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海峡奇譚  作者: 早川隆
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第五十七章   昭和三年(1928年)冬   日本近海 天洋丸甲板

前夜、西太平洋特有の波浪に揉まれて、わずか1万(とん)しかない細身の老朽化した船体は激しく揺れ、著しく気分を損ねたに違いない船客のほとんどは、まだ甲板に出てきていなかった。


日付は、日本の明石標準時で12月21日。浅野が大連経由でシベリア鉄道に乗り欧州へ向け旅立ってから、はや半年が経過していた。彼は、英国と欧州を廻り、さらに北米大陸に渡ってこれを横断、サンフランシスコからこの天洋丸に乗り込んだのである。船はすでに小笠原諸島を越え、もうすぐ水平線のかなたに、あの懐かしい故国日本の姿が望見できる筈である。


浪は、いまではすっかり収まり、海は静かである。時間は朝の六時。つい先ほどまで闇に閉ざされていた天球が、うっすらと蒼くなり、東のほうには僅かながらオレンジ色の燭光(しょっこう)が差してきているように思えた。


浅野は、まるで三階建ての回廊のように上下に組まれた、天洋丸の側方甲板の最上階にて、後尾部分の手すりに身をもたせかけ、太平洋の夜明けを待っている。前のほうを見渡しても、手すりから身を乗り出す他の船客の姿はない。浅野は、改めて海軍機関学校時代に生徒と一緒になって鍛えた我が身の壮健さを誇りに思った。




いま、浅野が足元に置いている小さな鞄には、旧大陸(ヨーロッパ)そして新大陸(アメリカ)のあちこちで入手した、あるいは友に貰った、雑多な土産物が一杯詰まっている。


クルー・サークルでウィリアム・ホープに撮ってもらった、童子が写り込んだ写真。降霊会の闇の中で、心霊ジョンがそっと置いてくれた南洋土人の人形。コナン・ドイルに贈られたカール・ユングの英訳冊子。イヴァンの描いた、あの美しい黒海沿岸の線画。アンドレ・リペールに贈られた、フーディニ名義の小説の載った『ウィアード・テールス』の合併号。スイスの湖畔でマルクが作っていたミニチュアの(ぐろ)の石。


ボストンで、心霊ウォルターが蝋の上に記した指紋も持って帰って来ている。これは、画期的な心霊実体化の証として、日本の心霊研究を飛躍的に前進させるものとなるであろう。


ミナ・クランドンと夫のル・ロイからは、高価な金製の懐中時計を贈られた。浅野は、旅の途中、数日間だけボストンのクランドン邸から姿を消し、そこから50マイル離れたプロヴィデンスで保護された。そしてその際、身につけていた懐中時計を紛失してしまっていたのである。さらにクランドン邸に勤めていた、かつての海軍機関学校での教え子濱谷久次郎からは、故国の思い出に取っていたという、機関学校時代の色褪せた白い体操帽を渡された。おそらく彼は、この帽子を浅野に餞別(せんべつ)として渡すことで、もはや身寄りもいない故国の思い出と決別し、新大陸の人間として骨を埋めようと心に決めたのだと思われた。




そして、さらに大切なものがある。


プロヴィデンスで隠者のようにひっそりと暮らしていた、ハワード・フィリップス・ラブクラフトより譲られた、この古い遺物である。


浅野は、それが入った長い木箱を取り出し、両の手に持って、じっと眺めた。




浅野は、両手で捧げ持った神剣、いわゆる草薙剣と思われる青銅の遺物が収められた木箱を手にしていた。すでに三つついた紐は解かれ、蓋さえ開ければ、剣とはすぐに対面することができる。


この貴重な国宝と、プロヴィデンスの旧ラブクラフト邸で対面した浅野は、その由来と破格の価値を所有者のフィルに説明し、日本大使館に連絡を取ることを勧めた。もし日本側の鑑定でそれが本物の神剣であると認定されたら、あるいは、確定せずともその可能性が濃いということになれば、おそらく日本政府は、誰もが驚くほどの対価を支払って、この歴史遺産(ヘリテイジ)を買い戻すことであろう。


そうすれば、現在の経済的苦境を脱することができ、金のためにやらねばならぬ下らない仕事の数々から、フィルはめでたく解放される。そうすれば、その後の創作活動の自由度も上がり、もしかしたら数年以内に、ハワード・フィリップス・ラブクラフトの名を満天下に知らしめるような傑作を世に問えるかもしれない。


同じ文筆の世界に居た人間として、また相手の才能を心から認める者として、浅野は真剣にそうすることを勧めたが、しかしラブクラフトは、まったく興味を示さなかった。




「僕は、別に傑作など書けなくても良いのです。」

彼は言った。

「ただ、僕は、あの幸せだった子供時代のことを思い返していたい。あの頃、屋根裏部屋や近所の秘密の隠れ場所から星空を見上げ、あるいはシーコンクに潮が満ちる時分、「海峡(ストレイト)」に出かけて、魔物が地上に()がってくる恐ろしい世界の終末のことを考えた、あの無邪気な時代。あのときのことを、ただ思い返していたいのです。」




そして逆に、驚くべき提案をした。


この神剣を、浅野に譲るというのである。対価は無し。びた一文、要求しない。ボストンで買い付けた美術工芸品として税関を通し、このまま故国に持って帰れば良い。

「もちろん盗品ではないし、僕の先祖はこの剣を正当に買い取ったのですが・・・でも、このまま僕が持っていても、それこそ本当に宝の持ち腐れだ。」

ラブクラフトは、言った。


しかし彼はその代わり、ひとつの物との交換を求めた。


あの不思議な石笛である。かつて浅野が走水神社で拾い、その後ずっと持ち歩き続け、懐中に忍ばせ続けた、あの石笛。浅野がクランドン邸から失踪した際も、金鎖(きんさ)で留めていた懐中時計は失くしたのに、この、龍の形をした石ころだけは、なぜか失くさなかったのである。


「あなたの話では、この笛を吹けば、この世と、どこか別の世が繋がることがあるらしい。僕は、そっちのほうに興味があります。」

ラブクラフトは、言った。


彼は、「海峡(ザ・ストレイト)」で、この石笛を吹いてみたいというのである。そして、そこで垣間見える別の世界のことを、なにか記録に残したいと言う。

「変わってますよね・・・僕は。それは自覚しています。でも僕は・・・まだ、ダゴンに会ったことがない。クトゥルフにも、ニャルラトホテプにも、その他の邪神たちにも。彼らのことを書いているのは僕なのに。でも僕はまだ、彼らに会ったことがないのです。」


「あまり、会って愉快な連中ではないですよ・・・いや、このまま、永遠に会わないほうがいい。これはたぶん、ただの石ころだ。本当に特別な場合、特別な人に対してしか、異世界の扉は開かないのではないでしょうか。」

浅野は言った。


「そうですよね・・・僕は、なにも特別ではないから。」

ラブクラフトは、そう言うと淋しそうに、笑った。

「でも。それでも僕はこの石笛を持っていたいのです。過去に居た異形の少女が、彼女の生まれながらに負った(ごう)を嘆き、喪った恋人を想って、ただ一心不乱に吹き鳴らしたという、この笛を。これを持って海峡のへりを歩き、たまにこれを吹いて海峡のかなたに呼びかければ、いつか、彼女に会えそうな気がするのです。僕は、それを楽しみにして生きていたい。」




第三者の眼からすれば、それは、およそ引き合わない取引であったろう。しかし、このなんの価値もないように見えるただの石ころは、浅野にとってもひどく重要なものであった。この石笛の所為(せい)で人生が狂い、この石笛のお陰で命が救われたのである。


だがこの先、自分がこの石笛をただ持ち続けていたとしても、それになにか大きな意味があるとも思えなかった。


悪夢は、終わったのである。あの、厚東四郎と狩音との謎に満ちた旅は、四郎が落命することで終りを迎えた。その終幕で、異形と化した狩音が一心不乱に吹き鳴らしていた、この石笛の物哀しい音は、エスター・ロスに襲われた浅野の意識を寸前で覚醒させ、神剣の存在を知らしめて、この20世紀における不思議な悪夢に終止符を打ったのである。ダゴン秘密教団は・・・それが実在のものであろうと、そうでなかろうと・・・すでに姿を消し、この先、浅野になにか具体的な危険が及ぶ事態は、考えられなかった。


すなわち、浅野が持ち続ける限り、この石笛は、今後は単なるお守り以上の意味を持たない。もし、そうであれば・・・浅野は考えた。そうであれば、このままラブクラフトに託し、彼がなにか、別の世界を垣間見るために使ってもらったほうがいい。




こうして、この奇妙な物々交換は成立し、浅野は護国の巫剣(みつるぎ)を持って、いままさに、故国の玄関口にまで戻ってきたのである。




それにしても、長い旅だった。単に地球をまるまる一周しただけではなく、途中で、実にいろいろなことが起こった。


実際の旅の期間は半年だが、おそらく、走水で石笛を拾ってから、プロヴィデンスのラブクラフト邸で目覚め、そして、終点のシーコンク川に至るまでのほぼ十五年間がすべて、実は一連の壮大な旅の一部だったようにも思える。


浅野はその旅で、世界を旅し、霊界を旅し、現世と霊界のあいだ、灰色の中間領域にいる様々な者たちと会話し、中世の闇に生きた過去の魂とも交わった。つまりその旅は、十五年どころでなく、おそらくは優に七百年間に及ぶ巨大な連環のなかをあちこち巡るものだったのかもしれない。


その広大無辺な世界で起こる様々な出来事は、それぞれがただバラバラに起こるのではなく、どこかで繋がって、相互に影響し合い、押したり引いたりしながら、それぞれの運命を変えていくものであった。


現在は過去の集積ではなく、過去はすでに消えてしまった現在の原因などではなかった。両者はただそのまま繋がり、等しく影響を与え合うものだったのである。




そして浅野の身に、また中世の厚東四郎の身に襲いかかったさまざまの危機に際し、彼らを救い、彼らを助けた、物言わぬ冥界の住人たち。ジョン、ウォルター、そして角髪(みずら)()い寂しそうな顔をしたあの童子。あの童子は、海底に沈んだ安徳帝だったに違いないが、これらの存在が、現実界で実際に浅野を助けてくれた数多くの友人達と同様に、闇の彼方から浅野を見守り、浅野を生命の危機から遠ざけてくれたのである。


そして・・・浅野は覚えていた。あの石笛の音。夢のところどころで聞こえ、エスターやダゴンに襲われていた浅野の耳のなかで響き、四郎の喪った神剣が、まさに現世の浅野のすぐ脇に実在することを教えた、あのピイイという、物哀しい音。


あの音こそまさに、みずから(はか)って四郎を見殺しにせざるを得なかった狩音が、そのあと(みぎわ)でひとり吹き鳴らしていた音ではなかったか。すでに半分人間でなくなった狩音が、自らの運命と、四郎の末路とを憐れみ、彼を死なせねばならなかった無念を誰かに伝えるために響かせていた音ではなかったか。彼女の無念と四郎の執念は、七百年もの時を越えて、石笛の響きとなって浅野の耳に届き、ダゴンの邪念を払い、その身を救ったのである。




生と死は画然と分かたれるものではなく、現世と霊界は、別のものではない。現在と過去も同じである。すべてが繋がり、すべてが通じ合って、そしてその全体でなにか大きな世界を形成しているのだ。境界線は、ない。此岸と彼岸のあいだに広がる黒々とした海峡は、フィル・ラブクラフトの想念のなかで波打っていたシーコンク川の流れのごとく、時に大いに満ち、時には引いて、その乾いた河床を(あらわ)すものであったのだ。




時計の針がすこし進み、周囲はほのかに明るくなってきた。


すでに太陽は東海のかなたに立ち昇り、世界をまだ低い位置から一心に照らし上げている。夜闇の藍色はすでに立ち去り、周囲はうっすらとした青色になって、その合間に灰色の雲を浮かべながら、新しい一日の始まりを告げているように思える。そして、船が舳先を向ける北北西の方角に、うっすらと(あお)い、美しい大きな島の影が見えてきた。


何人かの船客が出てきて、浅野の並びの手すりにつかまり、島影を指差しながらなにごとか話したりしていた。この天洋丸は、途中の悪天候でいささか旅程が押したものの、おそらく数時間後には横浜港に入港する予定である。眼前に見える島影は、房総半島と三浦半島のあいだ、東京湾へと入る入口あたりの影だ。


つまりそこには、懐かしい走水の神社がある。猿島がある。馬堀の海岸がある。そして横須賀がある。十数年前、浅野が、まだ心霊や冥界と関わりを持つ前に過ごしていた場所が、眼前に、すべてあるのだ。なんだか、そこがひどく懐かしい土地であるような気がして、浅野の眼のはじに、涙が溜まった。




浅野は、自分の足元に横たえてある細長い木箱に眼を移した。このなかに、彼がプロヴィデンスで入手した、草薙剣(くさなぎのつるぎ)の実物が収められている。浅野は、ラブクラフトが懇意にしているボストンの古物商を通し、ほんの僅かの手間賃と礼金だけを支払って、これを合法的に入手した。しかしまだ、それが日本皇室の秘宝、三種の神器のうちのひとつであることは、ラブクラフト以外は、誰も知らない。


このまま横浜に上陸し、剣を学術研究のために買い付けた骨董品と称してそのまま税関を通すことができたら、まずは刀剣研究家か歴史学者のもとにでも持ち込もう。だが、彼らのうち、誰が正確にこの幻の剣のことを鑑定できるであろう?それよりは、いきなり皇室にゆかりのある、志を持つ有力者のもとにでも持ち込むほうが良いか・・・。


しかし、この正体不明の神剣の出現は、またなにか政治的なもめごとでも惹起せしめたりはしないであろうか?ただでさえこれは、皇統に関わる由緒正しき品だ。だから当然、現在のさまざまな人間たちの立場や思惑に関わる。


ましてや、それを国外から持ち込んだのが、かつての大本教の中心人物で、心霊主義者の浅野和三郎である。既成概念に(とら)われた旧態依然の学会は、真贋(しんがん)について調べる前に、まずその点ですべてを否定し、一斉にセイラムの魔女狩りめいた総攻撃をかけてくるであろう。




いずれにせよ、もし草薙剣の実在が報じられたら、朝野(ちょうや)はまた、ひっくり返るような大騒ぎとなることは必定である。またも喧々諤々(けんけんがくがく)の論議が巻き起こり、かつての大本事件のときのような落ち着かぬ日々が続き、せっかく妻子と再会した浅野を取り巻いて、家族の静かな時間を奪っていくことであろう。


また、もしかすると、新聞雑誌など好奇に駆られた探索の手は海外にまで伸び、あのプロヴィデンスの隠者の情報を探り当てて、ただ過去の想い出の中に生きる彼の静かな日常までをも大いに侵犯してしまうかもしれない。




浅野は、これから我が身に降りかかる憂鬱なことどもについて、さまざまに想像した。日本本土にこの神剣が戻るということは、もちろん、ありとあらゆる意味で喜ばしいことだ・・・が、同時に強く願うことは、世間には、このことをなるべく知らせたくない(・・・・・・・)ということだ。




そしてそもそも、この剣については一点、不審な点がある。


夢に見た中世の旅で、狩音は四郎からこの神剣を奪い、それが最終的にダゴンの手に帰する事態を避けた。そのあと、彼女は地上の人間の味方として、剣を持ち去り、何処へともなく、その姿を消した筈だ。


しかし、エスター・ロスは言った。神剣はダゴンと闘った厚東四郎が取り落として海に沈み、今から百年ほど前、地元の漁師に回収された、と。そしてそれは、粢島のあった場所の水底へ斜めに突き刺さり、たまたま結界を形成していたのだとも。


だが粢島は、沿岸部ではなく、幾つかの海流に取り巻かれ、岸とは相応に距離のある、沖にそそり立つ孤島であった筈だ。


そのような場所へ、わざわざ向こう岸から素潜り漁師が身一つで出掛けて、何(ひろ)になるかもわからぬ(くら)い水底まで降りて行くものだろうか。ずいぶんと危険で、効率の悪い漁である。もしかすると彼は、もっと沿岸部に近い場所の、より浅い海底で、この剣に出会ったのではないだろうか。


そして、そもそも何で狩音はふたたび神剣を、ダゴンの近くに戻すような危険な真似をしたのだろうか。かつて平維盛がしたように、どこかの地中にでも埋め、封印しておけば、それで済む話ではないのか。


いったんは人間の側に立ち、しかしそのあと再び人間を、そして四郎を裏切って、ダゴンの側について剣を捧げに戻ったのか。それとも、悲しみに打ちひしがれながら汀で笛を吹き、そのまま我が身を没して、意図的に結界を結ぶように剣を突き立てたのか・・・とにかく、分からないことだらけである。




ここで、浅野はひとつ思い出した。


大本の審神者(さにわ)として、開祖・出口なおが記したお筆先の整理と取りまとめを行っていたときのこと。


「みかとがおこまりだぞよ なんじはみつぎぞ うみになげなば みくにがほろぶぞ」

なかに、全く意味のわからない、このような一葉が混じっていた。


なおの残したお筆先は極めて多数に上り、たまに、このような意味の通らぬたわ言などが含まれていることがある。しかしこの一葉は、何事か重大な警告を含んでいるような気がして、なぜかずっと浅野の脳裏に残っていたのであった。


そのまま字を当てれば、こうなる。

「帝が、お困りだぞよ。なんじは貢ぞ。海に投げなば、御国が滅ぶぞ。」


そのときは、いまひとつ意味をなさないように思えた。浅野がダゴンの生贄として付け狙われていた事実を考え合わせると、「(みつぎ)」は浅野自身のこととも思えるが、それを望むのが、折々救けに入ってくれた安徳帝であることと矛盾する。


これは、やはり、「御剣(みつるぎ)」ないし「巫剣(みつるぎ)」を当てるのが正しいのではないだろうか。


そうなると、こうなる。

「帝が、お困りだぞよ。なんじの御剣を海に投げなば、御国が滅ぶぞ。」


「ぞ」は、おそらく「を」の書き間違いか見間違いである。このようにまとめれば、なぜかとても、すっと腹の底に落ちる気がする。




そして、そのお筆先の解釈が、いま浅野が考えていたことに、ぴたりと一致した。


それはまるで、天界から浅野を見下ろしていた開祖が、すでに皺だらけの顔を、笑いでさらにクシャクシャにしながら、この出来の悪いトラブルメーカーの弟子の頭をちょん、と叩いたかのように、浅野の脳裏に閃いたのである。


「この剣は、海底にあった。」

浅野は、誰にともなく言った。


そして、今度は口に出さず、内心でこう呟いた。

「斜めに突き刺さり、結界を作っていた。そして、何百年もダゴンの侵攻を未然に防いでいた・・・いま、同じことを、私がやろう。絶対に誰も拾わない、まだかなり沖合のこのあたりで、剣を海へと投げ込もう。そうすればきっと、この国はダゴンの脅威から、ずっと護られるに違いない!」


もしそうすれば、先ほど考えて憂鬱になりかけていた、世俗の煩わしさに身を揉むこともない。また、開祖の残した、いわば遺言のようなお筆先の意図にもかなう。そしてその行いは何より、自分を何度も助けてくれた、海底を彷徨(さまよ)う哀れな幼帝の探す神剣を、正当な所有者である彼のもとへとお(かえ)し申し上げることでもあるのだ。




浅野和三郎は、厚東四郎と同じであった。果断と、行動の人であった。


思い立ったが吉日。なにかを()す前に、うじうじと思い悩んだりしない。彼は木箱から神剣を取り出し、しばし手に取りそれを眺めたあと、柄を握って、舷側から海に向かってそれを(ほう)り投げた。神剣は、宙でくるくると廻り、しばし緩やかな放物線を描いて高く舞い上がったが、やがてその重みでまっすぐ落下し、船から数メートル離れた海の中へ落ちた。


ぱしっ、という、(かす)かな着水音が聞こえた。




傍らで、間近に見えてきた日本列島の美しさと、神々しい富士の姿に息を呑んでいた白人の老夫婦が、この突然の奇矯な振舞いに驚き、浅野のほうをじっと見た。


浅野はおどけて、その外国人夫婦に、ちょっと片目をつぶってみせた。




天洋丸は今や、浦賀水道の入口に差し掛かり、高く昇ってきた太陽に照らされた地上の建物や灯台などが、まるで散らしたマッチ箱のように幾つも見えてきた。あのなかの、どのあたりが走水神社であったか、あまりに久しぶりなので、よくは分からない。しかし、15年ほど前、あの神社の境内で拾った石笛の音で始まったこの奇妙な旅は、その同じ場所にやってきて、いま、やっと終わるのだ。


現在と過去、現世と霊界。石笛、そして水底の剣。




広大無辺なこの世界の、すべてを繋いだこの巨大な円環が、ゆっくりと閉じようとしている。

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