからせる、そういうことだから、なんでもいいのだった。ただ、なんでもいい、というのは中々に難しい。
難しく感じている時点で本来の目的から逸れていることに気づいていないわけではない。矛盾だらけだ。おれの中も外も、矛盾しかないと言ってもいい。そんな当たり前のことでいちいち嘆いているわけではないが、それでもやっぱり考えてしまうのは消失。
離脱症状からやって来る強烈な苛立ちからなる暴力衝動のままに目の前の物を思い切り蹴り上げた。ものすごい音がした。おれは一体なにをやっているんだ。そう思う気持ちもある。一人で勝手にキレている。ストップモーション的なスラッシュ攻撃を常時脳みそに喰らい続けている。結果、言葉が浮かび出てくる速度が明らかに遅くなっていた。口先からも指先からもだ。場合によっては浮かんでくるはずの言葉がそのまま消失してしまうことだってある。そんなものは最初から無かったかのように。あるいは本当に無かったのかもしれない。荒んでゆく精神のまま過ごす平穏な日常はまるで拷問だ。こいつに終わりはくるのだろうか。つまりは、おれは元に戻ることができるのでしょうか? そういう問いだ。自覚している。いまのおれは、ちょっとばかり壊れかけている。
それはそれとして、いや、それはそうなのだとしても、だ。おれはどこまでいってもおれなので、不安や心配などというものはない。そのあたりのおれの信頼感はかなりのものだ。おれは書くことができるし、書かないことだってできる。文章は文章として存在する。そういう現象としての記述だ。各々の感性や美学によって書かれ、感性や美学によって捉えることもできるし、捉えられないことだってできるのだ。
こんなふうに時間は過ぎてゆく。時間も空間も感情も単なる影のように、ちらつき、ざわめき、そして消え去ってゆく運命だ。その繰り返しの果てに、いまという地点がある。それすらも程なくして形を為さなくなるだろう。すべてはあやふやで夢のよう。そして繰り返し続ける今日。ある地点からある地点へと、道程などはざっくり消して、まるで瞬間で到達しているような錯覚を作り出す記憶という幽霊にあざ笑われながら、それでもまた玄関から足を踏み出すのだろう? いったい自分が何をしているのか、何に手を染めているのかもわかりゃしないままに。
おれたちはいよいよ、みずからを生贄に指名し、みずからの死刑執行人を選び取ろうとしている……ようにおれには見える。しかし、どうやらその死刑執行人は底抜けのド間抜けであるという、恐ろしくも情けないオチになりそうだ。コメディとしてなら最高に笑えるオチかもしれない。問題は、コメディ劇のファニーな登場人物たちは、主観としてはみなマジだということだ。彼らは自分たちが笑いの種になっていることなどは考えもしないし、知りうる手段も持っていない。ムードに流され、抗うこともせず流され、暗黒のコメディは行き着くところまで行き着く。ある日突然、安全な席でスナック菓子を頬張りながらヘラヘラ笑っていた観客の喉元にまで到達することになるだろう。天上の傍観者気取りのおまえ、地に足の着いていないアホづらのおまえ、だらしなくぶくぶくと太った雑な身体と感性のおまえ、そう、おまえの喉元まではあと僅かだ。
こういうことを考えていると、何もかもが心底どうでもよくなる。それじゃダメだ。絶対にダメなんだ。わかってはいる。それはそうなのだと思う。おれはどこまでも抗わなければならない。それが生きる者の責任であり義務だ。だが、こんな光景を見せられては、虚勢を張る気にもなりゃしない。勝手にやってろ、そう吐き捨ててさっさと退場してしまうのが、最善の手だと思える。そのついでに、一発二発パンチをくらわせて顔面に唾でも吐いてやるくらいが、おれにもできる精々の抵抗だが、そんなことをしていったい何になる。何にもならないし、スッキリもしない。
残されたのは、隙間だらけ空間だらけの文章だけだった。それでも何も残らないよりはマシだ。いや、それは嘘だ。本当は、何が残ろうが残るまいがどうだっていい。何かを残してやろうと息巻いているやつらは、いつだって惨めだ。残してどうするね? 残してどうなるね? そもそも何を残すつもりだね?
生きた証……ねえ。確かにアストリブラ~生きた証~は名作中の名作だが、しかしながらチルダで囲まれたサブタイトルのどうでもよさは名作であるがゆえに際立つばかりだ。なぜ人間は神の怒りをも恐れずにダサいサブタイトルをつけてしまうのだろうか。
説明過多のこの街は、今日も旅人を拒絶している。神の怒りなどは鼻で笑い飛ばすほど高慢なくせに、隣人の一挙手一投足には病的な脅えを隠そうともしないのだった。おれはといえば、地球防衛軍4.1のセーブファイル名をEDFuckerと記入したところ、Switch側に拒絶され、ED××××erと変換されてしまっていた。言論統制はこんな場所にまで及んでいたのだ。地球防衛軍におけるおれの中の伝統あるファイル名を否定されムカついたおれは、「レマン湖掘削チーム」とファイル名を変更してみた。が、これは通った。当たり前だ。次に、「おちんぽおしゃぶり隊」に変えてみたが、これは駄目だった。おれは、ムム、と唸った。結局、EDFutuerという形に落ち着いたのだが、正しいスペルがfutureであることが発覚したのはそれからしばらく後のことだ。
まったく何がfutureだ。こんなスペルが許されていいのだろうか。まったく直感的ではない。よく日本語の音と記述の曖昧さ不可思議さがアホくさいネタになっているが、英語だって十分曖昧だ。何がfutureだ。フュ。そもそもここから何かがおかしいわけだ。狂っている。だが、言語というものはそういう性質のモンなのだった。あらゆる言語が、曖昧であり不可思議であり狂っている。あらゆる人間が、曖昧であり不可思議であり狂っているようにだ。
この街では、街角で踊ること、リズムを刻むこと、大声で話すこと、笑うこと、キッスをすること、活力に溢れ、劣等感を感じさせない様子を見せると、人々に恐怖と嫌悪を与えてしまう。まるで生きることを楽しんでいるみたいだからだ。生きることとは、凡庸と抑制の中から決してはみ出したりはしないこと。味のしないガムを噛み続けること。
この街では生を楽しむことはタブーだ。そんな素敵なことをしていると、たちまち通報され、押し寄せた抑圧的な警官にとことんまでやられてしまう。まったく何がfutureだ。こんなことなら生まれてくるんじゃなかった。




