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さりげなく出て行こう

 いつの間にか風は冷たく、早朝の空気がおれの目を刺していた。おれは涙を流しながら、鼻水をすすりながら、足だけが勝手に動き、変わらぬ景色がゆっくりと流れていった。何も考えていなかった。良いも悪いもない。身体が勝手に運ばれてゆくんだ。半分以上眠っている。四分の三は死んでいる。何も求めることなく、ただただ運ばれていった。

 おれの恐怖はつまり、おれが日常に溶け込んでゆくこと。言葉とおれが離ればなれになり、嘘くさい現実感に取り込まれてゆくこと。そうだ。おれはもっと肉感的に言語を操っていたはずだ。あっけらかんと生々しく、怪しい実験に手を染めていたのだ。黄緑色に輝く炎に照らされて、いくつもに分かれた影がゆらゆらと揺れていた。その一瞬をどう書くか。そんなことに夢中になっていた。

 空っぽの時代だ。おれたちの時代もあんたらの時代も、中身は同じさ、空っぽなのさ。自殺があり自殺者が埋葬されると、誰もそのことを思い出したりはしません。あなたを襲った衝撃の正体は、単純なへつらいの反応であったことが暴露されました。そうして忘れられた自殺者でこの世は溢れているのです。人々は計画性を持たず、反応で日々をやり過ごしているように見えます。理性未満の感情がうねりとなって、この土地を侵食してゆきます。わたしたちにはそれが見えていますが、見ていないかのように振る舞っています。わたしたちは理性未満の感情に囚われています。誰も他人の幸福などを願ってはいません。振る舞っているだけです。へつらっているだけです。わたしたちはうんざりしています。精神的冷酷さに溢れたわたしたちの足下には恐ろしい自然が控えています。わたしたちはいずれ足下にそっくり飲み込まれる運命です。そのことにこそ、わたしたちは心の底からうんざりしているのです。


 この世は管理者のいない精神病棟のようなものだ。皆、そこらをうろついたり意味不明なことを呟いたりしている。幻影に向かって拳を振り上げている。何がおもしろいのか、発作的なゲラゲラ笑いが冷たい廊下に響いていた。片側半分が月明かりに照らされ、なぜか両目だけが燃えるような光を反射していた。不安になってしまうような苦しげな咳、そこかしこから聴こえてきた。巨大なニレの木が不気味な存在感を見せていた。まったく、たまらない夜だった。苦しんでいない者など存在しなかった。

 小さい子どもは高熱と悪夢にうなされていた。苦しげに口をぱくぱく動かしていた。大粒の汗が鼻筋の横から耳の方に流れていった。目尻にはうっすら涙が浮かんでいた。まったく、やり場のない夜だった。自分の不甲斐なさに打ちのめされていた。どうにかする方法は幾らでもある。それでもどうしようもできないのだった。それもこれも、頭が狂っているせいだ。耐え切れなくなって、叫びを上げた。そんなことをしたってどうにもならないのに。まったく、理性的じゃない。ひゅうひゅうと、死にかけの老人の呼吸のような風が吹いていた。聞きようによっては、あざ笑っているようにも聞こえた。実際にあざ笑っている者たちがいた。狂気を顔に浮かべていた。ぐちゃぐちゃに乱暴な手法で掻き混ぜられた精神では、もはや繋ぎ止めることはできなかったのだろう。目を背けたくなるような狂気の表情で、やつらは笑い続けるのだった。

 国家や社会体制や大衆は思考を放棄するのに手段を選ばない。事実としておれたちは思考してもどうにもならないということを、散々思い知らされてきているわけだが、一方で不必要な思考なしでは生きてはいけない、思考なしでは自分自身にすらなれないということも身に染みていた。誰もが口では綺麗なことを言う。堕落を否定してみせつつも、実情はと言うと皆さんご存知のとおりだ。自身の目を潰し、鼻を塞ぎ、口には安全弁を取り付ける。心は麻痺し、痛みには鈍感になり、人が人に見えなくなる。まったく、理性的ではないが、理性的になろうと努力している人から順に自殺していくのが現実だ。


 おれは通りを歩き続けていた。商店の建ち並ぶ通りから、酒場で賑わう通りへ、大通りを渡ると人気のない裏通り、ある閉塞感から別の閉塞感へと歩くのだった。そして結局、また別種の閉塞へとはまり込んでいく。おれにはもう決断する力が残っていない。何をしても何にもならない。もはや何を望むべくもない。そして、人にはどんどん救いがなくなり、どんどん弱くなっていく。代を重ねれば重ねるほど弱々しくなっていく。

 おれはどうして早く出て行かなかったのだろうか。そうぼやくだけだ。出て行くのに最良のタイミングを逃してしまった。そう嘆くばかりだ。何を自分に問い掛けても何一つわからなくなっている。出て行くべきだったのだ。それも早ければ早いほどいい。しかし、おれは閉塞にしがみついてそのまま動き出そうともしなかった。これほどまでとは考えてもいなかったのだ。まさか、これほどまでとは。

 結局のところ、目を背けていたのはおれの方だったのかもしれない。もちろん、しっかりと見えているつもりはなかった。だが、やぶにらみではあるものの、見据えているつもりではあったのだ。比較的、理性的に捉えているつもりで、おれはそんな気分で生きていたのだった。

 今ではすっかり事情も変わってしまった。自然、歩きながら目に映る光景も、奇怪で異様な様相を呈していた。仮の結論として、こう考えた。言うとおり確かに、おれの頭は狂っているようだ。だが、おまえたちの頭もすっかり狂ってしまっている。誰もが狂っている。始まりからずっと、まともなやつなんていやしなかったんだ。どいつもこいつも。どいつもこいつも……。

 どいつもこいつも。そんなリズムで歩いていた。どいつもこいつもどいつもこいつも。陸橋を渡っている最中、低空に佇んでいる月と目が合った。おれはウインクした。月は煌々と輝いていた。眩しいほどだった。ひゅうひゅうと風が吹いている。どこか遠くからサイレンが鳴り響いてきて、おれはサイレンの種類がいまだに聞き分けられないことを知るのだった。つまりは、怪我人や病人が出たのか、人さらいがあったのか、火が出たのか。そのすべてかもしれない。確かに聞き覚えのないサイレンだった。少なくともおれはそう思った。

 何かを気にするべき時はとうに過ぎ去っていた。まったく、すべてが間抜けに見える。そう、おれも含めてだ。おれの周りが上手く回っていたとしても、安息に包まれていたとしても、それこそがおれに不安を与え続けることになるのだから、もう何もかもがどうでもいいことだ。自分の頭では、もう何も考えることはできない。何も。何ひとつとして。誰かの頭が考えていることだとも思うことができない。それでもまた朝は来るのだから自然は恐ろしい。何も待ってくれはしないのだった。ただ冷酷に冷徹に刻むだけだ。刻まれるだけだ。

 乾燥した肌に痒みがはしり、おれはいよいよ冬が来たことを知った。口元を爪で掻いた。肌が破けたような感触があった。こうなるとまた、過去は夢のようだ。なんだか不思議な気分だ。安らぎなどはない、気持ちも悪い、視界はぼやける。だと言うのに、ひと暴れしてやろうという気持ちにはならないのだ。なれないのではなく、ならないのだった。

 本当に不思議な気分だ。ムカつきもなく、苛つくわけでもなく、ただ足下に開いた裂け目をじっと見つめている。見つめ続けている。そんな不思議な気分だった。

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