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海峡奇譚  作者: 早川隆
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第五十五章   安貞二年(1228年)秋   長門国 粢島周辺

神剣を欠く四郎をめがけ、数十の屍鬼どもが襲いかかってきた。いや、次から次へと海から湧いて、その数ははや百を越え、二百を越え・・・。


その動きは遅く、泳ぎは緩慢である。しかし、四郎にはどこにも逃げ場がない。いまやって来た退路も、気づけば数十もの巌の黒い影に塞がれている。


どこにも、逃げ場はない。




彼らははじめ、ただ泳ぎ寄せてきては、数十もの黒ぐろとした影が連なる長い壁となり、四郎の乗る双胴の舟を取り囲んだ。その数はどんどんと増え、また新たなる援軍が海面へ次々とその頭を突き出してきて、このちっぽけな舟を二重、三重に取り囲んだ。


木刀を腰だめに構え、僅かに揺れる舟べりにしっかりと趾をかけながら、四郎はその無音の塁壁を睨んだ。それぞれの大きさ、形などに僅かな違いはあるが、いずれもびっしりと真黒な海藻類が貼り付いており、合間からときどき、付着した藤壺などの貝類が頭を覗かせていた。そうした、水底の産物に覆われながら、瞼のない、そして生気のない眼が、うつろに開いて四郎のほうを眺めていた。


死者の黒い塁壁と、生者の乗る双胴の舟は、そのまましばらく無言で睨み合い、この奥深い水路の奥にまでわずかに通う海の流れに揺られ、ぷかぷかと上下していた。ずっと奥、岸壁の前の岩棚の上では、はるか彼方に見えるダゴンが、赤く眼を光らせて、その対峙のさまを見下ろしていた。




だが、やがて・・・命なき死者たちの列に、やや異変が起こった。


どこからともなく、低い唸りのような音が聞こえ、それは連鎖し、重なり、またたく間に粢島の狭い水路を圧する重厚な奏楽となって、四囲の垂直な岸壁に次々と谺して、そのまま天へと立ち上っていった。


四郎はその音を、以前にも聞いていた。あの、櫂のない舟に揺られ、ただ目に見えぬ海流に身を任せて、海のどこかへと運ばれてゆく夢。あてどもなく、ただ不安なその夢の最後で、いつも必ず水底から聞こえてきた、あの歌にならぬ歌だ。


それが、いま聞こえている歌だ。海底で死者たちが這い廻り、四郎を引きずり込むため、皆で唱和していた、あの水底の歌だ。いまそれを、彼らは水面で歌っている。数百の屍者たちが、声をあわせて、これから彼らの仲間に加わる厚東四郎に対し、彼らの歓びの歌を聞かせているのだ。


四郎は、生きながらにして、気が狂いそうになってきた。こちらも声にならぬ声を張り上げ、なにやら罵声のようなものを叫んだが、もちろんそれは何ら意味を成す言葉になっていなかった。


ただ恐怖のあまり、四郎は叫び声を上げていただけなのだ。




やがて、屍者の壁はゆっくりとした進軍を始めた。数百、もしかして数千もの黒い塊が、一斉にこちらへと泳ぎ寄せてくる。圧された水が、波となって小舟の舷側へと打ち寄せてきた。そして、いくぶん動きの速かった最初の数体が、先鋒隊となって舟のあちこちに取り付いてきた。


四郎は、絶望的な気分になりながら、必死で木刀を振るった。刳貫舟の浮きを掴み、身を乗り出してきた最初の数体は、海に跳ね飛ばした。次の数体も、胸を突き、腹を叩き、脚を蹴り飛ばして、なんとか舟の上から撃退した。しかし・・・木刀では、既に死んでいる屍鬼を殺すことができない。


次から次へと、屍鬼は海から湧いて出て、舟のへりに取りつき、あちこちを揺すって、海の底へと引き摺り込もうとした。最初、浮力を保ってこれら屍鬼どもの重みに耐えていた双胴も、片側の浮きが、それを本体と接続していた柱ごと屍鬼どもにもぎ取られると、遂に平衡を失って、横倒しとなった。




波間に投げ出された四郎の廻りに、やがて何体もの屍鬼が群がり始めた。


四郎は、海面に叩きつけられた衝撃で、握った木刀を取り落としていた。それは、数間先の海面を、ぷかぷか浮きながら漂っている。その間には、また新たな屍鬼どもが群がり湧き、水面から頭を出して、両手を虚空に差し上げた。


四郎は、その偉大な膂力をもって必死に屍鬼たちを撲り、数体に大きな打撃を与えたように見えたが、何体もの屍鬼にのしかかられ、水中から脚を引かれ、何度も何度も浮いたり沈んだりを繰り返した。




今度こそ、終わりだった。


四郎の頭はすでに水中に沈み、ただその右手の先だけがなにかを掴むように水面に出ていたが、何体もの屍鬼の黒い影が覆い被さって、やがて、波間に沈んでいった。




宕の赤い眼がぎらぎらと輝いて、どこか不満そうに、四郎の最後の様子をただじっと眺めていた。




同じ頃、その対岸の隠し泊では、狩音がひとり汀に立ちつくし、茫然と浪の彼方を眺めていた。その片手には、あらかじめ木刀とすり替えておいた、あの神剣が握られている。


この剣が無くば、たとえ厚東四郎の剛勇がどれほどのものであろうとも、粢島から生還できる見込みはない。そのことは、わかっていた。充分に、わかっていた。


それでもどこか、諦めきれない気持ちがあった。もしかしたら・・・もしかしたら。どうにか生き残る手立てを考えて、(わたし)のもとに戻ってきてくれないかしら。打ち寄せる波の音を聞きながら、狩音はしばし、そんなことを考えた。しかし、それはあり得ないことだった。




そして、自分がなぜ、我が愛する男を確実に死に追いやってしまう行いを為したのか、あらためてその理由を考えた。


それは単に、見込みの程度の問題だ。


たとえ四郎が、この必殺の神剣を帯びて粢島に漕ぎ出して行ったとしても、おそらくはそこで無数に待ち構えているであろう、海底の屍鬼や幽鬼や宕の仲間たちを、残らず討ち果たすことは、困難だ。


宕は、たしかに生贄として四郎を欲したが、その実、もっとも奪い取りたいと考えていたのはこの神剣のほうだった。この世界に在る唯一の、宕に対抗可能な武器。これが人間どもの手の内にある限り、宕も、「深きものたち」も、海底を脱して地上へ侵攻することは、永遠に、できない。


それは長らく都の宮廷の奥深くに封印され、厳重に防備されていたが、宕は様々に策略を巡らし、あちこちに思念波を送り、また芳一のような傀儡を動かして、まず都の人間同士の殺し合いを煽った。それはやがて大規模な戦闘となり、長期化し、遂には扶桑の全土を巻込む大合戦へと発展して、幼帝とともに神剣が宕の牙城の近くへ粛々と近づいてくるという、この上ない絶好機を作り出した。


しかし、敗勢の平氏を見限った一門武将の裏切りにより、神剣の行方はまたわからなくなってしまった。それがつい最近、地中から掘り出され、老いたるその武将自身の腰に提げられているという確報がもたらされ、またも状況は大いに動き出した。


はじめ、宕は芳一を送って、桜梅と称するこの裏切者を諭し、のちには脅して神剣を取り上げようとしたが、小狡い桜梅はなかなかこれに応じない。そこで、より気が小さく、聞き分けの良い霜降の厚東武光に圧力を掛けて、末息子を贄として差し出させるばかりでなく、この馬鹿な猪武者の贄自身に剣を奪わせ、我が身とともに粢島へと持参させようと図ったのである。




そして、その贄・・・厚東四郎忠光は、勇猛果敢であり、想定以上なくらい智謀にも優れた武人であった。彼は、人質に取られた生母を救うため、常人とは思えぬほどの活躍を示して地上のすべての陰謀を打ち砕き、そして最後には、宕の計算したとおりに、神剣を、粢島の目前まで持ってきた。


宕にとってこれは、上々の首尾というべきである。なにしろ、すべての困難を打ち破った美味なる極上の餌が、是非とも奪い取りたいと千年間も願っていた神剣を身に帯びて、のこのこと、自分から島へと渡って来るのだから。


だから宕は、万全の迎撃体制を取って、舌なめずりしながら四郎の到着を待った。そして、事前に多々良にも圧力をかけ、なにがしかの交換条件を出して、多々良が四郎のもとへ送り込んだ間者、すなわち狩音に指令し、四郎が確実に粢島へと渡ることにするよう仕向けさせたのである。




すべて、「深きものたち」が、芳一と大臣を使って地上に作り上げた、神剣をからめ取るための巨大な罠であった。


狩音は、自身なんども落命しかねない危険を冒しながら、四郎を助け、励まし、彼が迷う時には彼の知らない知恵を出して、桜梅より神剣を奪わせ、遂に海峡まで彼を誘導して来た。


すべてが、想定以上の大成功であった。だが、ひとつだけ不都合が生じていた。その過程を通じ、狩音自身が、精神的に四郎と深く結びついてしまったのである。そしてそれは、万死に値する重大な違背行為であった。


何に対する違背か・・・多々良の掟、ではない。


それは、「深きものたち」の血を引く子孫としての、禁忌を犯す行為だったのである。




狩音は自らの、もう五百年以上にもなる、長く辛い半生の記憶を思い浮かべた。


遥かな昔、多々良の一族が、多数の流民を引き連れて(から)を逃れ、海を渡って南へと漕ぎ出したとき・・・嵐に遭い、粗末な船団はバラバラになり、僅かに生き残った数隻の船が、数十名ほどの生き残りとともに、絶海に散らばる数個の島に上陸した。彼らはそこで何とか自活し、やっとのこと生存していけるだけの目処が立った頃、海中より揚がり来たりた「深きものたち」の襲撃を受けた。


なんら抵抗力を持たぬ多々良の民はあえなく彼らに降伏し、以降は彼らの掟による支配を受け入れた。数百年が経ち、彼らの一部と「深きものたち」との間で混血が進み、その何世代かあとに、狩音が生まれた。


その頃になると、ダゴンの支配を嫌って島を漕ぎ出して行った数名の仲間が、これよりさらに南にある大島の南側に廻り込み、「多々良浜」と名付けた聖地より上陸して、そこに一族を象徴する菱の旗を打ち立てた。そしてさらに幾世代かののち、彼らは周防国一帯を制覇し、東の六波羅の支配を受け入れ、西の厚東と睨み合っている。




いっぽう、島に取り残された狩音は、「深きものたち」の血が薄く、それが持つ特徴の度合いが少なく、より人間のほうに近い故を以て、長年月に亘って壮絶な迫害を受け続けてきた。しかし、常に配下の者共に対し慈愛深きダゴンの計らいで、狩音は、一族とともに周防国へと移住し、その地域におけるダゴンの密やかな密偵、ないし利益代表者として、特異な地位を占めるようになった。


自治能力の向上と農業生産の安定によって徐々にその数を殖やし、勢威を増していく一方の地上の人間どもに混じり、狩音とその一族は、何食わぬ顔で数世代を過ごした。ダゴンは、いつもは海底に潜み、ごくたまにしか思念波を送ってこない。だが、いざそれが飛ぶや、狩音はすぐとそれに応じ、それに従わねばならない。


自然と、一族のなかでもっとも人に受け入れられる魅力を有し、機敏で、頭の良い狩音は、周防の多々良領域におけるダゴンの密やかな利益代表者のような存在になっていた。


狩音が務めを果たす限り、ダゴンは彼女の一族を保護し、ただ周防に放っておく。だが、数百年に一度しか飛ばぬ指令を狩音が果たせぬとき・・・あるいはその指令に違背したときは、一族ごとどのような目に遭うか、それは、自身「深きものたち」の血を引く狩音にしてみれば、火を見るよりも明らかなことである。




だから、今度の指令を受けたときも、狩音は必死にその任を努め上げ、いささか脇が甘く人を信じやすい、厚東四郎という名の猪武者の信頼を得ることができた。そして彼の、霜降城を皮切りにしたこの奇妙な征西の旅に同行することになったのである。


彼女は、密かに完璧に自らの任務を遂行し・・・そして、最後までそれをやり遂げた。あとは、この馬鹿な猪武者に神剣を包んだ蝶模様の太刀袋を渡し、一緒に地獄へと送り出してやれば、それでいい。


だが、それをするには、狩音はあまりにも人間でありすぎた(・・・・・・・・)。その接した僅かな間に、狩音は、四郎と一緒にいることに心の底からの安らぎを感じ、彼の身を案ずる時、自分自身のことも、周防に残る一族のことも気にならなくなってしまっている自分に気づいた。


危険な兆候であった。




ダゴンは、狩音が役に立つあいだだけは、彼女を重く用い、優しくこれを遇するであろう。だがひとたび彼女が「深きものたち」の子孫としてではなく、より地上の人間としての行動を取るようになった場合、どのような挙に出てくるか。


旅が長門の果てに近づき、沖合かなたに粢島の姿が見えてきたとき、狩音の心は千々に乱れ、自分でもよくわからぬままにはしゃぎまわって、その気を散じさせねばならなかった。


四郎の気を、でもあり、やがて究極の厳しい選択を強いられる自分の気を、でもある。


そして遂に船出の時刻。狩音は心を決め、眼の前で一心不乱に櫂を操り舟と格闘している、自分の愛する男の生命を、静かに諦めた。彼は、自分がどのようにかき口説いても、必ず島に渡り、ダゴンと・・・彼は「宕」と呼んでいたが・・・対決しようとする人間だ。彼は、勝たぬ限りは二度と戻っては来ない。


そして彼が勝ち、生き残る見込みは、まず無い。彼は死に、海の藻屑となり・・・いや、ダゴンの餌となり、そして地上の人間たちを護る、この何より大切な神剣が、ダゴンの手に奪われる。そうなれば、この地上に残る自らの一族と、すべての人間たちは、海底に潜むこの妖魔に支配され、以降はただ、好きなときに喰われ、好きなときに使われるだけの家畜へと逆戻りである。


半分以上は人間の狩音にとって、これは、おそるべき事態であった。




狩音は、隠し泊の岸に座り、小さな焚火を熾して、その脇でただ泣きながら考えた。考えに、考えた。それでも、出てくる結論はただひとつ。


いま一心不乱に泊の中を漕ぎ廻っている男を、贄としてダゴンにそのまま、差し出す。この、身の締まった極上の贄を捧げて、その気をそらす。ダゴンは常に気紛れで、贄に満腹し、もしそのまま怒らずにおれば、まず数百年のあいだ、人間どもは安泰だ。


だが・・・神剣は渡さない。神剣を渡せば、そのまま人間たちの歴史は、終わってしまう。だから、四郎を犠牲にし、彼の帰りを待つ母親を犠牲にし、おそらくは周防に残る自分の一族をも犠牲にして、ただ人間の、種としての命脈だけは、絶えぬようにしよう。もし彼ら地上の人間たちが、狩音の期待するくらいに聡明であれば、ダゴンが腹をすかせ、ふたたび機嫌を損じるであろうあと数百年のあいだに、必ずなにかを学び、なにか対応策を考える筈だ。


それが、海底のダゴンに対する攻撃なのか、攻撃からの防禦なのか、あるいはなんらかの手打ちなのか・・・それはわからない。それは、この後に生きる人間たちの叡智に委ねよう。彼らに、狩音が期待するほどの叡智が具わっておればよいのだが。




そして、狩音は、このまま消える。


神剣を持って、そのままここを立ち去る。ダゴンの知らない、ダゴンの力の及ばないどこかに、この剣を持ち去る。そしてそのまま、狩音は姿を消すのだ。永遠に消すのだ。




もう、あまり残された時間はない。一刻も早くここを立ち去って、我が身を消してしまわねば、自分が四郎を犠牲にした意味がなくなってしまう。いつまでも感傷にひたっている暇は無いのだ。




それでも・・・それでも。


狩音は思った。


ほんのしばしの間だけ、四郎へ、惜別の曲だけは、手向けてあげよう。わが愛する、唯一の人間(・・・・・)だった四郎へ。




狩音は、提げていた首輪を外し、そこにぶら下がっていた石笛を手にとった。龍の頭の形をし、小さな孔がふたつ空いている、あの石笛。彼女はそれを口につけ、波間の向こうに見える粢島の大きな黒い島影に向かって、ピイと音を立てて吹き始めた。


そのとき、彼女の貌には、かすかな変化が起こっていた。やや全体が膨れ、眼のあいだが離れ、瞬きができなくなっていた。やがて、石笛の孔を押さえる指の形も変わってきて、全体が大きな鰭のように変化してきた。うまく孔が押さえられなくなり、音がばらばらに散り、さいしょは美しく澄んでいたその音が、なんだか濁った、乱れる不協和音の集まりになっていった。


それでも、狩音は吹いた。もはや魚のようになった瞼のない眼から、涙にならぬ涙を流し、発声できぬようになった口から、声にならぬ嗚咽が漏れた。




誰もいないこの(とまり)

波の打ち寄せる(みぎわ)




そこに、人のような、魚のような、不気味な姿をした一匹の異形の生きものが横たわり、波の彼方に消えた恋人のために、ただ一心不乱に石笛を吹いていた。

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