第五十六章 昭和三年(1928年)晩秋 米国 プロヴィデンス
なにか思わせぶりで奇妙で、どこかしらとっても不安な夢から醒めて、浅野和三郎は、自分が大きな異国のベッドの上に横たわっていることに気づいた。
頭の上に窓は無かったが、遠く向こう側に見える白い壁面に大きな明り取りの出窓が見え、ほんのり温かい光が部屋に差し込んできている。空気は澄み切り、一切の湿気がなく、すべてのものが軽やかで、とてもいい気分だった。
その温もりのある部屋の奥で、ひとりの男が背の高い椅子に座り、机に向かってなにか一心不乱に書きものをしている。書きもの、といっても、水鳥の羽根を忙しく動かしているのではなく、パチパチと大きな音を立てて、彼はタイプライターを叩いているのである。
浅野が目覚めても、しばらく気づいた風も見せなかったが、ひとつ咳払いをしてみせると、はっと気が付き、こちらを向いた。
背が高く、痩身で細面。その顔はとても長く、肌は蝋を塗ったように蒼白く、そして眼の色は薄青色・・・。
あの見覚えのある、ハワード・フィリップス・ラブクラフトの顔だった。
いつまでもいつまでも、永遠に続く、この海底の迷宮!
浅野が、何度目かの絶望に落ちかけたそのとき、透き通った物静かな声で、ラブクラフトがこう言った。
「よかった!やっと気がついた。貴方はこの二日間、そこでただ、こんこんと寝込んでいたのですよ。なにか訳がありそうだったから、医者は呼ばなかったけれど。最初の夜は、大いに心配しましたよ・・・ともかくも、回復してくれて、本当に良かった。」
とにかく、ひどく腹が減っていた。衰弱し切ってまだまともに口も開けない浅野が身振りで空腹を訴えると、ラブクラフトは笑って言った。
「それは当然だ。あなたは丸二日間、もしかしたらそれより長く、おなかに何も入れていないのだから!」
そういうと彼はすぐに熱い珈琲を沸かしてくれ、黒いパンで肉の切れっぱしとレタスを挟んだ簡単なサンドイッチを持ってきてくれた。浅野は、夢中でそれにかぶりついた。口に入れたものすべてがとても甘く、生涯に摂ったすべての食事のなかで、おそらくもっとも美味なものだった。
「大したものではないけれど・・・とりあえず、力をお付けなさい。」
ラブクラフトはベッド際にしゃがみ、そう言って浅野を励ました。
浅野の食事がひと段落すると、さらに湯気の立つカップを渡してくれた。中には、白濁した液体になにかを浸したような、真っ白な味噌汁のようなものが満たしてあった。ラブクラフトは説明した。
「クラムチャウダーですよ。このあたりの名物です。ミルクで作ってありましてね。塩気もあって、美味しいですよ。でも熱いので、気をつけてください。」
そう注意は受けたものの、浅野は、また一気にクラムチャウダーをがぶ飲みしようとした。警告通りそれはとても熱く、浅野の口腔は火傷しそうなくらい一気にひりひりと灼けついたが、塩味がとても旨く、喉の奥にぼとぼとと落ちてゆくその熱い液体の塊は、浅野の身体を、その芯から蘇らせた。
ラブクラフトは優しげににっこり微笑み、二杯目をよそって、自分の口でふうふうと冷ましてから、また浅野に渡してくれた。少し落ち着いた浅野は、クラムチャウダーの中に、赤い人参や黄色いじゃがいもの破片が浮いていることに気がついた。そして、その合間に、ぷかぷかと、茶色いなにか、肉質なものが浮いているのも視認した。
「クラム・・・そうか!」
浅野はここで、やっとかすれた声を発した。すると、ラブクラフトが補ってくれた。
「そうです。アサリですよ。このあたり一帯は、港街ばかりですからね。アサリがうんと獲れるのです。」
浅野は、今度はゆっくりと、渡されたスプーンでアサリを掬って口に入れた。汁同様に塩気が効いていて、とても旨い。鰓、水管、貝柱、外套膜といった二枚貝特有の各部の体肉が、それぞれ微妙に違った食感で浅野の舌を愉しませた。
が、やがて、浅野はそれを、ぺっと吐き出した。そして、怪訝な顔をしたラブクラフトの気分を害さないように、今度はじゃがいもと人参だけを掬って、これはとても旨そうにもぐもぐとやった。
アサリの滑りと食感で、あの恐ろしい夜のことを、つい連想してしまったのである。
その簡単な食事のあと、疲れを覚えた浅野はまた眠りこんでしまい、次に目覚めたときは、もう陽がかげって周囲は夕方になっていた。
ラブクラフトは、まだタイプライターに向かって、パチパチと仕事をしている。今度は、浅野が目を覚ますと、すぐその様子に気がついた。
「起き上がれますか?」
彼は、心配そうに聞いた。
「え、ええ・・・なんとか。いろいろ有難う。」
浅野は答えて、なんとか上半身をベッドの上に持ち上げた。自分の身体が、なにかの塑像のように硬く、重い。足をベッドの外に出し、そこに並べられたスリッパに足を差し入れて、立ち上がろうとしたが、まだそれは無理だった。
「ご無理は、なさらず・・・珈琲を持ってきましょう。」
ラブクラフトは言い、数分姿を消し、そしてまた湯気の立つカップを持ってきて、浅野に渡した。そして言った。
「さあ。そろそろ大丈夫でしょう。なにがあったのか、教えていただけませんか?」
きょとんとした、無垢な眼だった。あの夜に会った彼とは、たぶん別人だ・・・いや、あるいはあの夜の記憶が、そもそも夢だったのかも。浅野は混乱しながら、説明を始めようとした。だが、何をどこから話して良いかわからない。そこで、まずラブクラフトに質問した。
「エスター・ロスをご存知ですか?たしか、あなたのご友人のはずだ。」
「エスター・・・何ですか?」
ラブクラフトは、本当に狐につままれたような表情をした。
「女性の名前のようですが。私はまったく知りません・・・いや、それより、あなたはいま、私の友人と言った。そもそも、私が誰なのか、ご存知なのですか?」
「ミスター・ラブクラフト。ハワード・フィリップス・ラブクラフト。仲間内での愛称は、フィル。」
浅野はなかば、反射的にそう答えた。
「これも、エスターが私に教えてくれたのです。そして私は昨夜・・・いや、おそらく数日前の夜に、あなたに会ったと記憶している。」
ラブクラフトは、唖然としていた。
「なんだって?たしかに、貴方は全身びしょ濡れの状態でこの家の前までやって来て、そしてドンドンと玄関を叩いたけれど。そういう意味では、二日前にお会いしている。だが、私が表に出ていったとき、貴方はすでに完全に意識を喪っていた。だから、貴方が私を覚えている訳はないのだが!」
「ここは、インスマウスなのでしょう?」
浅野は、たたみかけて聞いた。
「インスマ・・・なんだって!」
その名を聞いてしばらく考え、そしてラブクラフトはひどく驚愕して、いきなり椅子を蹴倒さんばかりの勢いで立ち上がった。
そして、動揺した表情でいらいらとあたりを歩き回り、握った拳を、忙しく尖らせた自分の唇に打ち当てて、なにごとか考え始めた。そして、やがて強い口調でこう言った。
「いや違う!ここは、インスマウスではない。プロヴィデンスという、まったく別の街だ。」
「私は、インスマウスに居たのです。そこで襲われ、ここまで必死に走って逃げてきました。ボストン中心部から、エスターの車でそこまで誘拐されたのです。たしかそこはボストンの北方で、さして遠くはない場所の筈だ。近くに、イプスウィッチという街があった。それから・・・セイラムも通り過ぎた。」
浅野が必死に記憶をたぐり寄せて説明すると、眼を丸くして聞いていたラブクラフトは、やがて眉根を寄せ、最後には軽くうんうんと頷き始めた。そしてしばらく考え、こう言った。
「なんとも不思議な、解せない話だ。いいですか、厳たる事実だけを貴方にお伝えします。イプスウィッチやセイラムという街は、たしかにボストンの北のほうにある、実在の街です。だが・・・インスマウスという街は、そこにはありません。」
「いえ、私は、たしかにそこに居たのです!なにか事件があって合衆国政府に封鎖され、いまはほとんど無人の街でしたが・・・その全景も見ました。大きな渓谷になった河口地域で、それを丸く囲うような小さな港湾があった。そして、沖合には不気味な岩礁が。私は、そこで襲われたのです。人間ではない、なにか別のものに。この手で、港を泳いだ。必死に泳いで逃げた!そして陸地へ揚がり、あちこち駆けて、あなたと会ったのです!」
浅野が必死に抗弁すると、ラブクラフトはしばらく黙った。まるで、この客人が、正気を喪った気の毒な狂人であるかのように。そして少しばかり憐れみの眼で浅野を眺め続け、やっと心を決めたように、静かにこう言った。
「あなたはいま、コネチカットの隣、ロードアイランド州のプロヴィデンスという街に居ます。住所は、エンジェル・ストリート454番地。イプスウィッチのあたりとは、おそらく100マイル離れている。とてもではないが、徒歩で逃げて来られる距離ではない。そもそもここは、ボストンの北ではなく南西の方角に当たります。そして・・・。」
浅野の顔を正面から見据え、こう言った。
「インスマウスという街は、そこにはありません。アメリカに存在しないのです。なぜなら、それは私が・・・このラブクラフトという売れない作家が、以前、イングランドの某所にあるものとして拵えた、架空の街だからです。」
浅野は、なにを言われているのか分からず、数秒のあいだラブクラフトの蒼白い顔をただ呆けたようにじっと見つめていた。ラブクラフトは、言葉を続けた。
「おわかりですか?あなたは、二日前の夜、ボストンでも、コネチカットでも、いや、アメリカですらない・・・この私の頭の中に居たのですよ!」
その後、一晩かけて、浅野はラブクラフトとじっくり語り合った。
これまでの自分の波乱万丈の人生航路。この心霊行脚の世界旅行。旅先で出会った人びと。そこで遭遇した数多くの不思議。そして、あの恐ろしいインスマウスでの出来事。
ラブクラフトのほうでは、こう語った。彼はエドガー・アラン・ポーに憧れて小説家を目指し、昔からあちこちに寄稿を繰り返していた。そのうちの一作に『セレファイス』という短編が含まれており、彼はそこでインスマウスという架空の街を登場させたのである。
さらに、『ダゴン』という短編では、海のかなたの名も知れぬ島で、ダゴンという魔物と遭遇する漂流者の運命を描いた。インスマウスのことは、実はコネチカットにある街として、いつか再登場させようと頭の中では考えていたが、まだ実現はしていない。
なにしろ、生活が苦しいのだ。ラブクラフトの作品は、その品格のある文章こそ高く評価されても、まるで闇の中に読者を引き摺りこむような不気味さと、通俗冒険小説としての痛快さを欠く暗鬱な物語性とが嫌われ、ほとんどの編集者たちに忌避された。さらに、紐育の資産家だった妻と離別し、金に困って、遂にはハリー・フーディニの代筆まで行って糊口をしのぐ有様であった。
小説家としては、なかなか芽が出ない。周囲にいる作家仲間のあいだでは人気があるが、商業誌にて名を成す機会にはなかなか恵まれず、自分名義の単行本も未だ刊行されたことはない。さらに、もともと身体が頑健ではなく、いつまで作品を書けるのかについても、不安は尽きない。
「この家は、そんな苦しい現実に苛まれる今の僕にとって、かつてあった歓びの記憶の象徴のようなものなのです。」
ラブクラフトは、言った。
この、エンジェル・ストリート454番地に面して建つ、ビクトリア朝様式の堂々とした三階建ての一軒家。道ぞいに欧州風の大窓が6つあり、緩やかに傾斜する三階部分の屋根には、品格のある破風がふたつ設けられている。高い緑のテラスに建てられたこの広々とした家の敷地は、美しい樹々や小さな噴水に囲まれ、裏手には細く曲がりくねった小道が、こんもりとした木立の間を縫っている。二段になった玄関口の階段の横には、数本のパラソルが立ち、歩けば僅かのところにある汀から、いつも涼しげな、優しい微風が吹き付けてくる。
地元の名士の子として生まれたラブクラフトは、幼少時、この家で何不自由なく暮らすことができた。しかし、父親が精神を患って入院したあたりから一家の零落が始まり、十五歳のときには、この家に住むことも叶わなくなった。そこでラブクラフトの母親は、まだ少し未練を残すかのように、同じエンジェル・ストリート沿いのアパートへと引っ越し、以前に較べれば遥かにつましいその建物で、その後の20年間を過ごした。
「この家に、帰りたかった。この家に、また住みたかった。幸いなことに、家の管理人の老人は、かつてのラブクラフト家の使用人だった男で、幼い頃の私にも優しかった。その後、この家を買い取った新興成金の一家は、寒さを嫌って冬場はフロリダか、メキシコあたりに行ってしまう。そのあいだだけ、彼は鍵を渡してくれて、私がこっそり出入りするのを黙認してくれているのです。もちろん、昼はブラインドを降ろしランプを灯して、出る時には完璧に原状回復しないといけないけれど・・・まあ、今日は気が向いたので、通りに面していないこちら側だけ、ブラインドとカーテンを上げてみたのです。」
こう言うと、ラブクラフトはちょっと片目を瞑ってみせた。そうした仕草をすると、白皙のやや不気味なくらい長い顔へ、まるで幼子のような愛嬌が漂った。
父親も、母親も、すでに亡い。身内らしい身内も居ない。ほんの数年だけ、資産家の女性と一緒になって紐育に住んだこともあるが、その結婚はすぐに破綻した。いま彼は、天涯孤独の身の上で、かつての幸せだった子供時代の想い出のなかに浸り、その魂は、ただふらふらとこの周辺の過去を彷徨っているのである。
「そういえば、貴方にお見せしたいものがある。」
ラブクラフトはこう言って、部屋の奥の方でなにやらがさごそやっていたが、やがて、大きなゴルフバッグを持って戻ってきた。重厚な茶色の革製で、ウッドやアイアンが10本は同時に入りそうな、胴の太い大型のサイズである。
もちろん、浅野がそれを見るのは、はじめてではない。そして、ラブクラフトがいま取り出そうとしているものについても、正確に予測することができた。
草薙剣は、いとも無造作に、裸身のままそのバッグに突っ込まれていた。ラブクラフトは、柄の部分に巻きつけられている、半ば朽ちた薄皮のあたりを慎重に握り、浅野に手渡した。
ずしりとした、あの感触。重みはあるのになぜか扱いやすそうな、絶妙な釣り合い。その剣は、振ればさらに軽く感じることを、浅野はすでによく知っていた。
「あなたは、たまたまベッドの横に立てかけていたその剣を握り、胸に抱いたまま、ずっと意識を喪い、うなされ続けていたのです。」
ラブクラフトは言った。
浅野は、ほぼ二日二晩、この剣をかたときも離さず、しっかりと懐に抱え込んで、ずっと眼に見えぬ何かと戦っていたというのだ。高熱を発し、びっしりと汗をかき、よくはわからない譫言を呟きながら、なにものかとこの剣で斬り結んでいるようだった、とラブクラフトは表現した。
浅野は、すでに半ば自分のものであるかのように馴染んだその剣を、あらためてしげしげと眺めた。実際に眼にするのは初めての筈なのに、なんだが、昔の知己に久しぶりに会ったような感慨がある。自分は・・・そして自分と一体化した厚東四郎は、この剣に、既になんども命を救われてきたのだ。
「これは、裕福だった私の祖父が、セイラムで買い付けてきたものです。」
ラブクラフトは、言った。
「東洋のものらしいことはわかるが、いつ誰が、どこからどうやって運び込んだものなのか、まるで分からなかった。でも、貴方の話を聞いて悟りましたよ。これはたぶん、あなたの国から喪われてしまった、護国の宝剣なのです。」
浅野の回復を見届け、ラブクラフトは、この家に据え付けられている電話器で、ボストンのクランドン邸に連絡を取ってくれた。三日ぶりで浅野と話したミナ・クランドンは狂喜し、ル・ロイは冷静に、なにか不都合でもあったのか尋ねた。
「ご説明すると、長い話になります。」
電話口で浅野は言った。
「私の国の、昔に関わる事件に巻き込まれましてね。あなた方にご説明すべきかどうかもわからない。以前、私はトラブル・メーカーだったのですよ。今ではすっかり足を洗い、真面目に心霊研究に勤しんでいるのだが。あなた同様にね。」
いくら霊媒とその夫といえど、浅野の身の回りに起こったこの一連の出来事を理解することは、難しかろう。浅野はいったんボストンに戻り、簡単な警察の事情聴取を受けることになったが、どうやら、身柄の安全が確保されたことで、事件性はないと判断されたらしかった。大使館にも、まだ連絡はしていないという。
ル・ロイは、ボストン社交界きっての名士として、浅野を確実に保護することに責任を感じたらしい。たったいま太田に命じ、ボストンから迎えの車を走らせ、午後にはこちらに到着するという。この、いわば不法占拠しているに等しい家の住所を言ってよいのか、浅野は通話口を覆ってラブクラフトに聞いた。彼は電話を代わり、まったく違う、別の番地を述べた。
やがて太田の運転する車の到着予定の時刻が近づき、ラブクラフトは、浅野を促して腰を上げさせた。やや人目を気にしつつ、後ろ手に屋敷の扉を閉め、まだ少し足元のふらつく浅野の背中を押さえながら、家の前に伸びる道を、ゆっくりと左のほうに進んだ。
少しでこぼこのある道をまっすぐ。ひたすらまっすぐ。ラブクラフトはなぜかあの剣を布に包んで、手に持っていた。やがて彼は浅野の肩をつつき、路傍に建つ、ベージュ色に外壁を塗られた木造の住宅を指さした。
「あれが、先ほどまで居た家を追い出されたあと、20年ほど住んだ家です。集合住宅で、夜になると別部屋の住人同士の諍いやら夫婦喧嘩やらがいつも五月蝿かった。」
こう笑い、そして続けた。
「それでも僕と母は、この剣や、ラブクラフト家に残った古い遺物などは、売り払わずに手元に残しておきました。こんなみすぼらしいあばら家の押入れに、あなたの国の宝物が20年間、ただ眠り続けていたことになるのですよ。」
二人は道をさらにまっすぐ進み、やがて突き当りとなり、目の前の眺望が大いに開けた。眼前には、幅の広い大きな河が流れていたが、海が近いらしく、頬を撫でる風にはほのかに汐の香りがまとわりついている。突き当りは、河沿いの小さな街道となっており、粗末に舗装された道路が目の前を左右に横切っていた。
ラブクラフトは、浅野に手を貸しながら、その道路を横断した。交通量はまったく無いに等しく、向こうの岸にも、誰もいない。川床は広大だったが、流量はわずかで、その大半が干上がっているようだった。だがよく見ると、水が引いたのは最近のようだ。まだ全体に土が濡れて黒く、重そうで、ところどころに水たまりが残り、そのうちの幾つかで魚が跳ねていた。あちこちに細い竿のようなものが突き立ち、綱などが張られて、大小さまざま、雑多なゴミがそこらじゅうに棄てられていた。白い貝殻が細かな破片となって散乱し、小さな蟹のがその廻りを、横歩きでもぞもぞと這い廻っている。
「シーコンク川ですよ。」
ラブクラフトは、言った。
「川のように見えるのですが、実は海の入江です。上流わずかのところで小さな滝となり、本物の川と繋がっています。今は引潮で、川床がこんなに干上がっていますが、日に二回、満潮になると、眼下いっぱいに海の水が満ちます。それらは波打ち、ぱしゃぱしゃと音を立てて、ここが海なのだと声高に主張してくるように思えます。」
浅野は、黙って聞いていた。いま目の前いっぱいに広がる光景が、海水で一面埋め尽くされている情景を思い浮かべた。そして眼を移し、満潮時に転落事故でも起こしたのであろう、川床に斜めに突き刺さった、一台の自動車の残骸を眺めた。
「私は、思うのです。」
ラブクラフトは、言った。
「もしかして、ここが、あなたの旅の終点ではありませんか?」
浅野も気づき、頷いて、ゆっくりと答えた。
「そのような気がする・・・私は、インスマウスに行ったと思い込みながら、実はここに居た。ボストンからあの車に乗せられて、ここに運ばれたのだ。」
そう言って、川床に突き刺さり、前方のボンネットが泥の中に見えなくなっている、黄色いシェヴィの姿を指さした。
「そして、インスマウスだと思って、あなたの家のすぐ近くで、必死に泳ぎ回り、逃げ回っていたのだ・・・そうだ、私の旅の終点は、たぶんここだ。」
「よかった。」
ラブクラフトは言い、心の底から嬉しそうに笑った。
「そう・・・ここが、私が幼いみぎりより毎日のようにやって来ては、眺め降ろしていた場所です。潮がいっぱいに満ち、恐ろしげな音を立てて、あちらの岸とこちら側を完全に遮断してしまう。まるで世界を、完全に二分してしまうみたいに。」
「あなたはたぶん、ここを『海峡』と呼んでいたのでしょう?」
浅野は、そう尋ねた。ラブクラフトは頷いた。
「正確には、海峡ではないが・・・でも私にとって、ここはまさに海峡だった。違う世界同士を隔て、現在と過去を隔て、生者と死者、そして人と人とを引き裂く境目だった。本当は、その合間に、いま広がっているような、緩やかな川床があるはずなのに。白でも黒でもない、灰色の中間領域があるはずなのに。それでもいつしか、どっと真黒な海水が流れ込んで来て、あの川床はすべて暗黒に閉ざされてしまう。」
そして、川床から眼を離し、浅野をじっと見つめて、こう言った。
「夜になると、私はひとりこの場所に佇み、この剣を手にしながら、とりとめのない、いろいろなことを考えたものです。天球にばら撒かれた星々から、いつか、なにか恐ろしいものが、いっぱいに零れ落ちてくるのではないか。いや、彼らはもう既に大昔からこの天体に降り立ち、どこかにじっと身を潜めているのではないか。ときに姿を現し、ときに思わせぶりな態度を取って、われわれ地上の支配者である人間を誘惑し、蠱惑し、そして破滅させているのではないか。僕らの運命は、神が決めるのでも、自分で決めるのでもなく、じつは全部、彼らが書いた筋書きのとおりに進んでゆくものではないか・・・。」
浅野は、ゆっくりと頷いた。ラブクラフトは、続けた。
「ダゴン、クトゥルフ、ミスカトニック、アーカム、インスマウス、深きものたち・・・いろいろな邪神や、ありもしない土地などの名前が、次々と脳裏に思い浮かんできた。そして、彼らの織り成す壮大な億年単位の闇の歴史が連綿と続き、われわれ人間の奉ずる合理主義を嘲笑い、この大宇宙のなかで人間は、眇たる星の塵屑に過ぎないことを否応なく思い知らせてきたのです。僕はいつも、ここでただそんなことに思い耽って・・・こうして、いつしか大人になってしまった。」
「いっぽう私は、ふらふらと地球を半周し、海峡へとやって来た。そんな貴方の心に空いた、真黒な裂け目へと。」
浅野が、そう引き取った。
「そして、その中へ落ちかけた・・・だが、なんとか救われたようだ。何かわからぬ、より大きなものの力を借りて。」
ラブクラフトは、浅野の背からそっと手を離し、数歩前に進んだ。そして、眼前いっぱいに広がる彼の海峡を眺め渡し、振り返ってから、こう言った。
「ミスター・アサノ。海峡へ、ようこそ。」




