流されるままに不様
そして、コゲラが鳴いた。不思議な話だが、すぐ目の前でコゲラが鳴いたその瞬間から、おれが語り出したのだった。それからいくつもの季節が過ぎていった。微妙な狂いを見せつつ、サイクルは続いている。
コゲラは……と言うか、小鳥全般がそうなのだが、動きが細かく、そして素早い。チョコチョコと動くのだった。おれとは違う時間を刻んでいるんだ。積んでいるメトロノームが違うと言えるかもしれない。小鳥たちからすれば、おれなんてウスノロもいいところだ。
そんなにゆっくり生きていて、飽きないの? もちろん、飽きているとも。こんなに生が長いなんて知らなかった。
おれがまだ小さい頃の一年は、それはもう恐ろしいほど長く、一生自分は小学生のままなのではないか、まさに恐怖だったわけだが、そこから少しずつ加速を重ね、今となってはそれなりのスピードで季節を駆け抜けているはずなのだが、それにしたって長過ぎる。
密度なく、薄く引き延ばされた生がひたすらに続いてゆく、不安や劣等感だけをいたずらに植えつけられ、生まれたことを後悔したって最初からなにも取り戻せやしない苦行だ。はっきりと言えるのは、生きることは不幸そのものだ。生まれや家柄など関係ない。生きている限り続く、自意識との果てしなく虚しい戦い。こんなことを続けるのなら、ドラッグでもキメまくって早めに死んだ方が絶対にいい。密度のある生を送れるし、生への反逆にもなる。憎いのは人間、人間の自意識、狂っているのは人間、おれの自意識。
それでも、人一倍楽しそうに生きているさ。まるで人生をエンジョイしているかのように振る舞うさ。キチガイを見るような目で見られるのはごめんだから。だっておれはキチガイではないもの。おまえだ。そんな目をするおまえの気が違っているんだ。
この間違いだらけの街の中で生きて、息が詰まりそうになる。おれがまだ小さい頃は、すべてが夢なんだ、いつかすべてが元通りになるんだ、そんなふうに思っていたものだが、その夢はいまもまだ覚めずになにも元通りになっちゃいないし、今さら元通りになられたって逆に迷惑ってものなのだが、おれはいつかはこのサナギを蹴破って蝶になり、美しい野辺を、どこまでも飛んでいってやろう、そう決めている。
狂い雨に打たれて、久しぶりに、本当に久しぶりに、外に出掛けなければいけない理不尽さを思い知らされたのだった。
見るからにヤバい雲が空を覆っていた時点で、ビニール傘を買っていたので致命傷にはならなかったものの、足は見事に水没し、肩にも水溜まりができてしまった。
すべては一瞬の出来事だった。準備運動をする時間もなく、辺り一面がウォーターワールドと化した。しぶきだかなんだかわからないが、視界は煙り、下手な動きをすれば自動車に撥ね飛ばされてしまうと思われたので、慎重に道を選んだ。
さっきも言ったが、おれはビニール傘を買っていたので命拾いしたのだった。おれがもし、しみったれた根性の持ち主であれば千円弱をケチった結果の立ち往生、もしくは溺死、あるいは内輪差に巻き込まれて死亡、その他諸々の悲惨な結果を招いていただろうが、おれはその後の生活よりも、いまこの瞬間をできるだけストレスなく切り抜けることに全力を傾けるので、なんとか生きて帰ることができたと言うわけだ。
それから、あっという間に次の日だ。なんだかちょっと涼しい気がした。湖のほとりで迎える朝のようだった。無造作にちぎって捨てたような雲がいくつか出鱈目に浮いていた。ひょっとすると、夏はもう終わったのかもしれない。なにもかもがあっという間だ。次の朝も、次の季節も、押し出されるように次々とやってくる。詰まっているのは、おれだけだ。おれだけってことはないか。全員だ、全員。
どいつもこいつも詰め込まれて詰まって、はち切れそうになった大腸の中でぎゅうぎゅう詰めの押し合いへし合い、そんな中でおれは立ったまま眠っている。見知らぬ誰かがおれのベッドだ。どうしても眠いのだから、しょうがないだろう。おれも朝の風景の一員だ。まったく、こんちくしょう、だ。本当にしょうもないことになってしまった。
まるで不様だ。肘で突かれたり、かぐわしい吐息を吹きかけられたり、湿った熱気を身体いっぱいに浴びて、大腸からまろび出た人たちの群れの流れに乗るしかできない。おれたち、ウンコみたいなもんだ。朝一発目のウンコ。不健康なウンコ。まったく不様に流されてゆく。
チューブ状の薄暗い道を歩かされて、いくつかの階段を上がって、地上に出てみれば、そこはまた夏だった。飛行機が頭の上をすれすれで飛んでいった。ように見えただけで、実際は相当な高度なんだろう。上の距離感はよくわからない。比較するものがないからだ。何かを掴もうとするように、右手を空に掲げてみた。飛行機を捕まえて、しばらく眺めて、放してやった。飛行機はホッとしたように、またどこかへ飛んでいった。もちろん嘘だ。突拍子もないことを語ろうとしても、おれの想像力なんて、この程度のもんなんだ。元気が失せてきた。気が滅入ることばかりだ。暑いし、身体がベタベタする。まだ朝だってのに。
夜はまた雨。それも半端じゃない雨だ。さすがにおれも二日連続でビニール傘を買ったりはしなかった。別にケチったわけじゃない。馬鹿らしくなっただけだ。そのかわりタクシーをつかまえた。バッチリ家の前まで送ってもらった。金がなくなったから働きに出たと言うのに、働き始めた途端に金の減りが猛烈に加速している。なんだか納得がいかない。ペテンに掛けられている気分だ。実際のところ、おれの金がちょろまかされていたとしたって、ちょろまかされたことに気づきやしないだろう。たまに首を傾げるくらいのことはするかもしれない。
語るってのは、つまりはアレだ。毒の沼の袋小路に自らを投げ出すようなもんだ。語ろうとするから駄目なのかもしれない。何を語るか、どう語るか、なんてことを考えてみよう、とかなんとか言ってみたはいいけど、さっぱり何も考えていないことに気づいた。気づいてしまった。ほどほどにしておこう。考えねば、なんて考えてばかりいると気が狂ってしまう。
最近は本当に他人と会話が噛み合わなくなっている。テンポが合わないんだ。なんてことない質問にも、うー……なんて唸って、考え込んでしまう。どんな質問だったかは忘れてしまった。最高にしょうもない質問だったはず。休みの日はなにしてるんですか、とかそんな感じだ。どうしてそんなしょうもないことをおれに訊くんだ? 内心、すこしムカついた。本当のことは言いたくないというか、込み入っていて言えないし、当たり障りのない答えは見つからないし、うー…………いろいろ。なんて馬鹿みたいに答えた。
馬鹿だと思われたかもしれない。おれに限ってそんなことはないとは思うが、こいつ馬鹿だからって舐めた態度を取られたら、メチャクチャに怒ってやろう。でも、それじゃまるっきりキチガイみたいだ。おれはキチガイと思われたいわけではない。なぜならおれはキチガイではないからだ。
ちょっと待って、もういいから要点だけ話して。とか言われたらどうしたらいい? おれはキレちゃうかもしれない。少なくともふて腐れてしまうに違いない。
ま、そんなことはどうでもいい。本当にどうでもいい。どうでもいいことを語る以外に語る術を知らない。語ること、書くことは内なる義務だ。それなら、どうでもよくたってどうでもいいはずだ。それはそうだ。でも、これは違う気がする。語るうちに入っていない気がしてならないのだが、語れば語るほど、いつか来たこの場所に辿り着く。それはつまり、袋小路だ。
そして、背後でガシャーンと音がした。振り返ると、いま来た道が閉ざされている。ゲームによくある、あの感じだ。完全なる密室がここに完成したというわけだ。