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街はもうすぐゾンビーでいっぱい

 どんなに客観視しようとしても、見えない死角がある。どんな自我の意識でおれは自分を支えているのか。曖昧なアイデンティティー、カルト化する世界の気分への強烈な違和感、そして見捨てられ、見落とされ、こぼれ落ちてゆく、声を発することを許されていない人々、言葉を発しないことを自ら選択する人々。声なき人々のため息は巨大な雨雲となり、今夜もどこかに大雨が降り注ぐ。流れてゆく。日々の出来事。

 おれにはなにが正しくて、なにが正義なのかはわからなかった。生きれば生きるほど、考えれば考えるほどに、なにもかもがこんがらがってくる。だが、正義であろうとする。正義に拘り、正義を追い求めて生きようとする。そうして、おれは個としての自分に近づいてゆく。「普通」という感覚に、おれを保証してもらいたいなどとは決して思わなかった。

 絶対的に正しく、疑う余地のないこと。そんなものの存在を信じてしまうのは、まさしくカルトだ。普通の日本人。普通の社会人。普通の市民。普通に寄り掛かり、普通に呑み込まれ、普通の中に自己をカテゴライズしてようやく安心する。そんな連中は、保守であろうとリベラルであろうと、個を自らの手で捨て去った臆病者のカルト信者だ。本来は存在しない「普通」への依存。この世を窮屈に、退屈に、鬱屈に塗り替えようとし、殺伐とした風景に描いている中心は、普通中毒に陥ったカルティックジャンキーどもだ。


 そんなことを考えながら、午前三時の雨の中を歩いていたら虚しくなった。突然、雨脚が強くなったので、埼玉県庁の前の建物の軒先で雨宿りした。雨音が風に流れて、その様が街灯に照らされていた。

 おれは酔っていて、一文無しだった。もちろん、銀行口座の中には幾らか入ってはいたが、実感としては一文無しだった。建物の陰から追い剥ぎがおれを狙っていたとしても安心だ。素直に財布の中身を見せればいい。山賊は呆れて去ってゆく。もしかしたら、すこし恵んでくれるかもしれない。それとも八つ当たり的にマチェーテで頭を割ろうとしてくるのだろうか。それならそれで、悪くない。おれの血も、この雨が流し去ってくれるだろう。この酔いの中でなら、頭を割られようと、腹を裂かれようと、そこまで悪いもんじゃない。おれは間違いなく酔っていた。泥酔状態と言ってもいい。気分は悪くなかった。むしろ、とても良い気分だった。このまま、普通キチガイの連中を軒並みなぎ倒してやるぜ。そんな勢いがあった。

 掛かってこい、キチガイども、マヌケども、臆病者ども、卑怯者ども、クソッタレの雑魚ども。そんな気分だった。


 頭が割られたような朝だった。喉は砂漠と化し、口の中は生ゴミみたいな味がしていて、腹の中がぐるんぐるん回転していた。腫れぼったい目の下には、紫色のクマが垂れていた。身体中が熱っぽく発狂し、すべての部位が散り散りバラバラに逃げ出そうとしているようだった。おれはそいつらをなだめるのに精一杯だった。そのせいで、一歩も動けやしなかった。

 おれはなにかタチの悪い病気に掛かってしまったのかもしれない。それくらい最悪の朝だった。こんな朝には生きていることこそが、全ての不幸の始まりだって考えがより強固なものになる。なにしろ、生きているだけでこんな気分を味わわなければならないんだ。ちょっと一晩調子に乗っただけ。それだけなのにこんなしっぺ返しを喰らうなんて、あまりにも酷い。あまりにも悲しい。あまりにも残酷だ。慈悲がない。救いがない。ずっと素面でい続けるか、ずっと酔っ払っているか。その中間が一番ツラい目に遭ってしまう。一日が無駄に過ぎていく。過ぎてしまえば、無駄もクソもない。

 とにかく、体調が悪いってのは最悪の気分だ。変な病気になるくらいなら、その前にさっさと死んでしまった方がいい。だが、切り上げるべきタイミングを完璧に読み切ることなどできやしないんだ。それがなにより問題なんだ。そうしてずるずると、なし崩し的に生き続ける。そのうち体調も戻ってくる。失ったものには気づかない。気づかないが、確実になにかは失われている。二度と戻ってきやしない。


 おれはいったい何をしているんだ。いや、大丈夫、なんでもないよ……。おれはただ、くつろいでいるだけだ。足を思う存分に伸ばして、身体中から力を抜いて。

 なんらかの、一連の考えで頭の中が支配されている時だって、必要以上の熱は出さないようにしている。それがおれの弱みでもあり強みでもある。いつだって気が散ってしょうがないんだ。ただでさえ狭い視界を、さらに狭くするような命知らずには、おれはきっとなれない。おれの命にはまったく価値がないと散々思い知らされてきて、それでもおれは、この命をすこし惜しく感じているケチな男だ。

 気まぐれで、ポイッと捨ててみたら、さぞ気分が良いに違いない。所詮はこんなもんだぞ、ざまあみろ……。そう言って笑いながら沈んでゆく。もしくは落ちてゆく。誰が見ているわけでもないのに。いや、おれが見ている。観客はそれだけで充分だ。そんなふうになったら、おれはおれを見直すかもしれない。やればできるじゃないか。

 おれが無茶なことや無謀なことをやってのける時は、だいたいそんな感じだ。おれはおれに証明しようとしているんだ。どれだけ馬鹿げているかってことを。生きること、死ぬこと、その中でアタフタと立ち回ること……。膨大な数のミクロな悲劇。マクロな目で見れば、そいつは喜劇だ。あまりにも馬鹿馬鹿しくて、メチャクチャ笑える。いったい、どれだけの馬鹿げたことをしでかせば、満足できるのだろう。

 自分で自分の首を吊して、ブラブラと揺れている。そのすぐ近くでは、変態的な交尾の真っ最中。そのすぐ近くで、口をぽかんと開いてテレビを眺めている。通りを挟んだ店の中では、何度も何度もひっきりなしに乾杯をしている。そしてまた、自分で自分の首を吊して、ブラブラと揺れている……。


 それでも、どんなに馬鹿げていても、すべてを明け渡すわけにはいかなかった。殆どすべてを明け渡してやった。だが、すべてを渡すわけにはいかなかった。絶対に手の内から離したくないものがあった。これだけは、おれだけのものだ。それはつまり、おれがおれであるということ。おれがおれとして生きようとすること。おれはおれであるという強烈な自負。これだけは、誰にも渡したくはなかった。

 誰がそんなものを欲しがるってんだ? ああ、おれもそう思う。だが、少なくない数のやつが、まずこいつを奪い取ろうとしてきやがるんだ。冗談じゃない。まったく冗談ではないんだよ。これは本当の話だ。どうかしているんだ、どいつもこいつも。

 変な気分が蔓延している。徒党を組んで嘲笑っている。敵か味方かで分断しようとしている。敵と看做せば、どんなに醜い攻撃だって許されると思っている。味方と看做されれば、集合的アイデンティティーに立脚した虚像を勝手に仕立て上げられる。なにもかもが消費されている。見るも無惨に無茶苦茶にされてゆく。共感。同化。糾弾。排除。腐った言葉が、街を染め上げてゆく。精神を蝕まれ、巨大な嘘に一斉に依存し、溶け込み、弾かれて傷つくことを病的に恐れ、絶対に傷つかない偽物の自意識にすがりついている。

 おれは誰だ。そんなこと、誰もわからないよ。おれにだって永遠の謎のひとつだ。ただ、おれはおれで、あんたはあんた。このことだけは誰にも渡したくなかった。どんなに傷つこうとも、傷つけられようとも、これだけは盗まれるわけにはいかなかった。

 そんなことを考えながら、おれはベッドから立ち上がった。遅い目覚めだ。とっくの昔にみんな、動き出している。だからなんだってんだ。なんだって、遅すぎるってことはない。手遅れってことはない。おれはここからだ。そうとも。よくわかっているじゃないか。

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