終章 長門国 西のかなたで
狩音は、夜明けにその場を立ち去った。
また居住まいを正し、人間の娘に見えるように擬態して、迅速に山の間を移動した。入れ替わりに、長府の国府にまで進軍していた厚東の大軍が西へ向け移動を開始し、阿弥陀寺に至って、そこで酸鼻きわまる惨劇の現場を目の当たりにした。
狩音は、道なき道を進み、川を渉り、誰も知らぬ峠を越えて、わずかな間に霜降城へと至った。そしてそこで、おなじ宕の眷属である、山風と会った。
山風と狩音は、お互い祖を同じくする人間と、「深きものたち」との合いの子である。血の交わり方や程度が違い、それぞれの持つ異能の度合いはやや違っている。だが、お互い見知らぬ同士とはいえ、同じような存在であるということは、四郎に連れられて初めて山風の声を聞いた時に、すでにわかっていることであった。
狩音は、持ち帰ってきた神剣を差し出し、山風に託した。それ以上はなにも説明せず、彼女はそのまま、歴史の闇のなかに消えた。その後の彼女のことは、誰も、何も知らない。
残された山風は、そのあとすぐ、領国西端への出兵から帰還した厚東武光に会見を求めた。息子を贄として差し出した酷薄は一切責めずに、ただ今後のことについてだけ、取引を持ちかけた。
すなわち、山風がその異能を発揮して、霜降城を中心とした厚東氏の山岳防衛線の護持に当たり、多々良軍の侵攻を赦さない。だから、土牢のなかで生き残った四郎の母の身柄に、武光は一切手出ししない。四郎という、極上の贄を捧げたことで、今後数百年は、宕は大人しくなるであろう。だから、武光は、これまでそうしてきたように、ただ国内統治の安定と民生向上に努め、厚東氏の血を次代に繋ぐ。
四郎を犠牲にしたことに良心の呵責を感じていた厚東武光は、その山風の条件を受け入れ、藤の方を離縁し、そして土牢から解放することを命じた。もともと、彼女が流行病の患者などで無いことは、彼もよく知っていたのである。
だが、山風にとっては意外なことに、そのときすでに藤の方は、すでに藤の方ではなかった。すでに遠く阿弥陀寺での大臣の死が伝わり、統制を失った彼女の中にいる「内なるものども」は、混乱し、居場所を失って次々と彼女の精神から逃亡しはじめていた。朧冠者が去り、木通丸が去り・・・その他、彼女に巣食っていた数多くの人格が、雪崩を打ってどこかに消えていった。
次いで粢島での四郎の死が伝わり、気落ちした本来の宿主すなわち藤の方自身の人格も、息子を追って昏く深い闇の彼方に沈んでいった・・・彼女の身体は、ただ抜殻のようになり、解放されても土牢から動こうとせず、施錠が外され、扉が開けられた牢のなかで、ただ茫と座っているだけの存在となってしまった。
山風にも、どうしようもない状態である。彼にできることは、ただ身の回りの世話を侍女に焼かせ、土牢を清潔に保って、彼女の肉体の健康を保つことだけである。これまでのように、ただ霜降城裏手の谷間だけでなく、この長大な山岳防衛線全体の守備の任を負った彼は、忙しくあちこちを往来せねばならない。
よって、この土牢に藤の方の抜殻を見舞いに来ることも、そう頻繁ではなくなった。ちなみに彼は、そのあと百年くらいは生きていたはずである。厚東氏が、多々良氏の全面侵攻を受け滅びるのは、この百三十年ほど後のことだ。
そんなある日、突然、藤の方がケタケタと笑いだした。
すでに掃除と着替えを済ませた侍女が土牢から立ち去って、彼女は一人きりであった。桃色の美麗な着物に身を包んで、牢の土のうえにぺたんと座った中年の麗しい貴婦人が、裾をはだけたまま、突然、子供のようにケタケタと笑いだした。
そして、誰にともなく言い出した。
「おふじちゃん、おふじちゃん。かがちが、もどってきたよ!」
答えるものは、誰もいない。だが、彼女は構わず、その意味のわからないたわ言を繰り返した。
「おふじちゃん!きょうは、かがちと、あそぼうよ・・・あのみつるぎで、にげたやつらを、おいかけるんだ。しろうちゃんを、やったやつらを、かがちとおふじちゃんとで、やっつけるんだ。だから・・・いっしょに、あそぼうよ。」
言うと、ゆっくりと立ち上がり、牢の奥の岩棚に安置されていた、あの御剣を手にとった。
「ぶん!ぶん!ぶん!」
こう唄うように言うと、御剣を振るって、またたく間に牢の錠を叩き壊した。すでに解放はされているのだが、安全の確保のため、この場を外すときは、侍女が外からそっと錠をかけておくのだ。
そして、童女のような、よちよちとした足取りで霜降城の裏手の谷間を降り、神剣を胸に抱いて、どこへともなく姿を消した。
いまや、誰も居なくなった藤の方の肉体を動かす唯一の人格である輝血は、誰にも理解できぬ歌を口ずさみながら、よたよたと無人の街道を西へ進んだ。
ここは、かがちちゃんの、おうち。
そして、おふじちゃんの、おうち。
かりねちゃんがきてたけど、どっかいっちゃった。
だから、いまでは、かがちちゃんと、おふじちゃんの、おうち。
一瞬間だけ、その眼が赤くギロリと輝いたが、もちろん輝血自身にそんなことは、わからない。
かがちちゃんは、おふじちゃんが、だいすき。
かがちちゃんは、かりねちゃんも、だいすき。
かりねちゃんは、しろうちゃんが、だいすき。
だから、かがちちゃんも・・・しろうちゃんの、おともだち。
延々と、そのような他愛もない童の歌を歌い続け、道端に咲いていた花を摘み、尖らせた口の前でひらひらさせながら、歩き続けた。
しろうちゃんは、しんじゃった。
たごにくわれて、しんじゃった。
おふじちゃんは、とってもかなしい。
だから、かがちちゃんも、とってもかなしい。
そのまま一昼夜歩き続け、厚東軍が撤退したあと無人となって封鎖されていた阿弥陀寺へと至った。境内には幾つも大きな穴が掘られ、多数の遺骸が投げ込まれ燃やされていたが、恐ろしい流行病の感染を恐れた兵士たちの衛生処理は、どこか気が抜け不徹底だった。
まだあちこちに、灰色の土饅頭のようになった屍鬼たちの遺骸の燃えさしが残され、輝血はそのひとつひとつで足をとめ、じっと見下ろした。
みんな、みんな、しんじゃった。
しんでしまって、またしんだ。
ころしたしろうも、またしんだ。
ここで足をパタリととめ、金堂裏手の生垣から、赤い実をつけた鬼灯が下がっているのを見つけ、それを手づかみで幾つもバリバリと喰った。口のまわりが赤くなり、まるで生血を啜ったばかりの獣のような顔つきになると、美しいその眼が、なぜかまた赤く輝いた。
そして、手にした神剣を眺め、にやりと笑った。
輝血は、また歩き始めた。阿弥陀寺を出て、西へ。
数ヶ月前、四郎と狩音がたどっていった道だ。
その先には、あの隠し泊がある。
海から突き出した、粢島の大きな岩盤が聳えている。
輝血は、言葉にならぬ言葉で、こう考えた。
あそこに、行かなきゃ。
あそこに、この剣を届けなきゃ。
なにか舟にのって、あそこにいかなきゃ。
しずんちゃうかも、しれないけれど。
しろうちゃんのために。かりねちゃんのために。
そして、おふじちゃんのために。
そこに待つ、わたしたちみんなの、神さまのもとに。
|このみつるぎを、とどけなきゃ。《・・・・・・・・・・・・・・・》
すでに午後を過ぎ、太陽はかなたに沈み始めている。
輝血は、よちよちと、西のかなたを・・・太陽のかなたを目指して進んだ。
<了>