1980年のロックンロール
湿った風が吹いていた。こんな風をずっと浴びていたら、いつかカビだらけになってしまう。相変わらず不条理なことだらけ。秩序の仮面を被った混沌の使徒が通りに列を作っていた。辛気くさい夜だ。それを言ったら、今日一日が辛気くさく、まるでぱっとしない日だった。
なにもかもが湿っぽい反面、おれの語りは乾いていく一方だ。自ずとこうなった。気づいたら、荒野に立っていた。この乾きの正体はいったいなんだ。老いによる潤いの欠如なんてオチはやめてくれよ。おれはまだ高原の朝の精神を保っている。少なくとも自分ではそのつもりだ。
だが、自分の思う自分と、実際の自分が重なることは、おそらくありえない。この場合の実際の自分とは、自分の眼を排除した自分で、それはつまり、他者の目から見る自分ということだ。
実際の自分……なんだか混乱してきた。結局のところ、実際の自分なんてものは存在しない。おれの目を通そうと、誰の目を通そうと、その都度その都度に合わせた不定形の自分がいるだけだ。
それから、強い風が吹いてきた。冷たく鋭い風だ。さっきよりもずっといい。そして雨。雷。おれはタッチの差でセーフ。別に濡れたって大した問題ではないけれど、やっぱり濡れたくはないのだった。
ぽったんぽったん、雨だれの音に1980年のロックンロールが混じっていた。オイラを愛してくれたなら、なんでもおまえの意のままに。なんでもおまえの意のままに。
働くって、案外楽しいかも。そんなふうに思った。少なくともそこまで嫌なものではない。日に日に少しずつわかってくる。はっきりとした形を帯びてくる。見える風景が変わってくる。そんな過程はなんだって楽しいもんだ。問題はその後だ。その後が問題なんだ。きっとまた訪れる。おれはいつか、肩を叩かれてしまう。
振り返る。誰もいない。向き直る。目の前に広がっているのは、大いなる停滞だった。延々と続く停滞。ルーティン、ルーティン、またルーティーン。泥濘に足を取られながら、ゆっくり沼地を進んでゆく。その先に何があるのかもわからないままに。死ぬまでこのままかもしれない。こんなことを死ぬまでずっと? そんなのって悪夢よりタチの悪い悪夢だ。おれはこんな場所で死にたくない。病院でだって死にたくない。老人ホームでも死にたくない。自分のベッドでもごめんだ。不様な死に顔を晒したくはない。おれの墓場も、棺桶も、遺影も、ぜんぶやめてくれ。おれを偲ばんで結構。できれば死んだことすら知られたくはない。虫の知らせなど絶対に送りはしない。誰のことだって考えながら死にたくない。しかし、こんな沼地にいたのでは、それも夢のまた夢に違いない。
外だ。外が良い。死ぬときくらいは外に出て行って死にたい。象の墓場みたいな場所はどこかにないのだろうか。最後は、這いずってでも、そこに向かいたい。それがおれのミッションだ。そのために、おれは生まれてきたような気がする。終わり良ければすべて良しだ。
ついに、死について考えていると興奮してきてしまう、そんなお年頃に差し掛かったというわけだ。おれは難しい年頃なんだ。簡単な年頃なんてあったためしもないが。これから簡単になってゆくのだろうか。そう願いたいが、願うことはできない。そんなはずがないということが、ちゃんとわかっているからだ。むしろ、どんどん難しくなってゆくと思う。いつかはこの難しさに耐えられなくなる日がくるかもしれない。まあ、どうでもいいか。いつかの話などをしてもしょうがない。もっと楽しい話をしよう。
さてと、いま、おれたち夫婦は二匹の蜘蛛と同居している。ハエトリグモが一匹、アシナガグモの仲間が一匹。小さい彼らの生活を見守るのが、いまのおれの楽しみだ。
しかし、この部屋の中に彼らの獲物が存在しているのだろうか。いても別に驚きはしないが、おれは見たことがない。でも、彼らが住みつくということは、何かがきっといるのだろう。
去年の一時期、ベランダにジョロウグモが巣を張っていた。彼女の成長を実感するのがおれの楽しみだった。だが彼女は、台風の晩が明けると、どこかに消えてしまっていた。風に飛ばされたなんてことはないはずだ。台風だって前評判ほど大したものではなかったし、おれは夜の間、定期的に彼女が無事かどうかを確かめていたからだ。でも、台風の後の朝、爽やかに晴れ渡った朝、彼女の姿はどこにもなかったのだった。うちのベランダに見切りをつけ、どこかに旅立っていったのだろう。
おれは彼女が羨ましかった。身体ひとつで、どこにでも行ける。住みたい場所に住み、その場所が気に喰わなければ、また別の場所に。おれだって行きたい。ここではないどこかに。
だからこうやって語り続けているんだ。書き続けているんだ。この領域では、いまのおれの気分がなによりも大切で、おれ自身のことなんかよりも、ずっとずっと大切で、だからこんなふうになっているというわけだ。つまり、いまのおれはこんな気分だということだ。
おれはなにを語っているんだろう。そんな疑問などはなかった。あった時期はあった。こんなことをして、どうするの。どうもしないんだ。どうともしたくないんだ。いいんだ、おれはこれで。
これは文学なのかそうでないのか、そういう疑問はちょっと難しい。そもそも文学ってよくわからない。わかっていたようで、なにもわかっていなかった。まあ、どっちでもいいよ。文学であろうとなかろうと。
おれはたぶん文学が好きだし、文学というものに比較的拘りを持っている方だとも思うが、文学を突き詰めて考えるということをしたことがなければ、体系的に文学を読み進めてきたわけでもない。でも、全然大したことのないものを、これぞ文学、すごく文学的……なんて言って、はしゃいだりは一度もしたことはない。それくらいには文学というものに敬意を払っている。雑に扱ったりはしていないつもりだ。文学という言葉を雑に使うやつは、かなり嫌いだし、とてもみっともない感性の持ち主だと思っているし、まともなものを読んだことがないのだろう、そう決めつけてしまっている。
一度でも、まともなものを読んだことがあるのなら、超絶どうでもいい日常ふう素敵ふう雰囲気スケッチふうなんか深いこと言ってるふう、ただそれだけ、それ以上でもそれ以下でもないだけのシロモノに、これが文学だ、などと思ったり言葉にしたりするはずがない。
まあ、でも各々好きにすればいい。それでいいなら、それでいいのだろう。おれは嫌だというだけの話だ。
そしてまた、語り始めよう。言葉が宙に浮き、夜と手を組む様を。ストーリーのない物語を。
心が浮き立つことはないだろう。涙が流れることもないだろう。熱狂を呼び込むこともないだろう。それでも、なんだか変な気分にはさせてあげられるかもしれない。おれの語りがあなたに提供できるとしたら、おそらくそのようなものだけだ。
いつの間にか雨は止んでいたし、1980年のロックンロールもとっくに止んでいた。聞こえるのは寝息と、おれの語り、それと、微かに虫が鳴いている。確実に季節は巡りつつあった。どんなに異常な状況に思えようとも、どんなに地獄めいていようとも、それでもサイクルは止まったりはしなかった。仮に止まったとして、それがなんだと言うんだ。
また一日が駆け巡って葬り去られようとしている。二度と戻ってきやしない。戻ってこられたって困る。そして、おれはおれの墓場を探していた。