第一章 安貞二年(1228年)秋 長門国 榧ヶ葉山麓
なにか胸をかきむしられるような不安な夢から醒めて、厚東四郎忠光は目の前に熾した小さな焚火の種が、今にも尽きかけようとしていることに気づいた。
慌てて、手にした木刀を枯れ枝のあいだに突っ込み、かき回す。折り重なる枝と木切れのあいだに空気が入り、火はふたたび、あかあかと燃えだした。
四郎は、ちっと舌打ちをして木刀を滑らせ、先っぽを握り、そこの焦げ具合を掌で確かめた。堅く丈夫な樫を削ってみずから作った愛用の一振で、この程度の熱でどうかなるほどやわな出来ではないことを彼はよく知っていたが、直接の護身や戦闘以外の目的で、わずかでも木を傷めるような行いをしてしまったことに、みずから苛立ちを感じたのである。
傍らには、筵を敷いて女が寝ていた。まだ若く、灰色の括り袴に山吹色の水干という、童子のような格好をして、まさに童そのもののような、あどけない鼾をかいている。
四郎は、彼女のまるい、かたちの良い頭を、じっと眺めた。幅のひろい額から、引っ張り上げるように髪を束ね、背中に伸ばしている。髪には、まるで裏庭の納屋から出てきたかのように、藁のかけらがあちこちくっついていた。
眺めながら、考えた。
「なんで、連れてきてしまったのであろうな?」
夜の闇。焚火の前にひとり。
おそらく、小さく、声に出してしまっていたのであろう。
それを聞いて、彼女が目覚めた。ぱっ、と大きな眼を開け、一拍おいて、がばと上体を持ち上げた。油断なくあたりを素早く無駄のない眼球の動きだけで見渡し、そのかん頭は一切動かさなかった。
「儂じゃ。わしじゃ。」
四郎は言った。
「起こしてしまったか。すまぬわい。」
女は、ほっと肩の力を抜き、
「また夢を、見たのですね?」
と、静かに言った。
「うん。まあ、そうじゃ。」
四郎が生返事すると、
「今度は、どのような?」
「うーん、どうだったかのう?ようは覚えておらん。」
「うそ。」
女は、笑った。そして言った。
「ただ、思い出したくないだけでしょう?そして、そのまま忘れてしまいたいと、そう思われているのでしょう・・・違いますか?」
四郎は、視線を焚火のほうへ落としたまま黙っていたが、やがて、
「海じゃ。」
ぽつりと、そう、答えた。
「海・・・また海。」
女は溜息をつきながら繰り返すと、起き上がり、その場で座り直した。
「いつも海。四郎様は、海のおひとではないのに。漁夫でも、海賊でもないのに。」
「うん・・・そうじゃ。海の夢など、ありふれてはおるがな。だが、儂は舟に乗るのが怖い。あの、ゆらゆらゆらと、絶えず揺れて定まらない足場に、我が身を預けてしまうのが怖いのじゃ。だから、海も怖い。見るだけで怖い。特に、夜の、あのまっくろい海はな。」
ひとしきりそう言って、火から目を離し、どこか遠くの方を見た。
おそらくは、海の方角を・・・女は思ったが、今はすいぶんと内陸に入った山の裾に居る。海は遠い。
「ご安心なされませ。海はただ、四郎さまの夢のなかにのみ、在りまする。」
慰めるように、言った。
「思い出した。」
四郎は言った。本当にいま思い出したのか、胸にしまっていた夢の話を、ただ素直に言おうと思い直したのかは、わからない。
「そうじゃ、儂は、波に揺られていた。小舟の上じゃ。儂ひとり・・・独りだけじゃ。そうして、どこともわからぬ波間に漂い、ただどこかに流されていた。」
女は、なにも言わず、先を促した。
四郎は続けた。
「どこか遠くに、月が出ていた。光は微かじゃ。その微かな光が、細かな波を照らして、まるで海全体が千々にちぎれて輝いていた。舟には櫂もない。なにもできない。あてどもなく、ただゆらゆらと暗い海の上を漂うだけじゃ。じゃが、儂にはわかっていた。船底の、さらに下の黒い水の下には、なにか儂をどこかへ運ぼうとする力が働いていて、深い深い海の底の、目には見えない水流になり、抗いきれない強いちからで、儂の乗った小舟を、どこかに連れていくのじゃ・・・。」
「どこへ?」
「わからぬわい。」
四郎は、吐き捨てるように答えた。
「いつもじゃ。いっつもじゃ!いっつも、どこかへ連れていこうとして、途中で目が覚めてしまう。儂は・・・どこでもいい、とにかく疾く、そのどっかに連れて行って欲しいのに!」
そう言って頭を抱えようとしたが、女のいる手前、自分の両頬を叩き、そのまま両の掌を無精髭の上に滑らすだけにした。掌は落ち、指先が頬の肉を押して、四郎の舌に、口内の粘膜が触れた。
「今夜も、漂っていただけですか・・・これで三日。三日間、同じ夜の海の夢ばかりです。どこへも行けずに、ただ海の上。」
女は、同情するように四郎に言った。だが、四郎は、はっとして、続けた。
「そうじゃ!今夜ばかりは、少し違った。」
「どこぞに、着いたのですか?」
「いや違う。着いては、おらぬ。だが、聞こえた。」
「なにが?」
「聞こえたのじゃ・・・あれは、そう、低く厳かに、唸るように、誰かが歌っているように聞こえた。」
「歌って、いる!?」
女は驚いて聞き返した。
「うむ。あれは、歌じゃ・・・なんの歌かはわからんが、とにかく歌じゃ。誰かが、歌っていた。いや、大勢で歌っていた。その声が聞こえたのじゃ。」
「どこぞに、島など?」
「いや、違う、まったく違う!あれは・・・」
「あれは?」
「海の底じゃ!海の底から聞こえたのじゃ!海の底で、大勢がなにかを、歌っておったのじゃ。そして、儂を、この儂を、海の底から、ずーっと、ずーっと呼んでおったのじゃ!」
最後のほうは、叫んでいた。
叫び終わって四郎は、自分のその激情が信じられない気持ちになった。これまでの人生で、こうまで度を失い、動揺したことはない。ましてや、そのさまを人に見られるような不始末をしでかしたこともない。見ていたのが、自分が情けをかけ、もはや単なる使用人とは思えぬくらいに愛おしい女だとしても、だ。
女は、黙っている。いささか四郎の正気を疑うような表情でもあったが、やがて悲しそうに溜息をひとつつき、言った。
「まさか。海の中で音は聞こえませぬ。四郎様は海がお嫌い故、そのようなこともご存知ないのじゃ・・・おそらくは、波の音か遠くの海鳴りの音が。それに、そもそも。」
「・・・そもそも、夢の中の話じゃ。」
四郎が、女の言葉を受けて、言った。
「そのとおりじゃ。夢を見ただけ・・・莫迦な夢を見ただけの話じゃ。」
闇と戦うように赤く輝く焚火を見つめて、
「しかし・・・ともかくも、あれは海の底から聞こえた。少しだけ抑揚がついて、唸るように。ずーっと。とにかくあれは、歌じゃ。」
女は、四郎を見つめた。そのまましばらくじっとしていたが、
「とにかく、ここは陸地。それも深い、深い山の中。海は遥か、ここからは遠ございます。安心めされよ。」
とだけ、言った。
かたわらの立木に繋いだ駄馬が、とつぜん鼻を鳴らした。
びくり、とした四郎だったが、また前方の焔に眼を戻した。
「犲、ですか?」
女が、馬を脅したはるかかなたの遠吠の響きを聞きつけて、聞いた。
「そうだな。遠い。心配は要らぬ。」
四郎は、落ち着いて言った。
「この当たりには、よう出るが、滅多に人は襲わぬ。火にも近寄っては来ぬ。」
「それに、四郎さまがおられます。」
女は、眼を輝かせて、言った。
「長門きっての剛勇無双。ひとたび四郎様が木刀を振るわば、狼も熊も多々良でさえも、夜の闇の妖かしですら、尻尾を巻いて、逃げて行きまする。」
「多々良に、尻尾はあるまいよ。」
四郎は言い、ふたりとも笑った。
「妖かしにも、なさそうですね。」
「儂には、わからん。儂は、妖かしなぞ、見たことはないのでな。それに、もとからそんなもの、この世に居りはせぬ。だから、とにかく、心配は要らぬ。」
「妙な、御方。」
女は笑い、そのまま膝で近寄ってきて、四郎の肩に頭を載せた。
「どこまでも、お強いのに。どこまでも、勇敢なのに。」
そして、息を吸い込み、四郎の厚い胸にしがみついた。
「それなのに。舟はお嫌い。海を怖がること、まるで幼兒のよう。私は、四郎様の母にでもなった気分でございます。怖い夢を見て目覚め、寝床で震える兒をかき抱いて、そのまま寝につくまで子守唄でも歌って・・・」
女は、黙った。子守唄という言葉が、さっきの海の底の歌のことを連想させることに気づいたのである。しかし、四郎は、女を安心させるように、冗談めかして、言った。
「なにやつかはわからぬが、あれが、母でなかったことだけは確かじゃ。子守唄のような、安らぐ響きではない。なにか、こう、もっと禍々しい響きであった。あのような不気味な子守唄をうたう母からなど、儂は生まれとうないわ。」
二人は、小さく笑い、しばしの沈黙が流れた。
焚火は、その勢いを取り戻し、あたりにほのかな暖気が漂った。
女は言った。
「実のお母上に、明日は対面できますね。」
「うむ。もう何年にもなるのう、最後にお会いしてから。」
「それはよう御座いました。たんと親孝行なされませ。」
「おぬしは登城させられぬがの・・・赦せよ。」
「お気になさらず。私が望んで、無理にここまで付いてきただけのことですから。麓で、四郎様をお待ち申し上げております。」
やがて、ゆらゆらと炎が揺れた。
かなたの谷底から、風がかすかなうなりを上げて吹き上がり、木々の黒い影を揺さぶって葉を散らせた。風はそのまま上空に抜け、あたりにはまた静寂が戻った。
「感じぬか?」
とつぜん、四郎は、言った。
「なにがでございます?」
「風に乗って、なにかが聞こえる・・・遠くで、誰かが、話をしているような。」
「戯れておられるのか?」
女は、少し怒ったように言った。
「海が駄目なら、今度は山で。妾を脅かすために。」
「いや違う、違う。夢の話ではない。今度は、現実の話だ。近くに、人が居る。」
四郎は、真面目な顔で言った。
「風に乗って・・・いや、人の声だけではない、なにか、匂いもせぬか?」
「おやめ下さいませ!」
女は、四郎を叱った。
「ここは、人など居ない深山の中。居るのは我ら二人と、犲だけでございます。」
「そうか・・・気のせいか。」
四郎は、自分に言い聞かせるように続けた。
「この辺りは、古の銀山の痕じゃ。昔はたんと人が居ったそうじゃが、いまでは、誰も居らぬ。」
「銀山と?」
女は、びっくりして聞いた。
「そうじゃ。このあたりには、地面の下にあちこち、穴がある。銀も銅も、さまざまなものが採れる。かつては、ここで採れた銅を都へ運び、大仏をこさえたそうじゃ。遥かな昔の話じゃがの。だが、打ち続く天災と戦乱で、誰もなにも掘らなくなった。」
「その方々は・・・?」
「居なくなった。今は誰も居らぬはずじゃ。まあ、儂の考えすぎであろう。すまなかった。赦せ、赦せよ。」
焚火の醸す暖気と、四郎の厚い胸板に通う血潮の温みは、やがて、夜闇の不安に慄く女の気持ちを落ち着かせた。
女は、四郎の胸の中で、眼を閉じた。ほどなく、また、軽く鼾をかきはじめた。
四郎は、彼女の頭に沿って優しく指を這わせ、地面に長く垂れた束ね髪を持ち上げ、それをそっと彼女の肩に掛けた。
かなたでまた、別の犲が哭いた。