対決
三人は、近くの空き地に場所を移していた。
昔は病院が立っていたというこの空き地は、四方を壁に囲まれ、昔は頑丈な鉄の扉がついていたと思われる、小さな入り口からだけ中に侵入できる。ただ、元病院にしては四方を壁に囲まれているというのは不自然であるし、小次郎は実は別の施設のようなものでもあったのではないか、と考えていた。実際、廃棄された病院というのは、この街の心霊スポットとして別の場所にも存在する。
ともあれ、この空き地の建物はとり壊され、雑草が覆っているばかりであった。
決闘にはもってこいの場所ではあるが、できれば小次郎としては闘いは避けたいところだった。先日、鼻を折って謝罪したばかりだからである。高校入学早々、問題ばかり起すわけにもいかないと思える。
「別に柔道じゃなくてもいいぜ」
と言ったのは溝口だ。
小次郎に本来のスタイルで闘え、ということだろう。
「本来っていってもなあ。でも、やっぱまずいって、この前謝罪したばかりで、また怪我でもしたら、いいわけつかないし」
「親や、教師に泣きついたりしない。自分でやったことにする」
溝口は断言した。
「でもさ、鼻、まだ完全じゃないんだろ。本気ではいけないよ」
「かまわんといっている。それでもいやだというなら、寸止めルールでもいい。顔の前で止められたら俺の負けでいい」
溝口はかたくなだった。
「でも、僕が勝っても負けても、得るものも、失うもののないしさ、闘う理由がないんだよね」
小次郎だって、こういった決闘まがいのことは嫌いではない。だけど、昨日の今日では印象が悪すぎる。
二人の間に沈黙が流れる。
溝口が先に動けば、小次郎も対応するしかないし、そうなれば、もはや闘うしかないのである。さっさと逃げればよかったのだが、乙女の前ではそれも出来なかった。乙女は小次郎の腕をかっているらしいのである。
「私、暴力なんてつかう男は嫌いだけど―」
唐突に口を開いたのは乙女だった。
小次郎は乙女の助け船に期待した。
「暴力は嫌いだけど、こういう、お互いの切磋琢磨した技を、競い合う闘いっていうのは好きよ」
泥舟だったようだ。
はあ、と小次郎は溜息をついた。
「だろう? 乙女」
溝口は得意げであった。
そして、二人は知り合いでもあるらしい。それに小次郎は少しムッとした。知り合いであるからといって、別に怒る理由もないはずなのだが、少しだけ闘う理由も見えたように思えた。
「それじゃあ、こうしましょう」
乙女は、いいことを思いついたとでもいうように両手を、ぽんと合わせた。
「むっちゃんが勝ったら、私はむっちゃんと、またデートするわ」
「おお」
溝口の声は裏返っていた。
むっちゃんというのは溝口の愛称のようだ。
この会話で一番重要なのは、早乙女さんは現在フリーらしいということだ。そして、またデートということは、溝口は前に早乙女さんとデートしたことがある。
すでに勝った気でいる溝口を見ながら、小次郎はそんなことを考えていた。
「僕が勝った時のメリットがないみたいだけど」
勝ったら僕とデート、などと小次郎は期待しながら言った。
「お前が勝ったら、俺は柔道部をやめる」
答えたのは溝口だった。
それでは、勝っても負けても、小次郎にはメリットはない。溝口に柔道を辞められたら、小次郎は愛田顧問にどう謝ればいいというのか。後藤主将になんと言い訳すればよいのか。
溝口は構えをとった。
その気迫が小次郎の頬を打つ。もはや、制止は無理だろう。
小次郎は、ブレザーの上着とネクタイをはずして、地面に置いた。
「勝手にしろ。メリットなんてなくたって自分で掴んでやる」
小次郎は、軽く腰を落とした。
両手は特に大きくは構えない。僅かに曲げて体の横に置く。
溝口が、半歩ほど、すり足で前進して止まった。
小次郎は驚いていた。溝口はすぐに組みに来ると思っていたからである。今回はかなり慎重に間合いを詰めてきていた。
考えてみれば、あたりまえである。
溝口にとって、小次郎の本来のスタイルというのは未知のものであるからだ。
慎重に相手の出方をみるのは当然といえた。
溝口はそのまま、ゆっくりと小次郎を中心にして、円を描くように動き始める。今度はすり足ではない。リズムを取るようにステップを踏む。
小次郎もそれにあわせて、身体の正面を溝口に向けるように、静かに回転させていった。
しばらく、その状態が続いた。
小次郎としては溝口の出方を待っているのだが、いっこうに仕掛けてくる様子はない。
ぐるぐると、ただ、ぐるぐると、溝口は小次郎を中心としたコンパスのように円を描き続ける。
小次郎の視界に十二回、乙女の姿が入って消えた。
じゃあ、次で十三周目だな、と小次郎は思う。
さっさと溝口とのことは片付けて、乙女との会話を再開したかった。あの綺麗な声と対話したかった。
十三回目の乙女の白い貌と桜色の唇が、小次郎の瞳に映った時、溝口が動いた。
わずかに、小次郎の視線が乙女に向いていた、その一瞬である。
あろうことか、闘いの最中に女に眼を奪われた。ありえないことだ。
しかし、それはコンマ何秒のことだ。小次郎の視界の端に乙女が映りこみ、無意識に眼球が、ちらと乙女に焦点を合わせたのだ。
その瞬間に溝口が動いたのは、偶然か狙ってのものであるのか、小次郎には判断出来ない。
小次郎の顔面に、溝口の右脚が跳ね上がった。
渾身の蹴りだった。
見事に脚の伸びた経験者の蹴りだった。
それを小次郎が後ろに跳んでかわせたのは、天性の反射神経のたまものだろう。
だが、跳びすぎた。
あまりにも咄嗟だったために、力任せに跳んでしまった。
自分の鼻先を、溝口の右足の甲が吹き抜けていくのを見ながら、小次郎はそう思った。
跳ばずに、半歩身体を引くだけでよかったのだ。そうしさえすれば、そのまま反撃に移れた。その身が空中にあっては反撃しようがない。
小次郎の両脚が地についた時、溝口も体勢を立て直していた。
柔道にハイキックなどあるわけがない。だとするなら、溝口は柔道以外にもなにかやっているのかもしれないし、それこそ天性の素質の持ち主かもしれない。
集中しろ。
小次郎は、自分に言い聞かせた。
集中さえしていれば、負けるはずがないのだと思う。
力の差がある。柔道でもう一度闘うとなれば、あるいは負けるかもしれないが、なんでも有りという条件であるなら、自分の方が強いはずである。
おそらくは、あの日。
溝口と小次郎が闘ったあの日。溝口は乙女を柔道館に呼んだのだろう。誘ってもまったく乗ってこない乙女に、自分のいいところでも見せようとしたのかどうかはわからないが、とにかく、溝口は乙女をあの日、あの場所に誘ったのだ。それは多少強引だったのかもしれない。
が、とにかく来させたのだ。
そして無様に敗れた。見るも無残なかたちで。
しかし、乙女は視てしまったのだ。その時、小次郎の技を、常人ならざる術を。
おそらくは、そこで乙女は小次郎に興味をもった。
だとするなら、溝口は恩人なのかもしれない。
全ては小次郎の心の中での仮定の話ではあるが、溝口に恩があるとするならば、ここは全力で闘うのが礼儀というものだろう。
またしても溝口が動いた。
今度は円は描かない。
小次郎の正面に出る。組みに来たのだ。
シャツの袖を掴みにくる。
いやがるように、小次郎は溝口の腕を払った。
摑みに来た腕を払う。払う。払う。
そして、掴んだ。と溝口は思っただろう。
いや、確かに溝口は左腕で、小次郎の胸元を捕らえていたのだ。掴んではいたのだが。
同時にその手を、小次郎の両手で掴まれていた。
掴みにいった手を、逆に掴まれていたのだ。
そのタイミングで、小次郎は跳躍した。
溝口の驚愕した顔が、小次郎の眼に映る。
当然溝口は、小次郎も腰を引いて踏ん張るとでも思ったのだろう。
ぶちぶちと小次郎のシャツのボタンが、上から順にみっつ弾けとんだ。
溝口にシャツの胸元を掴まれたまま、小次郎自身が跳躍したため、ボタンを止めている糸が耐久限界点を突破したためだ。
溝口の左腕を、両腕で捕らえたまま、空中で一回転し、溝口の腕を締め上げる。
ぎしぎしと溝口の肩関節が悲鳴をあげる。
このまま腕を折ってしまえば、小次郎の勝利である。
「うあ」
溝口はそう呻きながら、身体を後ろに倒した。
背中合わせになっていた二人が、もつれ合うように地に転がる。
ざ。
と腿のあたりまで伸びていた雑草の音が鳴った。
比較的高く伸びている雑草群の中に、二人は倒れこんだのだ。
ざざざ、ざざざ。ざざざざ。
二人を包みこむように覆い茂っている草々が、激しく、のたうつように、狂おしく鳴り響いた後、パタリと静寂が訪れた。
ゆっくりと、静かに男がひとり立ち上がった。
小次郎だ。
立ち上がって、ふうと息をつく。
「むっちゃんはどうしたの?」
乙女が訊く。
心配になるのは当然だろう。倒れたままの溝口はピクリとも動かない。
「心配ない。心臓だって動いてる。いわゆる落ちるっていう状態かな。ほっておけば眼を覚ますと思うよ」
「むっちゃんの首を絞めてたみたいだけど。大丈夫なの? 窒息とかしてない?」
「ああ、気管は絞めてないから大丈夫。いわゆる頚動脈を絞めて脳にいく血流を止めるってやつだから」
いいながら小次郎は溝口の横にしゃがみこんで、掌を溝口の額に当てた。
びくりと溝口が震えた。そして、意識を取り戻す。
呻きながら首をさする溝口に、小次郎は「僕の勝ちです」と言い残して歩き出す。
乙女もそれに続いた。
空き地を出る時、乙女がもう一度だけ心配そうに溝口を振り返った。
溝口は乙女に大丈夫だと、右手を上げる。
小次郎と乙女は、溝口ひとりを置いて、この場から退場していった。
溝口はしばらく放心したように座りこんでいた。
何気なく顔を上げると、何かが空き地の入り口で動いたのが見える。
ひょいと、小次郎の顔が入り口から覗いたのである。
「柔道部は辞めなくていいですよ」
そう優しく言い残して、今度は本当に消えていった。