美雨
たとえば、である。
男に幼馴染の女の子がいるというのは、どういうことか考えてみる。物心つく前から、兄と妹、もしくは姉と弟、そういう関係で育てられた場合のことである。
女の幼馴染がいる。その言葉だけ聞けば、いない人はうらやましく思うのではないだろうか。
それが可愛い子であればなおさらであるし、普通の子でもそれは変わらないだろう。しかし、実際にはそれほどよいことではない。兄妹のように育ってしまえば、性の対象にはならないだろうし、小学校くらいで挨拶くらいだけになってしまうことも多い。
とにかく、小次郎にとって、三木田美雨はそういう恋愛の対象外の幼馴染であったはずだった。
生まれたのがわずか一ヶ月違いであり、家がお隣で両親の年齢も近く、その仲が良かったため、幼稚園に入園する前から双方の家を、まるで自分の家のように行き来するような関係だった。
昔、一緒にお風呂に入ったとか、そこでお互いのまだ幼いものを見せあって「違うね」などと言いあったとか、当の二人にしてみれば忘れてしまいたい思い出でしかない。
消してしまいたい過去でしかない。
気持ち悪い記憶でしかない。
特に女の美雨からすれば、小学生の時、かってに小次郎の部屋に入って日記を読んでしまったことも含め、過去に戻って自分を殴りつけてやりたいほどの恥でしかないだろう。
もっとも、それを覚えていればの話ではあるが。
小次郎は登校しようと玄関を出た所で、そんな幼馴染の美雨とばったりと会った。
木曜日の朝のことである。
溝口との一件より三日後のことだ。
同じ学校の新入生となっているのだから、朝ギリギリの時間まで家で粘れば、おのずと同じ時間に家を出ることになるので、一緒になるのはめずらしいことではない。
実際、小学校低学年の頃は、お互い誘いあって学校に登校していた。
それをやめたのは小学校高学年になって「お前らつきあってるんじゃねえか」などと同級生にからかわれるようになったからだ。
美雨は小次郎と違う中学に入学した。
そして二年生の時、その中学の生徒とつきあいだした。そうなれば、昔の幼馴染のことなど眼中にはなくなるだろう。美雨との接点も、たまに道ですれ違い軽く挨拶する程度になった。
風の噂に訊くと、美雨の中学の友達は、とても可愛い女子が多かったらしい。それを紹介してくれと言うのも、家族に女を紹介してもらうようで気恥ずかしかった。
まったくもって、惜しい事をしたといえる。
ちなみに美雨はそのつきあっていた奴とは、中学三年の時、別れたらしい。
「おっす」
小次郎が先に美雨に声をかけた。
「おす」
と、おどけたように美雨が答える。
こいつ、中学で少し会わなくなった間に可愛くなったな。
と、小次郎はその時初めてそう思った。
美雨の容姿はいたって普通である。特に細いとか、色が白いとか、見たものを釘付けにするとか、そういうものはない。だが、普通の定義は幅広い。
美雨はどうかというと、十分に可愛い方の普通だ。道場で見たあの少女とくらべれば見劣りはするけれど。
女の子が女性に変わっていく時期に数年離れていたという事実が、美雨のことを女として意識しはじめているのかもしれない。相手が可愛い女の子であればそういうこともあるかもしれない。
先に歩き出した美雨に追いつき、小次郎も並んで歩く。
ふたりはしばらく新しい友達や、担任の事など、とりとめのない話をしていたが、美雨が突然、真顔で、
「ねえ、小次郎?」
ときりだした。
「ん、なに?」
「柔道部員を殴り倒して引きずり回したって聞いたんだけど、本当なの?」
「はあ?」
驚いて美雨の顔を見た。小次郎は男子の平均身長より8センチ高いし、美雨は女子の平均身長より5センチ低い。当然見下ろす形となる。
美雨は真っ直ぐに小次郎の眼を見ていた。その瞳が少し怒っているように見える。
「誰がそんなことを。柔道部の練習を見に行った時に、試合してみろって言われて試合しただけだよ。まあ、その時、誤って相手に怪我させたんだけど」
言いながら小次郎は眼を逸らした。
誤って怪我をさせたのには間違いないが、柔道の試合で蹴りを相手の顔面に叩きこんだといったら、美雨は怒るに違いないのである。
あの日、小次郎が帰宅した後、愛田から電話があった。溝口の怪我の具合は鼻骨骨折のみであったということだった。普通の生活であればすぐに戻ることが出来るし、一ヶ月もすれば柔道にも完全復帰が出来るそうだった。
昨日、両親共々溝口家に謝罪に行ったところだ。
溝口家の母親はよく出来た人らしく、溝口が先に手を出した事を逆に謝りもした。治療費もいりませんと言ったが、小次郎の母親が全額払いますと押し通した。
溝口本人は一言もしゃべらず、小次郎を見つめていた。それは怒っているような、泣いているような複雑な表情だった。
溝口が先に手を出したのは事実だし、素人の小次郎に敗れ去った悔しさもまだ残っているのだろう。
「本当にぃ? あんたから手を出したんじゃないでしょうね?」
美雨は、小次郎の少しだけ負い目のある心にわけいってきた。
それを訊かれることに小次郎はうんざりしていた。昨日も妹にさんざんそのことを言われた後だったからだ。
「うるさいな。ぼくからじゃないよ。これは本当だ」
「これは本当ってどういうこと? 他に嘘があるってことじゃないっ」
美雨はしつこく訊いてくる。
あげあしをとってくる。
小次郎の腕を掴んで、下から顔を覗きこむように睨んでいる。
小学校時代であれば、ここで「うるさい」とでも言ってさっさと逃げてしまう所だが、小次郎も高校生である。しばらく離れていた間に、少しは大人に近づいた所を見せねばなるまいと、
「言葉の綾だってやつだよ。ほら本当にそんなことしたんなら、停学ものだって」
と返した。
「ほんとうにぃ?」
美雨はそれでも疑いの眼差しのままだ。
確かに、小次郎は昔から喧嘩っ早いところがあった。小学校時代はなにかと喧嘩して、先生や親に怒られたものだ。しかし、それは相手に非のある時であり、決して小次郎が原因となって喧嘩したことはない。
中学に入って師匠に会い、弟子入りしてからはそれも少なくなっている。自制心を持つように心がけているし、揉め事もなるべく穏便に解決することに徹している。どうしようもないときに限っては、力をもちいることもあるが、静かに暮らしていればそんな状態に出くわすことはまれである。
「しつこいなあ。まあ、怪我させたことは悪かったと思ってるし、昨日、相手の所に謝りにもいったよ」
ふーん、と美雨は並んで歩く。小次郎の横顔をしばらく上目使いに見上げていたが、
「まあ、それなら、ゆるしてあげるわ」
と小次郎の背中をぽんと押した。
「ゆるすってなんだ、俺は悪くないだけど」
「でも、向こうが先に手を出したっていっても、結局やりすぎちゃったんでしょ?」
「……」
美雨は答えない小次郎に向かって、溜息をひとつついた。
「図星なんだ。あんたやりすぎなのよ、むかしっから。最近はそうでもないかなと思ってたんだけどね」
「わるかったって、確かに少しだけやりすぎたかもしれないけど、それは咄嗟にやったことであって、狙ったものじゃないし――」
そこまで言った時、美雨が小次郎を見ていないことに気付いた。
美緒の横顔を見ると、前方に気をとられているようだった。
その美雨の視線を追って、小次郎も前を向く。
その先に、あの娘がいた。
道場の額縁から忽然と消えた美少女。
曲がり角を、くいっと曲がりながら、その端麗な横顔が風に揺れる。
自転車に乗っていた。
小次郎にはよくわからなかったが、レトロなデザインの高そうなやつだった。
ふわりとスカートが揺れる。
緩やかに髪がなびく。
その瞳が一瞬、小次郎と重なる。
すすっ、と。
さらりと眼があう。
曲がり角に消える瞬間、少女は微笑した。
思わず、ぞくりとした。
小次郎の背中に電流が走り、心臓が大きく鼓動する。
嫣然なる微笑とは、こういうものかもしれなかった。
しばらく、小次郎と美雨は、だまったまま歩いた。ただ、その速度が上がっていた。急いであの角を曲がれば、少女の後姿が見れるかもしれないからだ。
「知ってる人なのかな?」
沈黙に耐えられず、小次郎がそう言葉を吐き出した。
「え、いや、よく知らないけど。綺麗な人がいるって、友達の中で噂になってたのよ。あの人のことなのかな? あれだけ綺麗なんだからきっとそうよね」
慌てたように美雨が言った。何か隠している風であるが小次郎は気づかない。
まあ、あのくらいの美人なら、女の眼を引いてもしかたない、などと小次郎は思う。
「上級生なのかな?」
「しらないわよ。ひとつだけいえるのは、あんたなんて相手もしてもらいえないわよ。これは確実」
そう言って、美雨はくすくすと笑う。
「う、うっさい。わかんないって。腕っ節の強いのが好みかもしれないし」
「そんなの、あるわけないじゃない」
無碍もない返しだった。
ぐうの音もでない。
そんな小次郎に美雨は追い討ちをかける。
「私だって、幼馴染のよしみで一緒に登校してあげてるんだからね。でないとあんたなんかと一緒に学校なんて行かないわよ」
そこまで言うか、と小次郎は反撃に出ようかと思ったが、言葉がでてこない。
―確かに、柔道部員の鼻をへし折る男じゃあ、女にもてないだろなあ。
突然、口を閉ざした小次郎を見て、美雨はあわてて口を開いて、
「あ、でも顔はそこそこいいから、だまってりゃもてるかもよ」
などと取り繕う。
美雨の顔に、作られた笑顔が充満していた。ぎこちない笑いだった。さすがに言いすぎたと思ったらしかった。
幼馴染の気軽さで、ついつい言いすぎてしまうのはお互い様である。
「ほんとは、コジくんのこと好きだっていう娘もいたんだよ、小学生の時にだけど」
コジというのは、当然、小次郎のことだ。昔は「みーちゃん」「コジくん」と呼び合っていたのだ。小学校五年で同じクラスになった時に、おたがい「小次郎」「美雨」と呼び合おう、という取り決めをしてしまった。それはクラスメイトの冷やかしがあったためだったが、今でもたまにその呼び方が時々出てしまう。
「それは、その時教えろって、今更おしえてどうするんだよ」
と、小次郎は言って、一拍ほど空けた後、
「で、それって誰なんだよ?」
と訊いた。
その問いを迎えたのは、美雨の蔑むような表情だった。
「今更教えてどーすんのよ。もうその子には彼氏いるし」
「だから、お前が今更だって、その時に教えろよ」
「だって、気持ちわるいじゃない」
「き、きもいって」
「いや、だから、なんか昔から知ってる人に紹介するのは、なんだか恥ずかしいっていうか、なんだかモゾモゾするのよ」
「もぞもぞ?」
「あー、なんていうんだろ、こんな感じ、なにか心がクシャクシャする感じなの」
ふむ、と小次郎は顎に手を当てる。
美雨は突然何かを考えだした小次郎をいぶかしんで、下から顔を上目使いに覗きこんだ。
「それって、ひょっとして―」
「ひょっとして、なによ」
「ひょっとして、こ……」
そこで小次郎は言葉を止めた。
美雨の顔がみるみる凍っていく。
「い、いま、恋とか言おうとしなかったっ? ねえ、言おうとしたでしょ。きもちわるい、きもい。変態」
「いわない、いわないぞ。寸止めだったし」
「寸止めって、言おうとはしたのね。近寄らないで」
言って、美雨は小次郎と距離をとる。さらに「うええ」と今にも吐きそうだ、とでもいうような顔真似までしている。
「私のこと、いやらしい眼でみてたんじゃないでしょうねっ、だとしたら気持ち悪いどころじゃないわ」
「冗談、冗談だって、美雨。まあとりあえず、こっちに戻ってこい」
美雨は、じっと、小次郎を疑いの眼で見ていたが「まあ、いいわ」と半歩だけ小次郎の方に近づいた。
二歩離れて、半歩近寄ったのだから、そこにはいまだ一・五歩の距離があった。
少し距離をとられてしまったが、小次郎はそれでよしすることにした。
幼馴染なのだ。中学でずっと離れていても、すぐに元通りの関係に戻れたように、明日になればリセットされて、その距離はゼロに戻るだろう。
それにクシャクシャとかモゾモゾとした気持ち、というのは小次郎にもなんとなく分かっていた。
美雨に彼氏が出来て距離を置いていた時、小次郎もそれを感じていたからだ。
言葉にするのは難しくて、なんだか寂しいむずむずするような気持ちだった。今まで仲のいい友達を突然失ったようであり、突然妹に彼氏が出来て紹介されたような、こいつは女だったんだな、と再確認させられるような思いだった。
だから、美雨のつきあっている人というのを見たことはない。具体的な情報は欲しくなかったのだ。見てしまえば、生々しく実感してしまうような気がしたのだ。
娘を嫁にやるという父親の思いとは、これに近いのだろうか、と小次郎はその時感じた。
実際には、まったく違うだろうけど、とにかく小次郎は、その時、消失感のようなものを感じたのだ、なにか奪われたように感じたのだ。
―しばらくすると、すぐにその気持ちもなくなったけれど。
そう、人間は忘れる生き物なのだ。
小次郎は美少女の曲がった角を折れた。
美雨も一・五歩遅れて、それに続く。
学校の校門が見える。すでに美少女はその中に消えていた。曲がれば後姿を見れるかもしれない、という期待は大きくはずれた。
軽い失望と共に、小次郎の中であの少女にもう一度会ってみたい、という思いがふつふつと高まっていた。