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ヘイ、ミスター・サンドマン!

 最高潮に最悪だ。ジメジメとまとわりついてくる湿気、目に入るもの手に触れるもの、すべてが嫌な感じに濡れている。べとついている。今日も一日、川の水は流れていた。海へと流れ込んでいた。おれという存在も一緒に流し去ってくれやしないだろうか。おれがその気になりゃいつでも。その気になんてなった試しがない。ただ生きているだけで、流れに身を任せているだけで、疲労感が半端じゃない。おれはとても疲れていた。朝早くに目が覚め、昼過ぎに寝苦しさを感じてまた覚醒した。一瞬の混乱。ここはどこで、いまはいつだ? その混乱こそが今日一番のハイライト。つまり、その瞬間においてだけ、おれはおれとして全身全霊で現実感を味わっていた。

 その三分後、おれはキッチンでハイライトに火をつけていた。正確に言えば、ハイライト・メンソール。チバシティのホステス、クミちゃんの吸っている煙草と一緒だ。百合のタトゥーの女。目つきは鋭く、最高にクール。綺麗な女だった。悲しくなってしまった。おれが思い出すのはいつだって赤の他人だ。親しかった女たちを思い出すことは滅多にない。思い出してやる義理もない。向こうだって思い出して欲しくないに違いない。

 定期的に思い出してやらないと映像記憶は劣化してゆく。風化してゆく。年を経れば経るほど、おれの記憶領域はジャンクと化した記憶が増えてゆく。無造作に転がっている。もう二度と手に取ってじっくり眺めたりすることもないだろう。不要な記憶。だけど決して消えてはくれない。捨てることもできない。おれの頭は重くなる一方だ。そしてよく眠った日は、酷い頭痛に悩まされるのはなぜなんだろう。こういった記憶たちが悪さをしているんじゃないかとおれは思う。

 やっぱりおれは長く生き過ぎている。ストレージ容量に空きがありません状態だ。すべてを消し去ってやりたい。でもそのやり方がわからない。これじゃ新しい体験に喜ぶこともできない。なにもかにもに既視感。日常がデジャヴ。正直に言うと、おれはもう死んでしまいたい。


 自分の人生に絶望しているってわけじゃない。そのほかのことには絶望しているが、それで死にたくなってるってわけでもない。死にたいと言うよりも、もう生きていたくない。わかるだろう。おれはもう疲れたんだ。元から向いてなかったんだ。何にかはわからない。きっと色々とだよ。歩いたり、喋ったり。考えたり、見渡したり。嘆いたり、寝っ転がったり。そういうことすべてに向いてなかったんだろう。もちろん書いたりすることだって。

 勘違いして欲しくない。おれは暗い気持ちになんてなっちゃいない。おれは大体のことに満足している。おれにしちゃ上出来だった。おれとして生まれてきたこと、生きてきたことに後悔なんてあるはずがない。でも、もう容量に空きがないんだもの。頭がすごく痛いんだもの。心浮き立つ体験ってものを出来る気がしない。セックス? ドラッグ? いや、もう大丈夫っす。別に飽きたってわけじゃないけれど、どういうものなのか大体わかったので。探求したいって気にならないので。おれには向いてないってことがわかったので。

 ほかに何かあるかい。素晴らしいことって他になにか。なにも思いつきゃしないよ。この時点でもう向いてないってことがわかろうというものだ。なにかあるのかよ。マジでなにもないではないか……。


 なにもないところから始めればいいって言うけどさ、手掛かりもなにもないのだから、なにも始まりはしないよ。そもそも何かを始めたいと欲してもいない。おれに必要なのは終わりだ。目に見える、ハッキリとした形での終わり。人生ってそれがあるからいいよな。死っていうエスケープルートがある。遭難しようが絶望しようが、混乱しようが追い詰められようが、いつかは終止符が打たれる。だからこうして気楽に生きていけるってものだ。本当に人生ほどラクなものはない。何も考えなければの話ではあるが。

 考えてしまった途端に、それはあり得ないほど理不尽な重労働と化す。確かに止まない雨はない。でも雨が止んだって、いつかまた雨は降り出す。

 おれは子どもの頃にこう思ったものだ。どうして悩みが次から次へと押し寄せてくるのだろう? どうしてラクに生きさせてくれないのだろう? この嫌な感じをなくならせるにはどうしたらいいのだろう?

 答えなんて出やしなかった。悩みはいつの間にかなくなっていた。でも、この嫌な感じは個人的な悩みが原因ではなかった。生きること自体が嫌な感じを全身で浴び続けることだったのだ。子どもの頃のおれはイイ線突いていた。あと一歩だった。もうあと一歩だけ、前に進むべきだった。早いうちに決着をつけてしまうべきだったのだ。

 そしておれは中年になっていた。すべては手遅れだった。飛ぶべきタイミングが、おれには確かにあった。だが、すべては手遅れだった。遠い昔、掴みかけていたそれを、もう一度掴んでやろうともがいてみたが、すべては遅きに失していた。それでもイチからなにかを始めろって? 馬鹿言わないでくれよ。おれはもう疲れたんだ。酷い頭痛だし、めっきり視力が悪くなってきたように思う。光が震えるんだ。光を捉えることができなくなってしまったんだ。こんなおれに手を差し伸べてくれなんて言っているわけじゃない。もうその手を握る握力があるかどうかも怪しいもんだ。まだ力が残っていたとしたって、そんな無駄なことに力を使いたくはない。おれはこのまま沈んでいっちまいたい。それがいまのおれの望みだ。


 そうは見えないかもしれないが、おれはいま、生きていて一番良い状態にある。なにもかもが上手く回っていると同時に、そんなことはかなりどうでもいいと思えるようになった。寂しくもないし、寒くもない。悲しくもないし、痛くもない。楽しくもないし、ただ眠たいだけだ。眠ることさえできればそれでハッピーって最高の状態じゃないか。あと足りないのは目の覚めることのない眠りだけ。だけなのだが、おれに毒入りリンゴを食わせてくれる優しい老婆はいないのだった。

 もしコールドスリープ技術が出来ましたってなって、被験者募集ってことになったら、いの一番で立候補したいね。失敗しても成功しても最高だよ。ヴォルトテック社はいったい何をやっているんだ。早くおれを眠らせてくれ。おれは眠っていたいだけなんだ。そのままずっと眠り続けていたいだけなんだ。こんなささやかな願いすら叶えてくれないのだから嫌になってしまう。現実ってやつほど悪意に満ちたものが他にあるだろうか。

 おれが見ていた夢は意味深なものだらけさ。夢の中でおれは夢を見ているおれを見ている。つまり、これは夢だ。でも明晰夢なんておれは信じないぜ。予知夢、夢診断、夢にまつわる勝手なこじつけのすべてにファック・ユーだ。夢こそが剥き出しのリアルなんだ。もうダメかも。そう思ったなら、まず眠りにつこう。夢を見よう。リアルを信じよう。きみだけのリアルを。

 そしてこの世界のすべては嘘っぱちってことだ。無いものを在ると言い張るヤツだらけ。在るものを無いと欺くヤツだらけ。そんな連中とはさっさと縁を切った方がいい。つまらん連中だ。いや、本当にそのつまらなさにはいつも驚かされるよ。そりゃおれも眠たくなってしまいます。あくびの出ることばっかりだ。つまらん。退屈。ヤツらの現実感はいつも焦燥に駆られている。そんなに切羽詰まっているのなら、さっさとくたばってしまえばいいのに。

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