プロローグ
小次郎は毎日、日記をつけている。
書き始めたのは母親の影響だ。小次郎が小学校五年生の時、勝手に母親の日記を盗み見てしまったのがきっかけだった。その理由といえば、子供の好奇心としかいいようがない。
とにかく小次郎は、母がその背後に立ったのにも気付かずに日記を読み続けてしまった。その結果として、当然叱られることとなった。
母の接近に気付けなかった理由は『幸田貴子は死んでしまった』という、そのセンセーショナルな日記の見出しに、驚いていたからである。その内容のことを「事故で友達が亡くなったのよ」と後で母は説明してくれた。とても寂しそうな横顔だったので、それ以上は何も訊かなかった。
その後、「あなたも日記を書きなさい」と進められ、今後のお小遣いにも影響しそうなので「わかったよ」と取りあえず返事をした。
高校一年生となった現在でも、ずっと書き続けているということは、小次郎にとって日々の出来事を綴るという作業は、性にあっていたのだろう。それは自分の行動を客観的に見ることによって、心が傾いていくことを正す作業でもあった。
小学校六年生の夏に、その日記を幼馴染みの女の子に盗み見られて、他人に自分の日記を見られることの恥ずかしさも知った。顔から火が出るということの意味を実体験として感じる。だから思わずその子を強く押して倒してしまって、本棚の角に頭をぶつけて泣き出したその子に、逆に小次郎が謝ることになってしまったのだった。
小次郎はそんな思い出を頭の中に浮かべながら、自室の机に向かった。机上を占領している邪魔なノートパソコンを、机の端に押しやる。そうして広がったスペースに、右の引き出しから取り出した日記帳を置いた。
ちらりと壁にかけられたアナログの時計に目を向けると、後三分で明日になることを告げていた。小次郎はしばらくその秒針を見ていたが、やがて日記帳に視線を移した。
さっさと日記を書いて今日は寝ることにしようと、小次郎は日記帳を開いた。
適当に開いたそのページは、小次郎にとって大きな意味を持つ日だった。
高校入学三週間目。全てはここから始まったといってもよかった。いや、全ての準備が終わって物語の胎動が始まったといってもいい日だ。
小次郎は眼を閉じて、その時のことを心の深いところに浮かべてみた。
山で逢ったあの女のことを。
切り取られた風景にただ美しくたたずむ乙女のことを。