沼のほとりでこんにちは
どこよりも暗い森や陰鬱な沼地を求めて彷徨い歩いた。おれにはそんな感じが必要だったのだ。なんせ普段のおれがいる場所は、脱色され脱臭され、そのくせ嫌な臭いや狂ったセンスの色遣いが辺り全体を覆っていやがる。四六時中光が溢れていたが、その光が照らしているものといえば凡庸と退屈だけだった。
なにはともあれ、われわれは現在に生きるほかない。否定しようが批判を繰り返そうが、すべては起こってしまったし、いまだって起きている真っ最中だ。否定しようが批判を繰り返そうが、現状を引っ繰り返すことなどできやしないし、そもそも本気で引っ繰り返そうなどとはこれっぽっちも考えたことはないのだった。
死ぬか、現在に生きるか。どちらも気乗りしやしない。その間をふらふらと彷徨い歩いた。第三の選択肢の到来を待った。書くことがそれに近いのかもしれない。そんなこともないのかもしれない。それでも書いていさえすれば、飲み込まれることはないように思えた。ああ、もちろんだ。そんなことはなかった。繰り返し、繰り返し、いったいどれだけ繰り返せば正気に戻れるのだろうか。危険のランプが点滅している。程なくして、サイレンが鳴り響き、灯りは消え、息の詰まるような暗闇と極限の緊張感のさなかにあっても、人々は決して冗談を忘れず、小さく笑い合うことを欠かさなかった。それはあまりにも卑小で卑屈な姿勢だったが、そんなもんだ全部。どいつもこいつも、おれもあんたも、そんなもんだ全部。
ちょっとここらで一儲け。そんな気分であっという間に日々は過ぎ、ささやかながら貯め込むことに成功した。そろそろ散財の季節だ。わけのわからない機械や、色とりどりの女たち、派手派手しい洋服、そんなようなものにひたすら金を支払い続ける。みるみる目減りしてゆく数字でおれの元気が少しは回復していった。
増やして、減らして。繰り返しの反復作業だ。そこには興奮があるようで、その実平坦な生活があるだけだった。みみっちく、せせこましく、生きながらえていた。あとどれくらいだい? さあてね。近頃じゃ予想もつきやしないよ。そろそろ。もうそろそろ。そう言い続けて、おそろしいくらいの時間が過ぎていった。おれはこんなこと早く終わりにしたいんだ。もう飽き飽きなんだ。
サル、あるいはガイコツの群れ。連中はどこに行くのだろう。それぞれがそれぞれの指定の場所へ。おれはやっぱり指定などシカトしたくなる。外れてしまいたくなる。
群れから離れ、昼でもまだ暗い森やとことん陰鬱な沼地を求めて彷徨い歩いているのだった。根気のいる果てしない冒険に乗り出す気などはまるでなかった。ましてや二度と戻ることのない旅路になろうとはとてもとても。
彷徨い、迷い、宙に浮いた言葉をでたらめに打ちつけ、縫い付けた。脚はすっかりぼろぼろになり、とりわけ膝の緩み具合は酷いものだった。どうにもかっちりとハマってくれやしないのだ。
もはや金の使い道すら迷い道だ。持て余した金をそっくりそのままどこかの14歳に渡したくなる。おそらくひたすらくだらないことに費やしてくれるに違いない。狂った季節は一陣の風に巻かれてあっという間に過ぎ去ってゆくだろう。あとにはなにも残らない。それでいい。質の良い栄養など摂らなくていい。そんなものは退屈を長引かせるだけだ。薄く引き延ばした生がもたらしてくれるもの。考えたくもない。そもそも何ももたらしてなどほしくない。なにも残してほしくないんだ。
傷ついた脚を休ませるため、適当なところに腰掛けた。空はまったく晴れていて、ほぼ無風だった。時間が止まったような時間だ。おれのケツのすぐ横には小さな蟻たちが行列を作っていた。一筋の黒い流れだ。白いなにかを顎に咥えて運んでいる。穴から穴へと。途方もない話だ。こんな様なことがそこかしこで同時多発的に起きている。それが現在ってやつだ。
本当にとんでもない世界に生まれてきてしまったものだ。こんな途方もない世界で、なぜおれはおれという個人なのだろう。おれには何を運べばいいのかすらさっぱりわからないのだった。何を何処に届ければいいのか。おれは途方に暮れていた。こちとら届けるつもりはあるにはあるんだ。違法、合法、正道、邪道、そのあたりの拘りも薄い方だ。だがミッションは一向に発生しやしないのだった。メインからサブに切り替えてみても、ミッション一覧は最初から空っぽのままだ。
結局は自分自身でミッションを作らなければならない。自作自演で右往左往しなければならない。忙しい、忙しい。そう呟きながら男が汗を拭き拭き足早に通り過ぎていった。まったく。なんという世界だ。途方もない。途方がなさ過ぎる。
生きた心地がしなかった。満ち足りた生活が生きた心地のしない感覚を生み出し続ける。ただ満ち足りた生活があるだけだった。飢えや渇き、孤独や失望、倦怠や諦観、満ち足りた生活がそれらすべてを覆い尽くしてゆく。
そろそろ薬を止めようと思った。もはや何の意味もない薬だ。快も不快もない。高く飛べるわけでもどこまでも沈んでゆくわけでもない。日に三つ飲んでいたカプセルを二つに減らし、二日に一回にした。脳が揺れる。頭の中を引っかかれているような衝撃がひっきりなしにおれを襲う。それでも構わず、カプセルを一つに減らした。脳が激しくスクラッチされている。思考が飛び、歪み、一瞬の判断は先送りにされる。言葉が宙を浮き、その意味するところがうまく理解できない。インデックスはグチャグチャに乱され、検索機能は機能不全に陥った。
きっとドクターはいい顔をしないだろう。焦りは禁物ですよ。ゆっくりと進んで行きましょう。ドクター。おれはあんたのノンビリ具合にはいい加減付き合ってはいられないんだ。おれは一刻も早く正気に戻りたいんだよ。焦っているわけではない。断じて焦っているわけではない。セカンドオピニオンであるおれ自身の意見を尊重しているだけだ。生きた心地がしないまま生かされているのはもうごめんなんだ。
「おまえの正体はこれだ。これがおまえの考えていることなんだ」
分析家気取りがそう言う。思わず手が出る。メガネがどこかに吹っ飛んでいった。弁償しろとか言われても敵わんので、速攻でその場から逃げ出した。同じ金をやるのなら、その辺の14歳にくれてやった方がよっぽどマシってもんだ。
何処に逃げても人がいた。もちろんおれもその一部だった。街は途方もなく広がっており、ようやく途切れたと思ったのも束の間、また新たな街に出くわすのだった。おれのこの脚では街からの脱出など叶わぬ願いというものだ。こういう時こそ自転車、あるいは自動車を盗むべきだが、老いぼれたおれには盗み行為への抵抗が想像以上に染みついていたのだった。どうしてこんなことになってしまったのだろうか。捕まるのが恐ろしいか。自分を生け贄に捧げることがそんなにも?
失敗を恐れるあまりに失敗してゆく。敗北を拒絶するあまりに敗北してゆく。それが街に住む人間の宿命であり、おれ自身もその宿命からは逃れることはできないというわけだ。
それでも、おれは納得していなかった。まったく納得していない。おれにはどんよりと暗い森や陰鬱な沼地が必要なのだ。飢えた吸血生物の群れ、獰猛で狡猾な毒持ち、言葉を忘れた世捨て人、そんなやつらに囲まれてこそ、生は本来の輝きを取り戻すことだろう。沼の底から、驚くほど巨大な老亀が呼吸のために顔を出した時、その時こそ、おれは心の底から幸せな気分になれるのだ。たぶん。




