乙女
ことがすんで、トイレから出た時、すでに少女はトイレから出てしまったようだった。
小次郎が便器に座りこんでいる間に、手を洗う水の音が微かに聴こえていた。彼女のものだろう。すぐにでも出て行って弁解をしたかったが、ことがすむまではそれも無理だった。
コンビニの店内に戻り、周りを見渡したがそこにも彼女はいなかった。
死んでしまいたい気分だった。
あの少女はどう思っただろうか。
まさか、わざとトイレを覗いたなどとは考えていないと思うが、それも確認したわけではないので小次郎にはなんともいえない。
明日、あの少女がトイレを覗かれたと学校で言えば、その瞬間に小次郎は女子のトイレを覗く変質者として、学校中に知れ渡ってしまうだろう。それほどの、影響力があの少女にはあると思えた。
―なにしろ、ものすごい美少女なんだから。
足取りも重く、コンビニの自動ドアを抜け外に出た。
「ねえ」
突然、横から声を掛けられた。とても澄んだ女の声だった。
慌てて顔を向けると、そこに、いた。
美少女が立っていた。
何度見ても綺麗な貌で、長くて白い脚で立っていた。その細い足首に巻きつくように野良猫がまとわりついている。いつもこのコンビニにたむろしている猫だ。
猫にだって美しいものはわかるのか、と小次郎は思った。
少女の腰の位置が高い、学校指定のローファーなのに、ヒールの高い靴でも履いているのかのように見える。少しだけ頬が紅くなっているように見えるのはしかたがないだろう。なにしろ、あんな無防備な姿を見られたのだから。
小次郎の脳裏に、驚きと同時に一つの懸念が浮かんだ。
この美少女はここで小次郎を待っていた。言いたい事はハッキリと言ってしまうタイプなのかもしれない。だとすれば、やはり小次郎の運命は決まってしまった。明日の今頃は、女子便所を覗く変態として、その名を轟かせてしまう。
それだけは回避できるよう、なんとかせねばならなかった。
「あ、はい、あの、なんていうか、すみません、わざとじゃないんです」
弁解にもなにもなっていなかった。
小次郎は、混乱につぐ混乱で、うまく言葉がまとめられない状態なのである。
「そう、あのトイレどっちが女かわかりにくかったからね、私も一瞬迷ったわ」
美少女の意外に物分りがいい返事だった。その口調は少し大人びている。
小次郎はそこに一縷の望みを見出した。
「う、うん、そうなんだ。マークの色が黒いからてっきり男の方かと。その、けっこうあせってたし」
「崎くんだよね?」
必死に間違えた原因を羅列して弁解を始めた小次郎に、美少女は質問で返した。
しかも、予想の範疇を超える問いだった。
小次郎は思わず自分の名前を示すものが身体のどこかについていたのかと、自分の鞄や制服を見渡す。だが、そのようなものはまったくついていない。
「なんで?」
「美雨―三木田さんに聞いたの」
美雨の知り合いのようだ、と考えた所で小次郎に疑問が湧き上がる。
「美雨の知り合い? 前に美雨と歩いてる時に、君の姿を見たんだけど。その時はあいつは君のこと知らないみたいだったけど」
「え? 美雨がそう言ったの? ああそうね。そうだった」
美少女は一人でかってに、なにかを納得したようにそう言った。
当然、小次郎には何がなんだか分からない。
呆然とする小次郎の顔を見ながら美少女は、くすりと笑って見せる。
「ええと、まず自己紹介する。私は早乙女。一年五組よ」
「さおとめ、ですか。あの下の名前は?」
その問いに、早乙女は一瞬言葉を詰まらせる。なにか言いにくそうにしている。
どうしたの? と小次郎が訊く前に、早乙女は意を決したように口を開いた。
「早乙女乙女よ……」
雑踏の中に消え入ってしまいそうな声だった。先ほどまでの自信に溢れた口調とはうって変わっている。
「さおとめ、おとめ?」
「そうよ、早い乙女に、もうひとつ乙女。なんだか冗談みたいな名前でしょう」
「覚えやすい名前だね」
言ってしまってから、小次郎はしまったと後悔した。
「まあ、そうだけど、気にいってはいないわ。いいえ、それも違うわ。気にはいっているのだけど、病院の受付とかで大きな声で呼ばれると恥ずかしい」
乙女は明らかに不満そうに、形のいい眉をひそめる。
その顔も綺麗だ、と小次郎は思う。離れて見ていた時は、大人びていて完成された美しさであったが、間近でみると、まだわずかにあどけなさを残していた。
「いや、でも綺麗な名前だね」
慌てて取り繕うが、時すでに遅し、とはこのことだろう。
「無理しなくていいわ、変な名前だもの。でも、あなたの崎小次郎っていうのも結構なものじゃない」
「確かに、どう聞いても佐々木小次郎だよ。なに考えてつけた名前なんだかわかんないよ。武蔵ならまだしも、負けた方の名前つけることはないよね」
「そうね、でも、小次郎って実際はどうだったのか知らないけれど、一般的に美形剣士ってイメージでしょう、それはそれでいいんじゃないかしら」
そう言って乙女は、微笑する。
しかし、不思議なしゃべり方をする子だな、と小次郎は思った。なんというか、古風なような、そうでもないような。美雨などとはまったく違う口調だった。
ともかく、小次郎は人生最悪の状態からは脱出しつつある。逆に人生最良の日になる可能性すら芽吹いてきた。
災い転じて、だ。
そこで小次郎は二人共通の話題を探した。
「それで、話を戻すけど美雨とは友達なのかな? 同じクラスとか?」
「ああ、そうね。そうだったわ。美雨とは中学が同じなのよ。あの子は可愛いし、話をしても面白いからよく遊んだわ」
その言葉に、小次郎は思い当たることがあった。
―美雨の中学の友達には可愛い子が多い、って聞いてたけど、それって、可愛い子が多いんじゃなくて、ものすごい美人が一人いたってことなんじゃないか?
「な、なんで知らない振りなんかしたんだろう。美雨の奴」
「さあ、でも、ひょっとしたら……」
乙女はそう言って言葉をきる。
「ひょっとしたら?」
「言ってもいいのかしら?」
そんなことを言われると、無性に聞きたくなるのは人間の性だろう。
「いいんじゃないかな」
「美雨はよく崎君のことを話してくれたわ。すごく強い幼馴染がいるって。マンガみたいにくるくる表情が変わったり、大げさな動作で動いたり」
「どんなイメージなんだ」
小次郎は頭が痛くなりそうだった。変なイメージをこの美少女に植え付けないで欲しかった。
「会って見ると本当に、くるくる表情が変わって面白いわね」
「ああ、そうですか」
「でも美雨は、いつもは自分が小次郎は変な奴って言ってるのに、私が変な人ね、なんて言うと、むきになって怒りだしたりするのよ。あなたのこと本当は好きなんじゃないかしら?」
小次郎は唖然として、乙女を見つめた。しばらく目と目を合わせていたが、その大きな瞳に吸い込まれそうになり眼を逸らす。
「それは、ないよ」
小次郎は言った。
「そうかしら、崎君のことをしゃべる美雨は、とても楽しそうだったわ」
「あいつは中学の時に彼氏がいたはずだし。それに、好きか嫌いかで言えば、好きに入るかもしれないけど、あいつとは家族みたいなもんだよ」
「お姉さんみたいのものかしら?」
「妹です」
そこは譲れなかったようだ。
くすり、と乙女は笑った後「妹にしておくわ」と言った。
大人びた雰囲気と、どことなく古風な物言い。それでいて、いやみがない美少女。
会話を進めていくほどに、この少女に興味が湧く。魅せられていく。
「それに、美雨がだまっていたのは、たぶん―」
「たぶん、なに?」
「いや、僕だって、美雨に男を紹介するのはいやだし。好きとかじゃなくて、なんとなく、妹に男を紹介するっていうのは、なんかいやなもんなんだよ」
―だって、こんな綺麗な子なんて紹介されたら、好きになるのは確実だし。
へえ、と乙女は言っておいて、背の高い小次郎を見上げながら口を開いた。
「それで本題なんだけど」
「あ、ああ」
当然、トイレでの所業に話は戻るのだと小次郎は思った。
「私、崎君のこと探してたのよ」
「探してた?」
「お昼に他の教室を調べたんだけど、いなかったじゃない?」
「あ、ああ、ちょっと出歩いてたかな」
昼といえば、小次郎も乙女を探して三年生の教室に行っていた。それでは、会えるわけがなかった。
「なんで、僕のことを?」
「柔道で溝口君のことを倒したでしょう」
「あ、ああ」
「あの時のアレはなんなの?」
小次郎は驚いた。
―アレと言ったのかこの子は。
確かに、小次郎はあの時、無意識にアレを使っていた。
訓練を積んで初めて見えるはずのアレ。
師匠に小次郎は、生まれながらにアレが見える人もいると聞いてはいた。しかし、それがこの子だったとは。
霊術。
霊的力を高め、妖を打撃や武器で粉砕する術である。
「早乙女さん。ひょっとしてだけど。ありえないものが見えることはない? たとえば、こちらの世界の生き物ではないものとか」
「……」
「見えるんだね。そうか。そんな力を持っているんだね」
小次郎は腕を組んで、なるほどといった調子でうなずく。霊力とでもいうべきもの。死者の霊や、妖怪を霊視する能力を持つ少女がここにいるのだ。
乙女はそんな小次郎を驚いたようにしばらく見つめていたが、やがてハッと何かを思い出したように口を開いた。
「私のことはいいのよ。それよりも、あなたが蹴りを出したとき、足からなにかが湧き出たように見えた。ぼんやりとだけど、歪んで見えた。アレは何?」
「……」
「ねえ、崎君。あなたには答える理由があるわ。だって、私のあんなあられもない姿を見たんだし、高校一年の女子としては、もう致命的なダメージなんだから」
「ま、まあ、スカートの中は見えなかったんだし、その」
「でも、下着は見たでしょう」
膝の辺りに、ずらされた白い下着は確かにちらりと見えた、ような気がした。それに、小次郎だってトイレを突然開けられたら、恥ずかしいなんてもんじゃない。女子であれば、そのダメージは致命的であるかもしれなかった。
「霊術って呼ばれてるものだよ」
「霊術!」
興奮したように乙女は小次郎に、にじり寄った。
美少女の貌の急な接近は、高校男子の鼓動を通常の数倍に速める。
「あ、ああ。でもそんな凄いもんじゃないよ。霊的力を高めるというか。わかりやすく言うと気を練りあげるとかいうことかな」
「すごいわ」
乙女の瞳に尊敬の色が浮かぶ。
小次郎は、ついつい得意顔になってしまう。乙女にそんな眼で見られて少しいい気になっているのだ。女にそういわれれば男ならそうなるだろう。
「昔は、御祓いとかそんなのに使われてたみたいだけど。いまでは、そんなのも無くなっているんじゃないかな。僕としては体術の部分に興味が有って、それを教えてもらったんだ。打撃で敵を倒すことを追及しているっていうのが気にいってね。対人戦も想定されて開発された武術みたいなもんだったし」
「私が見たのは『気』ってやつなのね」
「あ、うん。少し違う気もするけど、そんなもんだよ。まあ、使ってる僕もよくわからずに使ってるものなんで」
乙女の瞳が輝いているように見えた。
「崎君!」
「は、はい?」
「崎君は、この時間にここにいるってことは、帰宅部よね?」
「帰宅部?」
「部活をやっていない、家に帰るだけの人ってことよ」
「いや、なんとなく、そんなことだというのはわかるけど」
なんだろうか、と小次郎は身構える。だが、どうやら、変態として高校三年間を過ごさずにすむような気配ではあった。
「同じ帰宅部として、崎君を帰宅部の部員に任命したいわ」
乙女は、ついてこれなくなってきている小次郎を、真正面から見据えてそう宣言した。
小次郎はといえば、ぽかんとするばかりである。
「あ、ごめんなさい。少し興奮しすぎたかのしれない。私としては、崎君に部活に入らずに私につきあってほしい、と言ったつもりなんだけど」
意味不明気味な物言いだけど、女性を興奮させて不愉快な男はいないと思われた。小次郎とてそうだろう。
「つきあうって?」
それは、彼氏になってほしい、などということではなく、どこかに一緒に行ってほしいということだ、ということくらいは小次郎にもわかる。
「山に登って欲しいのよ」
それは予想外すぎる言葉だった。
「やま、ですか?」
「そう、山。それと、同級生だし、中途半端な変な敬語はやめてほしい、かな」
最後の『かな』の部分を好ましく感じた。それは今時の媚びたような発音ではなく。あくまで、さらりと、自然に、淀みなく、とても澄んだ『かな』だったからだ。
小次郎がその余韻に浸りながら、山とはどういうことなのだろう、と考えていると、背後から誰かに右肩を掴まれた。
「おい」
と背後からの声がした。同時に、ぐいと後ろに引かれる。力強くてごつい手の感触だった。
間違いなく男だろう。
振り向いた、というより振り向かされた小次郎の前に立っていたのは。
溝口だった。
「お、おまえ」
思わず小次郎はそう言った。
「ひさしぶりだな、崎小次郎」
溝口が答える。
またしても、会いたくない場所で会いたくない人と出会ってしまった小次郎であった。いや、乙女との場合は、会いたくない場所で会いたい女、だったのだけど。
ともかくも、溝口三番勝負、その第二幕は切って落とされたようだった。