第五十二章(後) 昭和三年(1928年)晩秋 米国 場所知れず
「フィル、もういいわ。ありがとう。」
エスターの声が言った。
「エスター、気をつけろよ。こいつはさっき、ダゴンの名を、タゴと言い直した。」
こちらは、あの忌々しいラブクラフトの声だ。
エスターが聞き返した。
「タゴ?なんのこと?」
「私にもわからない。だが、このしぶとい日本人は、われわれの知らないことを、もしかしたら何か知っているのかもしれないぞ。油断は、しないようにな。」
そう言い残すと、ラブクラフトはこの部屋を立ち去ったらしい。ギイと音がしてドアが開き、彼の靴音は遠ざかっていった。
部屋に残ったエスターは、ふっ、とため息をつくと、そのままベッドの上に横たわる浅野の太腿を、さわと撫でた。そしてまたため息をつくと、言った。
「さあ、サブ。わたしの・・・わたしの、可愛いサブちゃん。おめめを、開けなさいな。起きていることは知ってるの。」
言われたとおり、浅野はゆっくりと眼を開けた。そして、その前にあるものを見て驚いた。
窓の外一面に広がっていた、あの大きなダゴンの顔は無くなっていた。そこにあるのは、ただの暗闇。しかし、ベッドの脇に立つエスターの表情は、尋常なものではなかった。
服装は、あの魅惑的なエスターのそれと、なんら変わりない。その物腰、声、口調、なにも以前と変わりない。先ほど波止場でたまに飛ばした、あの地獄の底から響いてくるような威圧的な低い声ではない。
だが、彼女の顔は、まったく変わってしまっていた。
それはまるで、出刃包丁で断ち斬った魚の頭を、そのままエスターの胴体に載せたかのような異形の姿だった。耳の部分から割れたような口を頂点に、三角に出っ張った顔。その両脇に離れた、まん丸く小さい眼。その眼には瞼がなく、もちろん全くまたたきもしない。その膚は完全に鱗に覆われてはおらず、ところどころ、かつてのエスターの、白蝋のような膚がまだ貼り付いてはいた。口の上には、人間の鼻のようなものがひっつき、ふたつの孔を開けてはいた。頭頂部のところどころに、あの黒栗色の、艷やかだった美しい髪の残りが、まだ幾つか生え残ってはいた・・・。
だが、そのいずれもが、以前エスターだったものの、ただの残り滓であることは明らかであった。
浅野は、全身が恐怖で硬直し、まったく身動きすることができなかった。眼の前に立つ、このなにか異界の禍々しい魔物が、その手をそっと這わせ、顔のほうへ近づいてくるのを、ただ細かく身を竦ませながら、待つしかなかった。
エスターは、その表情のない魚の顔で浅野の顔を見つめ、愛おしそうにその身体を撫で廻した。そして、遂に浅野の顎に手を当て、そのまま這わせて頬を撫で上げ、耳の付根で、ピンとこすって手を離した。そして、言った。
「驚いたでしょう?」
本当に驚くべきことに、その魚の顔は、思念波ではなく、僅かに口を開いて、実際に発話したのだ。
「サブ・・・これが、私の真の姿なの。以前の私に抱いていたような感情を、今の私にも変わらず持ってくれたら嬉しいけれど。」
浅野の口は乾き、喉は砂漠の炎熱に灼かれたかのようにひりついていたが、なんとか、やっと口を開いて、こう言い返した。
「なんて醜さだ・・・まるで・・・まるで、バンパイア以上の魔物だ。」
エスターは、笑った。いや、笑ったように見えた。
「そうよね。素直に言ってくれて、ありがとう。あなたと私は、しょせん、まったく違う生きもの、全く違う種族なの。私は、『深きものたち』の子孫。そしてあなたは・・・そう、私たちの家畜だった存在の、末裔よ。いえ、正確に言うわね。私は、実は人間と深きものたちの混血なのよ。でもさらに、私は特別。普通は、生まれてきた時は人間の姿だけれど、加齢とともにゆっくりと変態していくの。だけれど私は、自分の意志によって自在に姿を変えることができる。それぞれ、数時間はかかるけれどもね。これでも、混血の合いの子たちのなかでは、一番上等な種族なのよ。ちなみに私の年齢は、おおよそ二百四十歳。」
「そうか。なんにせよ・・・私は、おまえたちの、餌なんだな?」
浅野は、精一杯の力を振り絞って、そう毒づいた。
「ええ。そうよ。別にわたしは、あなたを喰べないけれど・・・いえ、大昔に較べれば、あなたがた人間は、ずいぶんと強く、賢くなったわ。私たちでも、もしかしたらこの地上では敵わないかも。貴方もこれまで、ずいぶん手を焼かせてくれたしね。立派よ。でも・・・ダゴンには敵わない。ダゴンが貴方を欲しがる以上は、私も、貴方を救けられないの。なるべく苦痛と恐怖を感じさせないように、ダゴンの前に差し出すくらいのことしか、できないの・・・私の気持ち、どうか分かってね。」
「おまえの気持ちなど、知ったことじゃない!」
浅野は、叫んだ。叫んだつもりだったが、とても小さな声しか出なかった。
「だが、私を殺す前に、どういうことなのか、その理由だけは知りたい。そのくらいは、教えてくれてもいいだろう?」
エスターは、またため息をついた。そのため息は、実際に、かつてエスターの鼻だったふたつの孔から漏れているのだ。この悍ましい怪物は、しかし全身で残念そうな身振りをして、こう言った。
「ええ、いいわ。すべて教えてあげる。それが勇敢な家畜に対する、せめてもの餞だものね・・・でも、約束よ。そのあとは、私と一緒に、ずっとずっと海の底。」
エスターだったものは、そのまま、両腕を拡げて浅野に覆い被さってきた。
腥い海棲生物の匂いが鼻をついた。そしてそれは、浅野の耳元にこう囁きかけてきた。しかし、実際の発話ではなかった。それはあの、思念波だった。
「サブ・・・愛しい私の、サブ。黙ってそのまま、聞きなさいな。私は、貴方の心にそのまま語りかけているの。会話は、できないわ。貴方は、ただ私の言うことを聞くだけ。いいこと?でも、すべて教えてあげるわね。」
こう伝えてくると、浅野が着ていた、ラブクラフトのガウンを脱がせにかかった。浅野の全身を恐怖が突き抜け、激しく身を捩ったが、相変わらず身体は自由にならなかった。エスターは・・・エスターだったものは、魚の形をした口のまえに、しーっと人間の人差し指を立てて、その表情のない魚の眼で浅野の動きを抑えた。そして、こう続けた。
「昔、むかしのそのむかし・・・あなたの生まれた国の、西の端のほうに、シトギ・ジマという聖域があったの。そこは、関門海峡のすぐ裏側にある、それ自体が海峡のようになった島で、何枚かの大きな一枚岩が、そのまま向かい合って、垂直に海中からそそり立っていたの。島の周りには、ぐるぐると激しい海流が渦巻き、あなたがた人間の操る舟は、難所ということでこの島を避けていた。でもここは、ダゴンの棲み家でもあったのね。ダゴンは、もっと深い海の底に囚われていると思われていたけれど、実際に、この地球に幾つかある聖域にだけは移動できたのね。そして、シトギ・ジマでは、捧げられる生贄を受け取った・・・そして、それを掴まえて海中に引き摺りこみ、ばりばりと喰べてしまうのよ。ちょうど、これから貴方がそうなるようにね・・・おっと、ダメよ、動いちゃだめ。私たちは、ずっと一緒なんだから。」
こう伝えながら、腕を動かして、浅野の腹のあたりを押さえた。その感触は、すでに人間の手の指ではなく、なにか大きな鰭のようなものになっていた。
「でも、あるとき・・・今から五百年以上も昔のことだけれど、生贄として捧げられる筈だったある勇敢な若者が、ダゴンに刃向かったの。彼は、とある裏切者と結託して、地上に私たち深きものたちが苦労して築いた貢物のネットワークを破壊し、遂にはシトギ・ジマにまで殴り込んで、ダゴンをあわや倒す寸前まで行ったのよ。その試みは無謀すぎて、彼の野望は潰えたわ・・・だけれど、困ったことに、そのとき彼が手にしていた武器が海に落ちて、そのまま海底へ、斜めに突き刺さってしまったの・・・それは、その領域全体に、神道や仏教でいう結界を張るのと同じ意味があるのよ。そうなると、もうシトギ・ジマへ、ダゴンは出てこれなくなる。彼が持っていたのは、特別な武器でね。それよりも遥か昔に、別の神を斃したこともある神剣なの。ダゴンは当然のこと、安全をはかるためにそれを奪おうとした。だけれど、おそらく揉み合ってるうちに、ポトリと取り落としたのでしょうね。以降、シトギ・ジマは、ダゴンの聖域ではなくなったわ。」
ここでいったん思念波を切り、またあの魚臭い息を、ふうっと浅野の顔に吹きかけた。そして、今や完全に鰭に変態した腕で顔を愛おしそうに撫ぜ、話を続けた。
「彼は、勇敢だったそうよ・・・しぶとくて、タフで、そしてガッツがあって。ダゴンは、そういう餌が大好きなの。でも、その失敗で剣が結界を張り、シトギ・ジマにはなんの意味もなくなってしまった・・・そして島じたいが、その後に起きた大地震の結果、海に没してしまったわ。あなたがたの仲間が記した島の記録は、全く残っていない。そもそも彼らにとっては忘れたい記憶だったし。たとえ記録されていても、私たち深きものたちの仲間が、残らずそれを探し出して、記録した者とともにそれを容赦なく抹殺した筈だわ。」
浅野は、わずかに身体を動かすことができるようになってきた。だが今や、二本の脚のみを残してはいたが、どちらかといえばひとつの大きな両棲類と化したエスターの身体は、想像もできないほどの重量となってのしかかり、滑って、二人の身体は、まるで川を遡行する鮭が堰の手前で仲良く並んで流れにたゆたうように揺れ、同じように左右にくねった。
「ところがね・・・大異変が起きたの。その事件があってから数百年後、たぶん今からほんの百年ほど前のことよ。無名の漁師が、海底に斜めに突き刺さっていたその神剣を発見し、引き抜いて、地上に持って揚がってしまったの。これによって数百年もあたり一帯に張られていた結界が崩れ、貴方の国は、ふたたびダゴンの出てこれる危険地域になってしまった。危険、というのは、あなた方にとって、という意味だけれど。でもその時は、危険を察知したある勇敢な娘が、みずからの強い意志でダゴンに念を通じ、自ら生贄となって波間に飛び込むことで、ダゴンは一度、その怒りを解いたの。解いた、というのは、わずかの間だけ地上に手出しをしないという意味よ。その娘のことを、そして先ほどの勇敢な男のことを、あなた方の誰も知らないけれど。彼らが人知れず払った犠牲で、あなた方はなんとかまだ生きておられるのだわ・・・。誰もそのことに、気付きもしない。そして自分たちは、生まれついての地上の支配者だと思いこんでいる。なんと哀れな・・・でもそれも、あと僅かの間だけの勘違いよ。」
「その剣の行方は、そのあと杳として知れなかった。」
エスターは、そう思念波を通じてきた。
「どこか、この島国の外へ持ち出されたことはわかったけれど、行き先は英国か、オランダだろうと思われた。当時は、その両国の船が、ナガサキの周辺に頻繁に出没していたから・・・でも犯人は、意外な国の船乗りたちだった。ここアメリカの船よ。灯台もと暗し。まさに、当時ダゴン教のひとつの拠点となっていたセイラムに持ち込まれていたのだわ。オランダ船に化けた、ノーラという交易船でね。そしてその後、剣はその正体を知られぬまま、ただ珍奇な東洋の銅剣としてボストン周辺であちこちの人間どもの手に渡り、現在また行方がわからなくなっている・・・でも、もうすぐ見つけるわ。すぐ近くにまで迫っているという勘が働くのよ。そしてそれを手に入れたら、もうダゴンに、怖いものはなくなる。そして、それを予感してまた活発に活動を始めたダゴンは、水底深くから私たちにさまざまな意思を伝えてきた・・・そのなかで、また新たな生贄を捧げるように要求してきたの。あの、かつての勇敢な若者のように、無茶苦茶で、興味をもったことへただ猪のように突進し、あとさき省みない、でもとても頭のいい餌ね。そこで選ばれたのが、あなたよ。まさに的確な人選だった。貴方は、いくつもの謎や障壁に挑み、みごとにそれを突破し、なんどか私たちを焦らせて・・・そして最後は、こうして予定どおりのコースに戻ってきてくれた。本当に、完璧な餌よ。ダゴンもきっとご満悦だわ。だから、私も幸せ。本当に愛してるわ、サブ!」
「ちくしょうめ!」
浅野は、言った。ついに見えない縛めがほどけ、大きな声が出た。
「厚東四郎は、私の友達だ。いや、わたし自身だ!彼がやれなかったのなら、俺がやる!俺がダゴンを斃してやる!ついでに、お前だ!」
瞬間、エスターの身体が、硬直したようにびりびりするのを、浅野は感じた。
「あなた、なぜその名を知っているの!」
エスターは驚き、そう伝えてきたが、浅野は無視した。無視して身を捩り、必死に抵抗して暴れたが、エスターの滑りのある身体は、そんな浅野にぴたりと貼り付いて離れない。それどころか、その重量がより一層グイと重くのしかかり、浅野は息すら苦しくなってきた。
「そうか・・・そうだ、先ほどフィルが警告していたこと!あなた、なにか知っているのね?誰かの助けを得ているのね?この、私たちダゴンのことを知る裏切者に。言いなさい、それは誰なの?」
「おあいにくさま。どうせ餌にされるのなら、言うものか!この、役立たずの使い走りが・・・むしろ、ダゴンの前で、奴に言ってやる!このエスターは、裏切者の存在にも気づかない、とんでもない役立たずだ、ってな。」
浅野は、切れ切れになった声で、なんとかそう毒づいた。
憤怒にかられたエスターは、それまで多少は手加減していたその締め付けを、グッときつくして来た。喉に鰭と化した腕が絡み付き、ぬらりとした感触を伴ったまま喉仏を押し、さらに鳩尾に膝が入ってグイグイと圧迫してきた。もはや完全に息ができなくなり、浅野の塞がれた口の中へ胃液が戻り、ぐるぐると渦を巻きながら、いちめんに苦い味が広がった。
「そう・・・いいわ。あなたがその気なら、私にだって覚悟がある。あなたを生きたまま差し出すのがダゴンの命令だけど、そんなこと、あたし次第だわ!もし死肉がまずいと奴が言うのなら、また次の生餌を差し出せばいいだけのことよ!あんたを・・・おまえを・・・このまま、バラバラにしてやる!いいか、このたわけ者!貴様を、まるでシカゴの食肉工場に吊るされた豚のようにしてやる!このまま締め付けて、気を喪わせて、鉄のフックを口に直接ブッ刺して、上から吊るしてやる!そのまま、生きたまま腹を裂いて、中身を全部、床にぶちまけてやる!貴様は、それを見るのだ、自分の眼で見るのだ!そして陰茎を切り取り、おまえの眼の前で、むしゃむしゃと喰ってやる!そのあと腕を切り、脚を切り・・・おまえを芋虫のようにしてから、最後に眼球をえぐり出してやる!安心しろ、耳も潰してやるし、舌も抜いてやるよ。厚東四郎のことを知っているなら、阿弥陀の芳一のことも知っているだろう・・・ちょうど、奴のように、いや、奴よりも惨めな姿にして、それからダゴンに喰わせてやる。しょせん・・・しょせん、おまえたちは我らの食肉に過ぎぬのだ!」
エスターの・・・いや、エスターだったものの、その地獄の底から響いてくるような呪詛を彼方で聞きながら、浅野の意識はゆっくりと遠のき始めた。
ピイイと、どこからか、あの懐かしい石笛の音が響いてきた。
・・・浅野の脳裏を、ふたたび、昔見た光景が走馬灯のように・・・いや。
のしかかる、大きな頬の膨れた魚のようなエスターの頭の向こう側に、小さな人影が映っていた。
それは、ほんの少しの間だけ。とても小さな子どもの影で、上古の童子の如き姿である。角髪のような髪型で、絹の豪奢な水干を着て、童子に似合わぬ冷厳な眼で、まっすぐ浅野を見つめていた。
その子は、エスターの頭越しに、まっすぐ浅野のほうを指さしていた。いや、真っ直ぐではなく、その差す指先は、僅かに浅野の右側に傾いでいた。
あれは、なんだ・・・あれは、誰だ?
どこかで、見たことがある。それも数回。薄れゆく意識のなかで、浅野は必死に思い出そうとした。そして、遥か遠くになりつつあった記憶のほうから、蘇ってきた。あれは・・・写真に写っていた貌だ!たしか、ハムステッドのあの気分のいい明るい宿で、無邪気なスコッティと一緒に見た写真だ。
クルー・サークルで、ウィリアム・ホープの撮影した数枚のポートレートに、亡き母親と思しき形をなす曖昧な靄と、もうひとつ、この童子の顔が写っていたのだ。そのときは、それが誰なのか見当もつかず、まったく覚えがなかった。自分の息子たちの顔ではない。そもそも、それが男の子なのか女の子なのかもわからなかった。
あのときの顔だ!あのときの貌だ!
そして、もう一回。
もう一回、浅野はこの顔を見ている。それも、つい最近。最近だったのだが、その記憶はなぜか間に一枚の紙が挟まったかのように間接的で、曖昧な記憶だった。そして、ほどなく、その理由がわかった。
阿弥陀寺だ!
阿弥陀寺で、無数の屍鬼たちに取り囲まれ、進退窮まったあのとき。
勝利の哄笑を上げる大臣の頭越しに、まっすぐ四郎の腰を指さしていた、あの童子だ。あの童子の顔だ!そのときも、どこかで見覚えがあると思っていたが、その顔は、夢の世界を越えたこの現実界で、実際に写真に写っていた顔だったのだ。
だから、阿弥陀寺でのその子の顔は、見たのがつい最近でも、どこかほのかに遠い記憶なのである。なぜならそれは・・・浅野ではなく、厚東四郎の見ていた風景だったのだから。
そして・・・その子は、なにを指さしていた?
浅野は、必死で思い返そうとした。その子は・・・浅野の、いや四郎の、腰のあたりを指さしていた。まっすぐ指差していた。
そして、そこに・・・そこに在ったものとは?




