第五十三章 安貞二年(1228年)秋 長門国 粢島周辺
厚東四郎の操る双胴の刳貫舟は、長門の本土と粢島のあいだに横たわる海峡を、波にのってスイスイと進んだ。
万事順調である。島を巡る海流は、噂ほどの激流ではなく、また喫水の浅いこの双胴の舟は、脇についた浮舟の浮力とも相まって、釣り合いを崩さず、俊敏に波間を動いて前に進む。
また、夜闇に没した昏い水面も、恐れていたほどには視界を奪わない。中天にかかる月が、蒼白い光を注いで、海流の巻く渦の様子を、はっきりと照らし出してくれるのだ。
四郎は、肩の力を抜き、息を大きく、ゆっくりと吐きながら、四分の力で櫂を廻した。力は抜けているが、その回転は速く、左右どちらかの櫂が、ひっきりなしに水を掻き、ぐいと舟を進める。粢島は、もうほんのすぐそこであった。
いくつか、島を取り巻く大きな渦と奔流をうまくいなして、四郎は舟を、屈曲する水流にうまく載せ、そのまま巻くように粢島の前衛を成す岩と岩のあいだに滑り込ませた。下手に水を掻かず、流れから外れて岩に当たりそうな時にだけどちらかの櫂を動かして、進路を微修正する。島を巡り、巌を削って滑らかに磨く自然の力に逆らわずに舟は進み、それと感づく間もなく、舟は粢島本体の岩盤の間近に躍り出るような格好になった。
そのまま全く櫂を漕がずにいても、舟は押され、岩盤と岩盤のあいだに広がる、鏡のように静まった水面を裂いて前に進んだ。微風に揺れ、水面に細かな波が立ち、月に照らされた四郎自身の半身を映し出した。
四郎は、慎重にゆっくり櫂を動かして、この静かな狭水道を進んだ。両側には、まるで先ほどまでくっついていたのを誰かがすっぱり太刀で割いたかのように、高さもわからぬ垂直な平たい一枚岩が向かい合ってそそり立ち、互いに間近でなにか会話を交わしているかのように思えた。
ここまで来ると水の色が変わり、それまで濃い藍色か真黒だった海水が、やや緑がかった翡翠の色になってきた。それはまるで、ここが海というよりも、そよとも水の動かぬ深い沼になったような錯覚を起こさせた。上空かなたからの月の光は、ここまで直接は届かない。が、それはあちこちの白い岩盤に反射し、まるで音の響きのように交互に跳ね返り合って、翡翠の水面をまるで華やかな舞台のように染め上げた。
やがて四郎は、舟の進路に、ひとつの障害物が浮いているのを見つけた。
それは、まるで丸い巌のようなもので、不思議なことに、ぷかぷかと揺れながら、水面に浮いている。見ると、進路上の狭水道には、ところどころ、同じような巌がばら撒かれ、同じようにぷかぷかと漣に揺られていた。
そして・・・それらは、眼と耳と、口を持っていた。
数体の屍鬼どもが、四郎の舟を待ち受け、波間にたゆたい、感情のない茫然とした眼を向けてきているのである。
四郎は身を固くしたが、まだ剣は用意しなかった。仮にそれらが向かって来た場合、まずはいま腕に握っている櫂で打撃を加え、これを撃退しようと考えた。神剣は、悪いがこんな雑魚どもに振るってやるべきものではない。
それはただ、宕に対してのみ、振るうべきものだ。
四郎は、内心そう呟いて、舟の舳先が屍鬼の最初の一体目に触れるのを待った。驚くべきことに、屍鬼は舳先を避け、わずかに手足を動かして、後ろに下がった。
次の屍鬼も、そのまた次の屍鬼も。
この狭い水道を塞いでいた、八体の屍鬼が何ら抵抗することなく、黙って四郎に道を開けた。舟が通り過ぎるとき、四郎は彼らの顔を覗いたが、そこにはまるで表情がなく、眼にも光がなかった。それらはただ、べったりと藻の貼り付いた、丸い塊のようだった。
やがて、水道の全面に大きな一枚岩が現れ、進路を完全に塞いでいた。その代わり水路は左に折れているようである。四郎は櫂を使い、右側の岩盤を押しつけて、舟の進路を変えた。
すると、大きな、広場のような水面に出た。
そこには、屍鬼どもが数十体、あちこちに浮き、わずかに大きくなった波にゆられて、ちゃぷちゃぷと音を立てていた。しかし、水面は広く、彼らの配置は疎で、まとまった脅威にはなりそうにない。
しかし、彼らを前衛にして、その奥に聳える段のようなところに立っているものは、全く別であった。
人のような、魚のような・・・あるいは、巨大な水棲の獣のような。
なにかの忌まわしい鬼のような。
あるいは、神のような。
それは、その場にすっくと立ち上がり、高みから真っ直ぐ、四郎を見下ろしていた。吼えもしないし、唸りもしない。そして、思念波を飛ばして何かを語りかけて来るわけでもない。
それはただじっと、四郎を見下ろしていた。
「久しぶりに、会ったのう・・・。」
四郎のほうが、舟の上で、そうひとりごちた。
あの夢。
あの夢で出会った・・・誰もいない、世界の果ての、荒れ果てた島で。
あのときの異形の怪物が、いま眼の前に居た。
眼の前に、何も言わずに立ちはだかっていた。
四郎も、刳り抜いた舟の孔の上で、それに向かい合い、立ち上がった。
そしてその化物は、無言のまま、あのとき夢で見たのと同じ動作をした。よくわからない形状の、腕のようなものを前に伸ばし、四郎を遠くから差し招くようなしぐさをした・・・まるで、なにか固く約束した土産物を求めているかのように。
つられるように四郎は、かがみ込み、舟底に横たえておいた、あの揚羽蝶の柄の美麗な太刀袋を掴んで、また立ち上がった。
それを、まず上のほうへと差し上げて、かなたに立ちはだかる宕の眼にはっきり映るよう、二度三度と振った。そして、紐をほどき、袋を払って、海獣の革でできた頑丈な鞘を取り出した。
彼方の、宕の両眼が、ぎろりと赤く光った。
四郎は鞘の中央を握り、ぶん、ぶんと空中で振った。重さ、釣合い、すべてが完璧だ。今から、俺はこの神剣を振るって、あの宕を斬る。あの宕の、萬年億年にも亘る呪いを解く。そして母を救い、地上の人間を救い・・・そして俺は、狩音のもとへと還る。
人間の、勝利だった。
宕の・・・滅亡だった。
そして四郎は、宕を斬るため、降魔の剣の鞘を払った。
柄を握ったとき、僅かな違和感を感じた。重さ、釣合い、すべてが完璧だ。しかしそれは、なにかが・・・なにかが違う。
そして、気づいた。
この柄は、金属製ではない。
木で、できている。
どこか覚えのある、どこか温もりのある木だ。
それは、たしか・・・自ら切り倒し、みずからが削って磨いた木だ。
その木で・・・樫の木で、自作した柄だ。
これは、青銅の柄ではない。
あの大きく四角い、粢鍔もついていない。
四郎は、悟った。
いま自分の手にしているものが、降魔の神剣などではなく、霜降の山の裏手で自作した、あの愛用の樫の木刀であると。




